第二章 悔し涙とともにパンを食べたもの同士でなければ、人生の味はわかち合えない。

奮っていいのは暴力ではなく粉糖、もしくは仕上げのココアパウダー

 軍で、部活動で、体育会系の職場で、"暴力"は"指導"という名のオブラートに華麗に包まれ否応無しにのさばっている。それはどんな時代も……いや、どんな世界でも同じであった。


 過酷な状況下でも背を向けて逃げ出さない者、どのような重責がのし掛かっても心が壊れぬ者、破滅的な戦況でなお祖国の為に一心に武器をふるえる者……そんなありとあらゆるバッドな状況でも訓練された殺戮兵器の如く任務を全うできるよう、ありとあらゆる理不尽を軍の訓練では課されることが一般的だ。


 駄菓子菓子——おっと、だがしかしだ。

 訓練過程がこんなもんでいいのかと聞きたくなるほどに、我が国家の戦況が芳しくないという実態が否が応でも伝わってくるような絶妙なヌルさだったのだ。

 この過程を息をゼェゼェ切らしながら死にそうな顔で受けている士官候補生共は、この後の野戦研修にて課程を終了しホヤホヤの尉官となっていくのが丸わかりなほどに、なるほどずば抜けて体力がない。

 ハイポートどころか、10kmランすら危うい。これ行軍とかやったら半数は脱落するんじゃなかろうか。それに対して飛んでくる指導がまたぬるい。こいつら全員一回くらいはフルメタルジャケットと大日本帝国海軍の訓練を履修した方がいい。真似しろとは言わんがな。

 いや、別に叱責を望んでいるわけではないし、理不尽大集合ともいえる『大声で合唱しながらハイポート』『監督が再びやってくるまで無制限打ち込み』みたいな気の狂いそうな訓練を希望しているわけではない。断じて、ない。


 しかしこれでは少々身体を動かしました、のスポーツで終わってしまう。いくら剣道の大会で優勝していようが、真剣を持った人間に出会ってしまえば太刀打ちできないのと一緒だ。これじゃあ実戦に放り込まれた時に、一番に脚がすくんでしまうことだろう。

 嘆かわしいのは、恐らく裕福な出身であろう士官候補生は雄弁はたれるが全くその中身が伴っていない。これは実戦で負傷した際に、いの一番に軍を訴え上官の配置を攻めるタイプだ。こういう奴らが我らの上に立つ未来の上官とは、今からこっそり叩き潰しておこうかと思うほどには不服である。


「おい! そこのゴミ虫め! 一等でゴールしてすまし顔か!」


 がつんと拳が降ってくるのを、同じタイミングで顔を動かし貰ったふりをしていなす。すぐには元の位置に顔を戻さないのが、指導官殿のプライドをズタズタにしないためのポイントだ。

 状況はぬるいが理不尽は存在する。私と大抵二番手で常に訓練をクリアする同期入隊のシュヴァルツヴェルダー・ロンメル訓練兵は、ひとまず両人が孤児出身であることと結果で目立つことから、まるでスケープゴートの如くまぁ連日飽きもせずブン殴られるのである。

 そう、あの時私に思い切りぶつかってきた優男だ。どうやら殴られても咄嗟に殴り返さないほどの理性は持ち合わせているようだが、こいつは恐らく拳のいなし方も打撲の処置も知らない。口の端に日に日に色濃く残り続けている赤紫色のアザが動かぬ証拠だ。

 応急処置の類いは優先して身分の高い者へと割り当てられるのが暗黙の了解でもある、射撃訓練の際にライフルの銃床が頬に当たるだけでも痛そうだ。

「使うか」と濡らしたタオルを渡そうとしたことがあるが、不快そうに「いい」と断られた。別に仲良くする気もないが、会話すらしたくないという拒絶に近いその態度に先行きがかなり不安になったのは事実。何か嫌われるようなことでもしただろうか……。


「こののろまが! 俺の話を聞いていないとはいい度胸だな!」


 教官の怒りの矛先が自身に向かない事は、実際他の人員の本日のモチベーションを大きく左右する。「今日は自分は怒鳴られない」という安心感から、心に少しばかり余裕のある状態で訓練へと挑めるからだ。

 前世では高校時代に特待生の部員がそのような心理状態になり練習に取り組むために、連日「気持ち悪いぞ!」「この癌細胞め!」とコーチに怒鳴られ続けていた私が保証する。特待生の同期達は「アンタよく怒られるよね、でも安心する、自分は今日怒られないんだーって」とぬけぬけと言いやがったが、現状を見ても集団の中にスケープゴートを作ることは過酷さの誤魔化しには一応なるらしい。

 卒業間近に「部員の精神安全のために必要以上にお前を怒鳴った、お前だけ「この野郎絶対見てろよ」って目をするからな」と申し訳なさそうに言ってきた監督は、舞台が高校だったということに感謝すべきであると思う。

 しかしその経験ゆえか、私アドルフはこの程度の罵倒も殴打も馬耳東風に近い。精神的にも安定してるため、訓練中に誤って教官殿を撃ってしまう心配もないだろう。


 ともなれば少々不安なのはロンメルの方だ。

 孤児出身とは聞いたが背も高いし、私なんぞより随分と顔も綺麗な方だ。正直衣食住の為に軍に来たであろうことは予想がつくが、その顔で何か平和な仕事をしても暮らしてゆけたのではないだろうかと思う。

 話した事もないので彼の限界値は知る由もないが、知性的な顔して精神崩壊起こしたら化け物だった……のパターンはマジで無い方がいい、本人の為にも。


 ガンッと鈍い音がして、隣にいたロンメルがそのまま後ろに倒れ込んだのが見えた。教官殿はブーツでブン殴るという手法に変えたようだったが、それをマトモに顔面でキャッチしてしまったのだ。

 倒れ込むロンメルに「誰が倒れていいと言った!?」と調子にのった教官殿の脚が踏み下ろされる直前で、流石に時代錯誤もいいところな理不尽に愛想が尽きていた私の手が教官殿の靴の踵をふわりと支えた。


 ——否、割とがっしりめに掴んでやった。


「教官殿、今の靴底での殴打でロンメル訓練兵の額が切れております。出血量が多い場所ですので、これ以上の追撃は他の者の意志を削ぐことになるかと」

「なっ……」

「どうにも脚癖が悪いようでいらっしゃる。我々をゴミ虫と同義とされるのであれば、これ以上教官殿の御靴を汚される理由もないのでは?」

「貴様! フォーゲル、歯向かうのか」


 なおも罵倒せんとする教官殿の脚をそのまま後ろに押しバランスを崩させつつ、その耳元で静かに囁く。


「その靴底から彼の傷口に雑菌が入りでもしたら、戦場で盾にしたい者を一名早々に失くすかもしれませんね。どちらが後々利口なのか、教官殿でしたらお分かりになるでしょうに」


 膝下に添わせた方の腕を捻じ込み、反対側の手で足首を自身の身体に添うように軽く抑える。簡易だがヒールホールドに近い体勢だ、強く捻れば足首か膝が間違いなく壊れるだろう。

 流石に関節に変な負荷が掛かって軋んだことくらいは理解できたらしい、オーバーなほどにド派手な舌打ちの後に「フォーゲル! さっさとロンメルを救護室へ連れて行くんだ!」と命令口調での罵倒が下された。


「了解です!」


 脚に絡ませていた腕を解放し適当に威勢よく返答をしてみたが、まぁ教官殿はそんな返事も聞いちゃいない。

 隣に倒れているロンメルに「おい、頭がクラクラするとかないか?」と聞いてみる。こめかみにクリーンヒットしていれば脳震盪を起こしているかもしれないからだ。


「いい、自分で歩ける。構うな」

「お、おい……」


 その涼しい視線だけは強さを失わず、無愛想に起こそうとした腕を振り払われる。案外コイツ大丈夫そうだな……とは思いつつも「連れて行け」との命令は破るわけにもいかず、サボりた……いや教官殿の顔もちょっと見飽きてきたタイミングであった私は、額を抑えながら歩き出したロンメルの後をゆっくりと追った。

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