第70話 皇女様は今日も可愛い
「ヴァルトルーネ皇女殿下と呼ぶことを禁じます!」
そう言われ、俺はここぞとばかりに戸惑った。
えっ……名前を呼ぶなってことだろうか。
そこまで怒らせた覚えはない。……いや、覚えがなくとも、ヴァルトルーネ皇女には不快に感じたことがあるのかもしれない。
自分が傷つけているつもりはなくとも、それを受け取った者からしたら、心を抉られるというようなことは往々にしてある。
──ならばここは、
「申し訳ありませんでした」
土下座で詫びるしかない。
床に頭を付けて詫びる……が、ヴァルトルーネ皇女はあたふたとしている。
「な、何をしているの。頭を上げなさい」
「いえ、非礼は詫びなければなりません」
「私は、貴方に謝られるようなことされてないわ!」
──なんだろう。話が食い違っているような気がする。
何か大きなスレ違いがあるのかもしれない。
俺の肩に手を置いて、立ち上がって欲しそうな瞳を向けてくるヴァルトルーネ皇女を見て、俺は瞬時に頭を上げる。
これはちゃんと話し合うべきことなのかもしれないな。
▼▼▼
結論から言うと、今のは完全に俺が誤解していただけであった。
ヴァルトルーネ皇女は怒っていたというわけではない。
「ごめんなさい。私の説明不足だったわ」
逆にこうして謝られてしまう始末。
申し訳ないのはこちらの方だ。
「いえ、貴女様の言葉の意図を把握しきれなかった俺の責任です。専属騎士失格かもしれません……」
「そんなことないわよ……というか、その貴女様というのも禁止」
「────っ!」
互いの誤解は解けたものの、この話題はまだ続く。
ヴァルトルーネ皇女は、どうやら俺に、もっと砕けた感じに呼んで欲しいらしい。
『ヴァルトルーネ皇女殿下』は禁止。
『貴女様』も禁止。
どんどん俺の使える言葉に制限がかかっている。
しかも、ヴァルトルーネ皇女のことをそれ以外どう呼べばいいのか俺には分からない。
「あの、差し支えなければ……例、と言いますか。どうお呼びすればいいのかを教えて頂けませんか?」
彼女は瞳を閉じて、考える。
いや、その仕草を取るには些か無理がある。なんというか、もう既に彼女の中で答えは出ているような感じだ。
言うか、言わないか。
それを迷っているような雰囲気だった。
「その……」
言葉はそれっきり途切れる。
顔は真っ赤。
そんな反応になるとは思わなかったから、俺も余計に緊張してきてしまう。
「だから──私のことは、えっと」
「…………」
続く言葉を待ち、やがてブンブンと首を振ったヴァルトルーネ皇女は小声で呟いた。
「ルーネ……とか、呼んで欲しい」
──ルーネ⁉︎
え、あっ……愛称呼び?
話の流れ的には何も不自然な箇所はなかった。
ただ、そんな呼び方が許されるなんて思っていなかったから、その可能性は完全に抜け落ちていた。
「あの、ヴァルト……」
「ルーネって! …………呼んでよ」
その顔は普段の堂々としたものではなく、年端も行かない普通の女の子のものであった。
そんな顔をされてしまっては、断れるはずもない。
無礼ではないか、本当にいいのか……葛藤が心の中で巻き起こるが、俺はその後、
「ル、ルーネ…………様」
辿々しくそう言う。
『様』と最後に付けてしまうのは許して欲しい。
今の俺にとってはこれが精一杯であった。
こんなに緊張したことが今まであっただろうか。戦いの中での緊迫感とはまた違う。
……命の奪い合いをしているわけじゃないのに、心臓をギュッと握られるような異様な感覚。
抱いた気持ちはきっとこれが初めて。
関係が壊れてしまわないか怖くて。
それでも、彼女ともっと仲良くなりたいと思ったりもする。
「えっとアルディア……私もその、貴方のこと『アル』って呼んでいいかしら? べ、別に変な意味はないの。けど、せっかく貴方が専属騎士になったんだもの、フルネーム呼びは、ちょっと違う気がするから……」
その提案を蹴る理由はない。
「もちろんです。私は貴女の……ルーネ様の専属騎士です。如何様にもお呼びください」
「そうね。では今後、貴方のことをアルと呼ばせてもらうわ」
彼女との距離が少しだけ縮まった気がした。
皇女様と専属騎士。
主従の関係であると共に、不思議な関係。
彼女だけに俺は仕え、この身を粉にして働く。
「アル、それからついでに伝えておくわ。今後の留意点についてよ」
「留意点、ですか……?」
「ええ、平民の貴方が専属騎士になったことによる反発は大きいものなの。だから、気を付けて」
何に気を付けるべきなのかを明示しない辺り、口には出さないようなことなのだろう。
「分かりました。今後はより一層気を引き締めて参ります」
近いうちに何かが起こる。
それはきっと、レシュフェルト王国のこととは別に。
彼女が訴えてきたのは、俺がそれを察せられるように仕向けるため。
──ヴァルカン帝国とは、貴族と平民の格差が明確。
だからこそ、俺のことが邪魔な者は多い。
排除しようとする動きはこれから活発化するのだろうな。
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