噂の吸血鬼の妻になりまして

宵月碧

噂の吸血鬼の妻になりまして

 

 吸血鬼が棲むと噂されている城にネリネ・ボウデニーが嫁いだのは、彼女が僅か十二歳の時だった。


 純真な心をその新緑の瞳に宿したまま、少女ネリネは周囲を断崖絶壁に囲まれた岩山の上に建つ城に住む、アベル・ホープレイズのもとへと嫁いだ。顔も年齢も分からない相手との婚姻は、十二歳の少女にとってはただただ不安であり、恐ろしいものでしかなかった。

 城に続く険しい道を馬車で向かう道すがら、実のところネリネはひとつの悲劇に見舞われていたのだが、吸血鬼と噂される男の妻となった今では、そんな悲劇はいつの間にか記憶の片隅に追いやってしまっていた。



「ねえ、アベル様はどこにいらっしゃるの?」


 小鳥の囀りのようなネリネの美声が、脇に佇む使用人の女性であるカルーナへと向けられた。


「旦那様は只今執務室にいらっしゃいます」


「そう……。また夕食の時間まで会えないのね」


 ソファに腰掛けていたネリネは小さく息を漏らして、カーテンの開かれた窓の方へぼんやりとした視線を送る。


 ネリネが嫁いだ日から気付けば六年の歳月が流れ、あどけなかった少女は十八歳の立派な淑女へと成長していた。


 そう。もう十八歳。何も知らなかった、あの頃のネリネはもういない。


 ネリネが生まれ育った町の貴族であるホープレイズ家との婚姻は、言わば生贄のようなものであったということも、今のネリネは知っている。町の若い娘が一人、また一人と姿を消し、血の抜かれた亡骸が町の外れにある森に転がっていたその原因が、ホープレイズ家の吸血鬼の仕業だと言われていることも、知っている。町の娘をこれ以上食糧にされないために、ネリネという美しく純粋な少女を、結婚相手としてアベル・ホープレイズに捧げたということも。


 すべて、分かっていた。

 この城に嫁いできた瞬間から、自分という存在は髪の毛一本でさえも、アベルという男のものであるのだと。


 それなのに、だ。


「そろそろアベル様の跡継ぎのお顔を、見てみたいわよね」


 窓の外を眺めながら、ネリネは誰に言うでもなく小さく呟いた。脇に控えているカルーナは聞き慣れたネリネの独り言に、返事をすることはない。


 ネリネが嫁いだ日の夜、寝室で待つネリネの前に現れた夫のアベルは、特に何をするでもなく、一言二言会話をしたあと、すぐに部屋から出て行ってしまった。妻になったばかりのネリネに指一本触れることなく。あの当時はまだ十二歳の子どもであったネリネに気を遣ったのかもしれないが、今はもう十八歳だ。


 今だに指一本触れないというのはいかがなものか。

 このままでは一生、夫婦の義務を果たせないのではないか。


「こうなったら、夜まで待っていられないわ」


 ネリネはすくっと勢いよく立ち上がり、走り出したい気持ちを抑えて淑女らしく落ち着いた足取りで扉へと向かう。


「奥様、どちらへ行かれるのですか」


「アベル様のところよ」


「執務室への立ち入りは、禁じられているではありませんか」


「関係ないわ。妻を放っておく、旦那様が悪いのよ」


 慎ましく整った顔に品の良い笑みを浮かべたネリネは、困ったように肩を竦めるカルーナを伴って自室を後にした。


 城の廊下は夕暮れ時にはまだ早いというのに薄暗く、人の気配を感じさせない不気味な静けさに包まれている。二人分の足音と、歩く度にドレスの生地が擦れる音だけが響く、このしっとりと湿った空気が、ネリネはお気に入りだった。

 吸血鬼の城だと囁かれても仕方のない、暗く怪しげな雰囲気。幽霊や化け物が、どこからともなく現れて、突然ネリネを襲ってくるかもしれない。そんな妄想を頭の中で繰り返しては、どきどきと心を弾ませた。この退屈な城の中では、ネリネにとってのささやかなお遊びのひとつでもあった。


 執務室の扉の前で、ふうっと一度深い呼吸をする。朝目を覚ましてから、夫と顔を合わせるのはこれが最初になる。この瞬間は、いつも胸が少し高鳴るのだ。不思議な気持ちだった。


 扉を数回控えめにノックすると、部屋の中から「誰だ?」という低い声が聞こえてきた。


「アベル様、ネリネです。入ってもよろしいでしょうか」


 そう訊ねると、執務室の扉が開いた。無表情で扉を抑えているアベルの側近の男を見上げ、ネリネはにこりと微笑む。察しの良い男が一礼と共に部屋を出て行き、執務室にはネリネとその使用人であるカルーナ、扉の向かい側に座るこの城の主だけとなった。


「ネリネ……また来たのか」


「アベル様、お茶を持ってきましたの。一息つかれてはいかがでしょうか」


 溜め息混じりのアベルの言葉をまるで気にした様子もなく、ローテーブルを挟んで向かい合わせに置かれたソファの片方にネリネは腰を下ろした。ネリネが座るとカルーナが手にしていたカップをテーブルにふたつ並べ、ティーポットから紅茶を注ぎ入れる。湯気とともに茶葉の香りが漂い、ネリネは笑みを浮かべてアベルを見た。


「さあ、アベル様。ご一緒に」


 有無を言わせぬにこやかな笑みにアベルは諦めたようにデスクから離れると、ネリネの向かい側に座った。アベルが座ったのを確認してカルーナが執務室から出て行き、夫婦二人きりの時間が訪れる。


 渋々といった様子で紅茶を口に運ぶアベルの姿を、ネリネはじっと見つめた。


 日に透けてしまいそうな色白の肌に、柔らかそうなダークブロンドの髪。伏せた睫毛から覗く血のように紅く美しい瞳こそが、アベルが吸血鬼と恐れられるひとつの所以ゆえんでもある。見た目は二十代後半ぐらいの生真面目そうな男だが、本当のところはネリネには分からない。

 西日を遮るように閉じられたカーテンのせいで、執務室までなんだか薄暗い。アベルの色白の肌が更に浮き立って見えるようだった。


「ネリネ。仕事があるから、執務室には来ないように言っていただろう」


 ネリネの熱い視線を避けるように目を伏せたまま、アベルが短く息を吐く。


「まあ。ですがアベル様。私が会いに来なければ、丸一日お顔を見れないこともあるじゃありませんか」


「……夕食はできるだけ共に過ごしているだろう」


「それでは足りません」


 きっぱりと言ってのけたネリネに、アベルは眉を顰めた。逡巡するように瞳を横に流したあと、手にしていたカップをテーブルに置く。


「その先も……訊いたほうがいいのか?」


「訊いてくださいませ、アベル様」


「では……どうしたらいいのだ」


 アベルの質問に、ネリネは満面の笑みを作って見せた。


「そろそろ二人の寝室を一緒にいたしましょう。皆さんきっと、私達の子どもを心待ちにしていますよ」


 嬉しそうに声を弾ませるネリネとは真逆に、アベルの表情はますます険しくなった。最早隠す気もなく大袈裟に溜め息をついている。


「ネリネ」


「はい、アベル様」


「……同じやり取りを毎回繰り返しても、不毛だと思わないのか?」


 よく響くアベルの低い声に、ネリネはきょとんとした顔で目を瞬いた。


「いいえ、まったく。昨日と今日、今日と明日で、アベル様のお気持ちが変わっているかもしれないじゃありませんか。同じ質問をしても、明日返ってくる言葉は同じとは限りません」


 そう言ってネリネが目を細めると、アベルは黙り込んだ。真意を探るような紅い瞳でネリネを数秒の間見据えていたが、すぐにまたその薄い唇から短い息を漏らしてテーブルに置いてあるカップへと手を伸ばした。


「……分かった。今夜、私がキミの部屋に行こう。寝室を一緒にするのは、少しずつ様子をみて決めていけばいい」


「え……よろしいんですか……?」


「ああ」


 思いがけないアベルの返答にネリネは目を丸くする。こうして執務室に足を運ぶ度に繰り返されてきたこの不毛なやり取りは、アベルからの断りの返事で毎回幕を閉じていたからだ。それがまさか、とうとう望んでいた返事をもらえることになるなんて。


「嬉しい……!」


 ネリネは両手を胸の前で合わせて喜びを露わにすると、勢いよく立ち上がった。


「そうと決まれば、早くお部屋に戻って準備をしなくてはいけません」


「ネリネ……準備はいいから」


「いいえ、そういうわけにはいきません。アベル様、ご夕食はご一緒できますか?」


「いや……仕事があるから、今日はここで食べるよ」


「そうですか……では、私はこれで失礼いたします。お仕事の邪魔をしてしまってごめんなさい」


「ネリネ」


 足早に執務室を出て行こうとしたネリネはアベルの穏やかな声に呼び止められ、扉の前で振り返った。


「なんでしょうか? アベル様」


「……顔色が悪い。きちんと食事をとっているのか?」


 これまた予想もしていなかったアベルからの気遣いに、ネリネは思わず自身の細い指で頬に触れた。鏡で自分の顔を見たときは、顔色が悪いなどと感じることはなかったはずだ。


「ふふ、食事は毎回きちんとしていますよ。心配でしたら、ご一緒してくださいませ」


「いや……食べているならいいんだ」


「お気遣いありがとうございます」


 表情ひとつ変えないアベルへとネリネは微笑むと、静かに執務室を後にした。



 ◇



 血を抜かれたウサギの亡骸が、城の近くで見つかったらしい。


 使用人の囁き声は、ネリネの耳にも届いていた。この城に来てから何度となく聞いたその声に、体がぞくりと震えた。この震えは、恐怖だろうか。何に対しての? 自分の夫であるアベル・ホープレイズに対してだろうか?


「奥様、お綺麗ですよ。旦那様もお喜びになられます」


 今夜はアベルが部屋に来る。

 ネリネは早めに夕食をとり、カルーナに手伝ってもらいながら念入りに準備をした。体を綺麗に磨き上げ、香油を塗り込み、プラチナブロンドの長い髪をいつもより丁寧に梳かした。鎖骨の辺りを少し露出した程よく色気のある寝間着のドレスも着ている。準備は万端だ。


 カーテンを開いた窓からは月明りが入り込み、この日の夜はいつもより明るかった。


 ネリネは一人ベッドに腰掛け、アベルが来るのを今か今かと待ち望む。夫婦になってから、初めて夜を共に過ごす。この日をずっと、待っていた。


 アベル・ホープレイズという男は、不思議な人だった。吸血鬼だと恐れられてはいるが、ネリネは彼が誰かの血を啜ったり、聖職者を恐れたり、十字架を嫌がったりしている姿など見たことがない。執務室のカーテンは行く度に閉まっているが、陽の光を特別避けているという雰囲気でもない。もちろん、ネリネ自身がアベルに襲われるというようなこともない。

 一体どうしてアベルは吸血鬼などと言われているのだろうか。

 ネリネがこの城に嫁いでから、血の抜かれた若い女性の亡骸が見つかることはなくなったらしい。その代わりに、動物の亡骸が見つかるようになった。


「ネリネ、入るぞ」


 その声のあとに扉が開いて寝間着姿のアベルが室内に入って来ると、ネリネはびくりと肩を弾ませた。


「アベル様……私の返事を聞いてから扉を開けてください」


「私のことを待っていたのだから、別に構わないだろう」


 なんの悪気もなくそう言うアベルを見て、ネリネは不満げに唇を結ぶ。


「まだ幼い子どものようだな、キミは」


「アベル様! 私はもう立派な大人の女性です!」


 ムキになって言葉を返せば、アベルはふっと口元を緩めた。


「それじゃあネリネ、隣に座ってもよろしいかな?」


「……どうぞ」


 恥ずかしくなって身を縮めたネリネの横に、アベルが腰を下ろす。きしりと軋んだベッドの音が、静寂した室内に響いた。

 触れてもいないのに隣に感じる熱に、ネリネの心臓は不自然なくらいに鼓動を速めた。このどきどきの正体を、ネリネは知らない。


「ネリネ」


「は、はい」


「キミは、私のことが恐ろしくないのか?」


 突然の問い掛けにネリネは俯いていた顔をあげ、隣に座るアベルを見た。

 月明かりだけが彼の顔を照らし、夜に浮かびあがるような真っ赤な瞳が、ネリネの姿を映している。


 金縛りにでもあったかのように、身動きひとつせずネリネはアベルの瞳を見つめた。



 ──……恐ろしい。


 本当は、怖くて堪らない。


 でも、怖いのは……恐ろしいのは……



 ネリネの揺れる瞳を気遣うように、温かいアベルの手が頬に触れた。


 ゆっくりとアベルの顔が、瞳が、ネリネを捉えたまま近付いてくる。逃げることも避けることもできずに身を固くしているネリネの耳に、そっとアベルの吐息がかかった。


「ネリネ──……キミは一体、何者なんだい?」


 耳に触れた熱に、ネリネは目を見開いた。


「どうして……そんなことを……」


 顔を見合わせ、ネリネの唇が震える。

 早鐘のように鼓動する耳障りな心臓の音は、誰の音?


 ネリネの頬を包むアベルの右手が優しく動き、親指がそっと震える唇をなぞった。


「ネリネ……いや……、キミは、ネリネ・ボウデニーではないね?」


 確信を込めたアベルの言葉に、ネリネは思わず飛び退いた。アベルの腰掛けるベッドから距離を取り、毛を逆立てた猫のように後退る。


「なぜ──……」


「最初から気付いていたんだ。キミがこの城に来た、六年前からずっと」


 いつもと変わらない静かな口調でアベルは言うと、自分の右目を隠すように手で覆った。


「私のこの紅い瞳は、ただの瞳じゃない。人ではないモノを見極めることができてしまう、特殊な目だ」


 だから、と続けたアベルは、立ち尽くすネリネへと視線を送る。


「キミが人ではない別の何かだと、私は知っている」


 射抜くようなアベルの瞳に、ネリネは息を呑んだ。


 気付かれていた? 最初からずっと?

 完璧にネリネ・ボウデニーを演じていたはずなのに。


 心臓の鼓動が、やけにうるさい。それが自分自身のものだと気付いたネリネは、ぎゅっと胸元の服を握り締めた。


「……キミが城に来た次の日、崖の下で少女の亡骸を見つけた。あの日のキミと同じ年頃の……血の抜かれた少女の亡骸だ」


 目を伏せたアベルの口から出た言葉に、ネリネは突然、すっと冷静になった。うるさかった心臓の鼓動が、いつもと同じ脈を刻み始める。


「どうして……そこまで分かっていて、私を放っておいたの? 私の正体に気付いていたのでしょう?」


 体の震えは、完全に止まっていた。月明りを背にベッドに腰掛けたまま動かないアベルを見つめ、ネリネは疑問を投げる。そうでなくても普段から分からないアベルという男のことが、今はもっと分からなかった。


「キミが……何もしなかったから」


「え?」


「キミが城の者を襲うようなことがあれば、すぐさま追い出すか、殺す手段を考えていた。だがキミは、この城に来てから誰一人として襲うことはなかった。それどころか、本当にただの純粋な少女として振る舞う姿が、私には不思議でしかなかった」


 アベルの声にはネリネに対する敵意も恐怖も感じられない。いや、そんなものは、最初からなかった。アベルがそれらの感情をどこかで抱いていれば、ネリネは間違いなく気が付いていただろう。


 ネリネの脳裏に、美しい少女の笑みが蘇る。幼く純粋な、美しい少女の笑みだ。あの微笑みを穢すことなど、誰にもできない。



「……は、そんなことしないから」


 ぽつりと、口を衝いて言葉が出た。


「私の知ってるネリネは、人を襲ったりなんてしないから。それに……生贄ネリネがいるのに死人が出れば、貴方の立場が悪くなる」


 驚いたように目を丸くするアベルの姿に、ネリネは小さく息を漏らした。もう隠したところで、すべて無駄なのだと悟った。


「ネリネはね、とても優しい子だった。私はあの子と話す時間が楽しくて、一緒にいる時間が……多分、好きだったのだと思う。ネリネが馬車に乗って貴方のもとに嫁ぐ日、私は気まぐれにネリネの前に姿を見せた」


 思い出すのは走る馬車の中。片隅で小さい体を更に縮めて、震える少女の姿。


「ネリネは怯えていたの。冷徹な吸血鬼だと噂される、アベル・ホープレイズのもとに嫁ぐことに。町の若い娘達のように、自分も食われて死ぬのだと」


 でも、そんなことはないと知っていた。

 アベル・ホープレイズが例え同胞だったとしても、町の娘を食い荒らしていたのは、間違いなくアベルではなかったからだ。


「なぜネリネがそんなに怯えているのか、私には分からなかった」


 そして、悲劇はおきた。


 走る馬車から飛び降りる少女の姿が、今でもネリネの記憶の中に残っている。


「ネリネは死んだ。馬車から飛び降りて、自ら命を絶った。動かなくなったネリネを見て、私は……」


 初めて、死がなんなのか理解した。


「動かなくなったネリネの血は、私がすべて吸い尽くした。そして……私はネリネになった。ネリネが嫁ぐはずだった男のもとに行って、知りたかった。ネリネがどんな人生を送るはずだったのか」


 そこまで言ってネリネは感情のない冷たい瞳をアベルに向けた。


「貴方がネリネを苦しめるような男なら、その喉を噛みちぎって食い殺してやるつもりだった」


 しかし、ネリネにとって想定外のことが起こった。殺意と思い違いの憎悪を抱いて顔を合わせたアベル・ホープレイズという人物は、なんの害もない、ただの人間の男だった。


ネリネに指一本でも触れたら殺してやろうと思っていたのに……貴方は私に触れるどころか、とても……とても、優しかった……この六年間、ずっと……」


 ネリネはそこで言葉を詰まらせると、ただ黙って話を聞いていたアベルの元へ、一歩ずつ近づいた。アベルの目の前で彼を見下ろし、唇を歪める。月明りが照らすネリネの瞳は、冷徹な獣のようにぎらぎらと光っていた。


「貴方が優しい男だと最初から分かっていれば、今の私の幸せは……すべてネリネのものだったのに。私が……貴方を吸血鬼にさえしていなければ……っ」


 アベルが吸血鬼だと言われていたのは、ネリネがこの一帯を住処にし、人間を食らっていたからだ。不気味な城に住む、瞳の紅い、謎だらけの男。まさに吸血鬼に相応しい。


「ネリネ……私が吸血鬼だと言われていたのは、キミのせいじゃない」


「うるさいっ……!」


 発狂したような金切り声でネリネは叫ぶと、アベルの肩を掴んでそのままベッドに押し倒した。息を荒げてアベルの上に跨り、髪を乱して首を横に振る。


「どうであっても、もう遅い……っ! 貴方には、知られたくなかったのにっ……。正体を知られたら、もう、貴方を殺すしかないっ……」


 怒りと、訳の分からない感情が、ネリネの心臓を鷲掴んだ。人間を餌としか見て来なかった長い年月で、こんなにもぐちゃぐちゃの感情になったのは初めてだった。


 ベッドに押し倒されても相変わらず表情ひとつ変えずにネリネを見上げていたアベルが、その薄い唇に柔らかい笑みを浮かべた。


「ネリネ。私は、キミになら食べられてもいいと思っている。だから今夜、キミの部屋に来た」


「え──……?」


 見えない衝撃に打たれたように黙り込むネリネを他所に、アベルの指先がネリネの頬に触れる。


「本当は、食事が足りていないんだろ? 最近は小動物の死骸ばかりが見つかる。キミが飢えに苦しんでいることには、薄々気付いていた」


 ネリネの瞳が大きく揺れた。飢えた獣に気付いていながら無防備に己を晒し、甘美な言葉を紡いで誘惑してくる餌が目の前にいる。


「本気なの……アベル……?」


「こんなことで、嘘は言わない。でも、そうだな……食べる前に、キスしてくれないか。一度でいいから、キミとキスがしたい」


 予想もしていなかったアベルの最期の願いに、ネリネは眉を顰めた。なんとか理解しようと彼の言葉を反芻しているうちに、頬が熱を帯びていく。


「そうね……いいわよ。まだ、夫婦だもの。キスして、終わりましょう。貴方には感謝しているから、苦しまないように、終わらせてあげる」


「それは、有難いね」


「目を……閉じてよ。私を見ないで」


「……どうぞ」


 言われた通りに目を閉じたアベルの顔を、そっと覗き込む。色白の肌が、月の光で透けているように見える。アベルの髪と同じ色の長い睫毛を見つめて、ネリネはゆっくりと顔を近付けた。ずっと触れてみたかったアベルの唇に、自分の唇を重ねる。


 永遠でいて儚い、純粋な少女のキス。


 優しく触れるだけのキスを交わして、ネリネはアベルの首筋に唇を寄せた。彼の肌の匂いと、血の流れを感じる。少女にはあるはずのない鋭い牙を、アベルの肌へと押し付けた。



「──……ネリネ?」


 込み上げた熱が、雫となってアベルの頬を打ち付けた。ぽろぽろと零れ落ちる無数の涙の意味を、ネリネはもう知っていた。


「血を吸い尽くせば……貴方も動かなくなってしまうのね……」


「ネリネ……」


「無理よ……貴方を食べるなんて……私にはできないっ……」


 涙の意味に気付いていても、涙の止め方は知らなかった。

 全身を震わせて静かに涙を零すネリネを見て、アベルは上体を起こした。


「ネリネ。ネリネ・ボウデニー」


 顔を両手で覆っていたネリネは、その呼びかけに濡れた目を上げた。


「私の妻、ネリネ。まだ見ぬこの先の人生も、キミを幸せにすると誓うよ。が歩むはずだった人生を、私が幸福にしてみせるよ」


 柔らかい響きを伴ったアベルの言葉に、ネリネの見開かれた大きな瞳を再び透明な膜が覆った。


 なんて、甘美な響きだろうか。血を与えられる喜びよりも、幸福なことがあるなんて。


…… ……っ、もう充分幸せですよっ……アベル様」


 涙を零して微笑むネリネの瞼に、アベルの唇が触れる。彼の両腕にネリネの華奢な体が包まれると、温かい胸に顔を埋めた。


 初めて知る、温もりだった。



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