3
アリン・チタが「現身さま」と呼ばれるようになったのは、二年ほど前のことだった。地鳴りの翌日で、街の人々がみな不安そうな顔をしていたのを覚えている。
祖母に言いつけられて
確か、あの時は露店で
──空が割れて、そこから大きな瞳が覗きこんでいた。
とっさに、昨日の地鳴りはあの瞳の主が起こしたものなのだろうと思った。でも、あれは何者なんだ──? どうにも答えが出なくて思考が袋小路に入ったとき、周囲の喧騒によって意識を引き上げられたのを感じた。見渡すと「恐慌」という言葉が相応しい有様だった。ある者は空が落ちてくると叫んで手近な建物に隠れようとし、ある者はいっしんに
自分だけ呆けているわけにはいかない。お祖母様のところに戻ろう。そう考えて駆けだした。どこかへ逃げるにしても、この街で天命を待つにしても、女手一人で育ててくれた彼女を置き去りにするわけにはいかない。正直言って、どうすればいいのか見当もつかなかった。家へ走って帰る途中、何度も足がもつれて人とぶつかりそうになる。
「お祖母様!」
マゥカ・ハトゥンは孫のただならぬ様子に、調子の悪い腰を上げて駆け寄った。
「どうしたんだい。そんなに慌てて。何か良くないことが?」
「空に、目が」
老女はアリン・チタの言葉を測りかねたらしい。「とりあえず、外まで来てください。見ればきっと、分かりますから」彼女は壁に手を突きながら、痩せ衰えた体に鞭を打って歩き出した。
あの瞳の持ち主はきっとその気になればこの街を一掴みで潰すことだって出来るだろうと、アリン・チタは祖母を待ちながら考えた。この世の滅び、なんて言葉が脳裏を過る。
祖母はしばらく静かにそれを見つめていた。やがておもむろに跪くと、祈りの言葉を唱え始めた。目の縁からは潸然と涙が下っている。ときおり「ああ、ああ」と溜め息を挟んで、
「ウィラコチャよ、我らをお迎えに来てくださったのですね。ああ、ああ、神よ。あなたの御世がやって来るのですね。クスコの圧政から、我らを解放してくださるときが!」
今思えば、祖母はこのとき魅入られてしまったのだろう。マゥカ・ハトゥンは目を神と呼んだ。ひとしきり祈り終えると彼女は孫息子の肩を掴んで「神様は私たちを見捨てなかったんだねぇ。アリン・チタ、おまえは神様のうつしみなんだよ。ほら、水瓶の中をご覧。あの瞳と同じだろう。きれいな、きれいな瞳だ。ああ、なんて美しいんだろう! みんな言い伝えの通りだ!」
祖母の様変わりを見て、この人は、いったい誰なのだろうと思った。元々の彼女は寡黙なひとだった。こんな熱に浮かされたような声のひとではない。アリン・チタはたじろいで、結局何も言えなかった。
多くの人が安息の地を求めて街を離れていく中、マゥカ・ハトゥンは孫と共に残ることにした。別段、おかしな判断でもない。彼女はあの瞳を神と崇めていたのだから。
彼女はアリン・チタが神の現身であることを喧伝した。あれはウィラコチャと言ってこの世を創り出した本当の神であると、彼はクスコの支配から世界を救うために下界に降り立ったのだと。ああ、ああ、本当に慈悲深い御方なのだよ。証拠に彼は、人々を不安にさせないように私の孫を使いとして選んでくださった。
病人や身動きの取れない家族を抱えていたがためにロントの街に残った人々にとって、そんな老女の言葉は救いのように思われた。
マゥカ・ハトゥンは人々を指揮して礼拝所を建てた。とても少し前まで腰を壊して歩くこともままならなかった老婆とは思えないほどに矍鑠とした姿で。
何かがおかしいと、アリン・チタは思った。けれど、どうすることが正解なのか分からないままに流されて、今こうして「現身さま」として担ぎ上げられている。ただ、どうしようもない焦燥感と、嫌な夢が毎日のように警告してくるのだ。
このままではすべて手遅れになると。
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