第二部 集いて膨らみ襲“かさ”なる怨念の行方 第二章 流転
【その悲しみの訃報は、後に訪れる最後の時を決める】
1
もしかするとこの日は、見えない力の導きにより。 こうなる運命が決定していたのかも知れない。
運命の一つは、木葉刑事が、寡黙神主と云う協力者を得た事。
だが、悠長に健康を取り戻していられない様に、運命がもう一つの事を決められていた。
同日、夕方。 午後4時頃。
雪が舞う都内の一角。 交差点に沿う歩道に植わった街路樹には、雪が着いて白く化粧している。
車の行き来が、雪の為に緩慢とした交差点に向かう古川刑事は。 柄物のシャツに、黒いスーツを着る何処かの組員の様な三住刑事と一緒に、地下鉄の入り口に向かっている。
「フルさん、雪が凄いッスね」
禿げ頭に雪が乗り体温で溶けてしまうからか、ハンカチを乗せる古川刑事。
「お天気様は、酷な事しかしねぇな。 少しはハゲの事も考えて降れってンだ。 全くっ、よ」
白いコートの古川刑事は、雪を全く喜んで無い。 容疑者逮捕後の穴埋め捜査の最中で、邪魔なだけの雪である。
雪が止まない事に古川刑事はイライラして。
「は、もうイイ。 三住っ、今日はアガリだっ。 頭が凍傷に成る、署に戻るぞ」
「へい。 必要な証言は、もう貰いヤしたからね」
親分子分の口癖が抜けない三住刑事に、古川刑事はいい加減にしろと呆れて。 地下鉄の乗り場へと降りる急な階段に、交差点の商業施設の並び沿いから曲がって近付いた。
その時、古川刑事のスマホが揺れ動いた。
「ん? 電話だ。 課長か?」
階段に降りて、スマホをコートより取り出して画面を見ると。
(やっぱり、‘課長’か)
古川刑事の所属する所轄の刑事課で、最年長の人物が課長だ。 彼は、再来年に定年退職で。 古川刑事の先輩だが、刑事に成ったのは古川刑事が先。 仕事が出来る古川刑事より、上に頭を下げられるだけに課長へ成った人物。
そして、古川刑事や年配の主任には、ちょっと頼りない人物だが。 自分達の為に、時として頭を下げてくれる課長には、ある種の信頼を寄せていた。
さて、改札前まで降りてから、
«もしもし、課長ですか?»
と、通話に出た古川刑事。
“必要な証言は得られました。 大雪なんで、今日は署に戻ります”
こう、言い訳を切り出す直前だ。
«フルさんっ! これから直ぐにっ、○○救急指定病院に行ってくれっ!! 奥さんが、和世さんが車に轢かれた!!!!!!»
課長からの話を聴いた古川刑事は、言われた意味を理解するまでスマホを持ったままに固まった。
改札前の柱に行った三住刑事が、立ち尽くす古川刑事に気付いて。
(あら、フルさんど~したんだ?)
と、戻って来る。
その最中、スマホの向こうでは、声の掠れた課長が咳き込みながらも必死に。
«フルさんっ、もう詩織ちゃんは向かってる! 早ぐっ、早ぐ○○病院に行けぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!»
課長の最後の大絶叫の様な声に、気が戻った古川刑事で在り。
「あぁっ!!」
スマホを握ったままに、階段へと振り返った古川刑事。 丁度、階段を降りて来た若者を突き飛ばす勢いで、雪の降る外へと階段を戻る。
「あ゛、フルさんっ?!」
いきなりの事に驚いた三住刑事は、古川刑事の突き飛ばした若者を立たせ。
「悪いっ、済まないなっ」
何度も謝りながら、古川刑事の後を追う。
一方、地下鉄への地上出入り口から滑りつつ飛び出した古川刑事は、すっ転びながら通りを駅の方へ。
(和世っ、和世っ! 生きてろっ!! 生きてろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!)
走る最中、信号待ちする車の中に。 空車のタクシーを見つけた古川刑事は、道路に飛び出してライセンスを出し。
「タクシーっ! 止まれっ!! 動くなーーーーーーーっ!!!!!!」
と、走り寄る。
タクシーの運転手は、無線を取ろうとした所だが。
‘バン!!!!!!’
と、鈍くも強い音を聞く。
「え?」
運転席の窓に、ハゲ頭の強面中年が張り付いているではないか。
「うわ゛ぁっ!!」
思いっ切り驚くドライバーだが、古川刑事は警察官のライセンスを窓に付けながら。
「開けろっ!! 警察だっ。 タクシーに乗るっ!」
と、連呼する。
信号は変わり、動き始める車の列。
三住刑事が、古川刑事を捜して歩道を間近まで来た時。 タクシーに乗り込んだ古川刑事は、大急ぎの様子でタクシーを走らせる。
「フルさんっ、どうしたンスかっ! フルさん!!!!!」
だが、雪の中で走るタクシーは、交差点から北上する方面に曲がってしまう。
この直ぐ後、課長に連絡した三住刑事も、古川刑事の奥さんの事故を知る事に成る。
その事故とは、一体どんなものだったのか。
和世は、今日のこの大雪の中。 80歳の誕生日だから、と。 老人ホームに入所する義母に面会しに行った。
古川刑事の母親だが、和世にしてみると実母の様で。 古川刑事が出来ない分、自分が親孝行をする頻度で面会に来ていた。
施設には、昼下がりまで居て世話をして居たが。 雪が止まないので、電車も心配になり。 午後2時過ぎに、施設を出た和世。 何とか、アパートの最寄り駅まで来た和世は、その帰り掛けでスーパーに立ち寄り。 買い物を終えてから、交差点にて信号待ちをしていた。
処が、信号が変わった時、ベビーカーを片手にする子連れの母親が居た。 4・5歳の子供と、泣く赤子を背負っていた。 本日の雪で、ベビーカーを押すのがその母親には大変だったのだろう。
和世は、片手が空いていた為に。 その母親に声を掛け、ベビーカーを持った。
若い母親だったが、上の子供が雪に興奮していて困っていたのだ。 正に、和世の気遣いは助け舟だった。
然し、変わった信号を見て、二人して並んで子供を挟み。 雪に滑らない様に、横断歩道を渡ろうとする。
処が、其処に異様な音がする。 速度超過をしてか、急ブレーキを掛けながら。 赤い車体の高級車が、信号を無視して突っ込んで来たのだ。
異様な音に横を見た和世は、交差点へ突入して来ようと云う勢いに驚いた。
「危ないっ!」
若い母親と子供を逃がそうと、咄嗟に行動しようとした和世だが。 雪の積もった交差点で、スリップし掛けた高級車。 一度、大きく右へブレた時、母親を庇う和世ごと全員を撥ね飛ばした。
夜の7時前。 雪の中を走って来た古川刑事は、血相を変えて妻の運び込まれた病院に駆け込んだ。 雪の所為で渋滞し、こんな時間に成ってしまった。
廊下を走る古川刑事が、手術室前に通じる廊下に来ると。
「あ・・お・お父さんっ」
先に到着していた娘の‘詩織’(しおり)が、手術室の前で古川刑事を迎えた。
“生意気盛りの娘”
と、周りに言う古川刑事だが。
その娘は、父親に似ず美少女で。 震える娘の青ざめた顔に、古川刑事は気が気でなくなりそうになる。
古川刑事は、詩織に縋り付く様に近寄ると。
「詩織っ、か・・和世は?」
「まだ・・、中」
「容態はっ? ど・どうなんだっ?」
問われて涙ぐむ詩織は、
「すっ、すっ、凄く・・危険な・・状態だって…」
こう聴いた古川刑事は、愕然とした。 慌てて看護士の男性を見付けて問えば、右腕が無い状態で担ぎ込まれたとか。 輸血の血が間に合うかも解らないほど、今は急を要すると云う。
「うそ・・うそだろ?」
手術室を見た古川刑事は、絶望的に膝を崩した。
事故の時。 跳ね飛ばされた和世は、歩道に在る看板に突っ込んだらしい。 然し、それが開いて置かれた看板へ、横から斜めから飛び込んだ為。 衝撃で腕が折れて骨が割れ、その骨が皮膚を突き破ってしまったらしい。
また、和世が助けようとした母子は、赤ちゃんが重傷、子供が重体、母親が即死だった。
さて、四時間近い大手術の末、集中治療室に移った和世。 その変わり果てた姿に、古川刑事は娘と二人して泣き崩れた。
古川刑事から夜中に経過を聴いた課長は、古川刑事に休みを勧めた。
一方、三住刑事は、古川刑事から経過を聴いて、涙を流してゆっくり休む様に促した。
そして、これが木葉刑事に新たな試練を与える事に成る。
[カウントダウン:運命のその日まで、残り15日]
‐ 次の日 ‐
早朝。
(これっ、が・・、しょ・う・・きをぬ・抜くこと・・か)
朦朧とした意識で目を覚ます木葉刑事は、酷い貧血に陥っていた。 利き腕の左腕は、以前にも‘瘴気’に触れていた為か。 全身の中でも一番に酷く、怨念の力に浸蝕されていたらしい。 寡黙神主の御札を貼ってたった一夜のうちに、あの痣の様な色が無くなったのだが。 一転して血の気が腕へ一気に巡り、今度は貧血に成った。
(不味・・い、おっ、御札…)
朝方に目覚めて、朦朧とする中で御札を剥がす。 確かに、左腕が動く様に成ったのだが。 感覚が朦朧とするので、剥がした御札を枕の下に隠した処で、ぐったりヘタってしまう。
結局、これより木葉刑事は、上半身を蝕む怨念のエネルギーを貰った御札で吸い出す代わりに。 午前中は食事も喉を通すのが大変な、朦朧生活を毎日と送る事に成ってしまう。
尚、夕方には、気怠いが目を覚ます。 とにかく空腹が辛く、看護師が用意した食事の量では足りないので。 貰い物のお菓子を馬鹿喰いし。 就寝前には、看護士に隠れてまた御札を巻く事にする。
さて、一方、所代わって。
集中治療室に移った和世と共に、病室へ入った古川刑事。 状態がかなり危ないので、監視するモニタールームと円形に繋がる治療室。 その部屋の片側の壁の向こうは、家族が居れる休憩室に成っていた。
(和世・・和世・・・生きてくれよ。 どんな姿でも良い、ただ元気に…)
包帯だらけで、右腕が無い姿は、普段の和世の姿の面影が見えない。 だが、涙が尽きずして、泣いていた古川刑事。 鬼瓦のタコ坊主が、憔悴して更に怖く見えた。
朝から殺人を含む交通事故の事件を扱う刑事が来たが。 話を聴かれても、古川刑事は上の空で。 他の所轄にも古川刑事の存在感は知れているだけに。 この姿は、かなり深刻と思われた。
そんな古川刑事の元に、眼鏡をした若者が来たのは、夕方前の事。
廊下にて、スーツ姿に眼鏡の若者は、目を赤くしながら。
「古川さん。 私、森野と云います」
「古川・・です」
「わたくし・・昨日、古川さんの奥さんといっ、一緒に・・妻をひか・れた・・」
相手が誰か、古川刑事も理解して。
「奥さん、亡くなられたそうで・・。 ご愁傷様です」
古川刑事が頭を下げて、その女性の死に悼みを表した。
森野と云う若者は、泣きながらも。
「ごて・ご丁寧・・に、ありがとうございます・・・。 娘とっ、む・・息子は、一命を・とっ、とり・取り留め…」
救いが在ったと、古川刑事は森野と云う若者に踏み寄り。
「そうでしたか・・。 助かって、良かった。 せめて、少しでも救いに成った」
「ありが、とう・・ございます・・。 古川さんの奥さんも゛ぉ・たったた、助かって・・欲しいですっ」
まだ、若い妻を亡くした夫となる人物に気遣われ、古川刑事もまた涙が出そうに成るが。
「ありがとう、ありがとうな。 妻は、何とか成ると思う」
嘘の様な願望を言った古川刑事は、一階の待合い場で若者の苦悩を聴いた。 妻を失った中で、乳飲み子と園児をどう面倒看れば良いのか。 突然、一人に成った父親だから、不安しかないのは当然だ。
小一時間、話を聞いた古川刑事。 若い父親は、肩を落として去って行く。
入れ違いにて、寝てない詩織が病院に戻って来る。 一家の服や、貴重品だけを持って来た。
「お父さん、今の人は?」
「和世が助けようとした親子の父親だ」
「それ・・奥さんが、亡くなった人だよね」
「あぁ。 だが、赤ちゃんと子供は、何とか命を取り留めたそうだ」
「そっ、か。 良かったね」
声が涙ぐむ詩織の頭を、古川刑事は抱き寄せて。
「和世の側に居よう…」
「うん…」
古川親子は、和世の命が助かる事を一心に祈る。
[カウントダウン:運命のその日まで、残り14日]
‐ 次の日 ‐
早朝。
何かに叩き起こされる様に、ガッと目を覚ます木葉刑事。 だが、朦朧とした意識の中で、彼は吐き気の様に湧き上がる不安に怯える。
(な゛ん、だぁぁぁぁぁ、い・やな゛・・震えが、く、来るぅぅぅ。 だれ・・誰か?)
木葉刑事の身体には、病気の時とはまた違う。 振動の様な震えが来ていた。 この震えは、これまでに何度も来て居る。 叔父が亡くなった時、先輩刑事が亡くなった時など。 不幸の時に、突然に来る感覚なのだ。
「う゛ぐっ、うう゛う゛…」
熱から湯気の出る右腕をローブより抜き出すと。 左手で、御札の一端を掴む。
(だ・れ、誰だぁぁぁぁっ!)
一気に御札を引き剥がす木葉刑事だが、フラフラっとして枕へ潰れる。 意識が遠退き始めて、必死に御札を枕の下に隠す。
(だ・・れ?)
嫌な震えから木葉刑事は恐怖に戦く。 自分の親しい人は、数えるしか居ない。 それが喪われる恐怖は、木葉刑事の怯える数少ない事。
だが、瘴気(しょうき)に障った腕に血が巡り。 また、意識が遠退いてしまう。 昨日もこんな風で、起きれる時も少なかったから本日はどうなるか。
夕方前まで、このまま起き上がれない木葉刑事。
そして、その嫌な予感は的中していた。
一方、早朝の別病院にて。
集中治療室の隣部屋で詩織が泣き崩れ。 古川刑事が呆けて宙を見ている。
今、和世の生命を表していた機械が、静かに看護士の手に因って外されている。
午前6時過ぎ。 和世が、この世を去った。
木葉刑事が目を覚ました時には、和世が他界していたのだ。
完全に気が抜けてしまった父親に代わり、詩織は涙を拭って方々に電話をした。
和世の弟と妹が、直ぐに来てくれる。 この弟妹は、弁護士と司法書士なのだが。 古川刑事と姉・和世の結婚には、前向きだった二人。 姉の幸せな様子を見て、古川刑事との結婚は正しかったと認識していたのだ。
また、弟の方は、姉や妹の保険などを相談されていた。 詩織と会うと、呆けてしまった古川刑事を見て、姉と古川刑事の心の絆を見た。
“壊れた”
と、見えたのだ。
その和世の兄弟より厳格なる和世の父親に連絡が行った。 この父親は、年老いて弱く成りながらも。 涙を見せずに、短い返事のみをしたが。
詩織から課長に連絡が入り。 和世の死を聞いた主任や三住刑事の双方は、愕然とした。
この日の夕方。
「う、うぅ…」
誰かに声を掛けられて眼を覚ます木葉刑事は、ぼんやりと視界に女性を見た。
「だ・れ・・ッスか?」
「アタシ、ちょっと、どうしたのよっ」
声で里谷捜査員と解り。
「あ、あの…」
「何?」
「こ、これ、す・捨てて…」
車椅子の里谷捜査員に、木葉刑事はベットの袂を必死に触る。
「はぁ?」
ベットのその辺を探る里谷捜査員は、ベットの下に挟まれた紙を見つけて引き抜く。
「あ、コレ・・何?」
長い書道に使う様な紙を引き抜いた里谷捜査員は、墨がドロドロした液体で酷く滲んだ様な模様となるその紙の表面を見て。
「気持ち悪いっ、黒い何かが動いているし。 このドロドロに見える表面って…」
「の、ろい・・の、力」
この時、木葉刑事の肌蹴た肩に痣が無い事に里谷捜査員は気付いた。
「木葉さん、その肩の肌・・。 ま、まさか、本当に痣が取れたの?」
何とか頷く木葉刑事。
「あと・・た、食べ物・・。 血が、血、足り・ない…」
事態が急に動き出したと感じた里谷捜査員。 とにかく御札を2日分引き取りこっそりと捨てて。 車椅子で下の売店となるコンビニに行き、余っていたおにぎりやピラフ弁当と飲み物を買って戻った。
何とか意識を保っていた木葉刑事に、物を渡すと寝転がりながら食べる木葉刑事。
「それが、例の神主さんを呼んだ効果?」
「ん、んっ、…」
食べた物を甘いコーヒーで流し込む木葉刑事。
その彼へ、里谷捜査員は真剣な顔で。
「悪いニュース、その様子だと観てないみたいね」
ピラフを食べる手を止めた木葉刑事は、鈍く見開く眼を向ける。
その負けた野良犬みたいな双眸に、里谷捜査員は少し戸惑った後に。
「あのね、一昨日の午後。 古川刑事の奥さんが、暴走した車に轢かれたの」
話を聴いた瞬間、木葉刑事の眼が更に大きく開いた。
「どうやら、子連れの若い母親も居て。 その家族を庇おうとして轢かれたみたい。 で、今日の午前6時頃、亡くなったって…」
「そ・そうですか…」
そして、木葉刑事は残りを食らった。 古川刑事の奥さんの交通事故を知る。
(クソ・・メールもっ、み・見る余裕が…)
詩織からメールが着ていたが。 まだ、スマホに手を伸ばす事も難しい。
里谷捜査員が去った後、スマホに手を伸ばしつつも気を失う木葉刑事だった…。
[カウントダウン:運命のその日まで、残り13日]
‐ 次の日 ‐
「くっ・・ま、まだ…」
首回りから肩に回した御札を、また弱った意識ながら剥がした木葉刑事だが。 瘴気は、また両腕に浸蝕をしようとする。 首から顔の痣は取れたが、肩の裏から胸の痣は取り切れない。 悔しい木葉刑事だが、朝に目を覚ますのも大変だ。 尿意で目を覚ますのに、その尿意を放棄して御札を隠すのだ。
また、午後には里谷捜査員が来てくれる。 密かに御札を捨てるのと、弁当を差し入れしてくれた。
「本当に、呪いの力なのね。 顔の痣までスッキリ取れて来た。 でも、その朦朧ぶりは反動?」
「た、ぶん。 血の・・巡りが来る、からね」
「でも、急ぎたいのは解るけど、コレって1枚以上は巻かない方が身の為ね。 午前に看護師さんが大慌てよ。 シーツの取り替えとか、下着まで脱がさなきゃ成らないンだもの」
「そ、そこは、ホントに…」
「だわね」
とにかく眠りたい木葉刑事を知る里谷捜査員は、
「じゃ、また明日に来るわ」
と、部屋を出る。
そして、この部屋を見張る人物をチラ見だけして自分の部屋に帰る。 肋骨の辺りに痣が残り。 人工骨を入れてもまだ肋の筋肉や神経の再生が遅遅として居るのだ。 退院したいのに、身体がまだ重々しい。 鍛え抜いた筈なのに、車椅子を手で動かすのもしんどい事が多い。 木葉刑事より身体は健康と思える里谷捜査員は、スマホを手にして。
(はぁぁ…、アイツったらもう見舞いにも来やしない。 絶対、浮気してるよね)
イケメンと周りが云う彼氏が来ない。 何か頼みたい事が有っても、頼りにならない。 命を張る木葉刑事や自分や他の捜査員に比べると、何だか詰まらない人間を彼氏にしたと思う。
(さぁて、同期の誰かに連絡して、間近の新しく出来たアーケード街に行って貰おうっかな)
早く仕事に復帰したくてジリジリしている。 何か欲求を満たさないと、苛立ってしまいそうだった。
さて、この日の昼間。
都内某所にて。 葬儀屋の持つビルの中、小さなセレモニーホールにて。 和世の通夜の準備が進められて居た。
一晩、余り寝ないで、集まった少人数の親戚と過ごした古川親子だが。 昼前には、通夜の準備と動く詩織の前に、20代の色っぽい女性が突然やって来る。
「詩織さん、大丈夫?」
「あ、ミチルさん?」
顔は、ちょっと陰りの或る感じで、美人の割りに質素な雰囲気を見せている。 長い髪を黒いコートの中に入れた、ほっそりとした美人に。 詩織も、知った相手と見えて安心を得た。
「詩織さん。 敬之さんから話を聞いて来たの。 明日までお休みだから、お手伝いするわね」
直ぐに、詩織と共に通夜の手伝いをするミチルと云う女性。
ホールの裏側では、気を保てずに妻の遺影を抱える古川刑事だが。 そんな彼の代わりに。 和世の弟妹が様々な対応してくれた。
そして、夜。
和世の通夜に、課長や同僚や三住刑事が来る。
三住刑事を見るなりに、ミチルが寄って行った。
「敬之さん、古川さんが…」
三住刑事の名前は、
「やっぱり…」
珍しく、黒いスーツに身を包んだ三住刑事は、古川刑事の居る座敷の方に入り。
「古川さん、だい…」
挨拶をしたかったのに、古川刑事の目が虚空を見ていて。 話が筒抜けと見えたのだ。
こんな廃人の様な古川刑事を見せられたら、三住刑事もショックを受けてしまう。
(古川さん・・。 クソっ! 無理も無ェ・・、あんなに大切にしていた奥さんを、一方的に奪われたんだっ!! 誰だっ、奥さんをあんな目にしやがったっ!!!!!)
拳を握り締めてうち震えた三住刑事は、自分を見て居る親族にも頭を下げる。
参列者に対応する詩織は、三住刑事が戻ると。
「三住さん。 ミチルさんのお手伝い、ありがとうございます。 とても、助かります」
相手に深く頭を下げる。
激しく頭を動かし、髪を乱して恐縮する三住刑事。
「詩織さん、何を言うんですか。 俺とミチルが一緒に居られるのも、古川さんや奥さんの御陰様が在ってです。 こんな事に成って、何も出来ないんじゃ・・申し訳が・た・・立たない」
こう頭を下げて、今夜は引き下がる三住刑事。
然し、ミチルが残って手伝いをしたり、三住刑事がこう言うのも、それなりに
実は、今は介護職に就く身のミチルだが。 過去に傷の有る人物でも在る。
そして、その傷をほじくり返そうとした、汚い者が居た。
数年前の事だ。
傷害致死事件を調べていた三住刑事と古川刑事は、その犯人が麻薬絡みの売人と解り。 別の課の刑事と合同捜査に成る。
その時、その犯人か、売人のリーダー格の若者が、金を欲しさか売り手開拓か。 元、風俗店の店長時代に知っていた女性に、コソコソと接触しているとの情報を得た。
その話を仕入れて来た別の課の刑事が、その女性達の調べに行くと云うのだが…。
古川刑事と共に、三住刑事他三人の刑事は、リーダー格の若者の知り合いを当たり。 その過程で、過去に違法な淫行映像の女優を演じていた、今は風俗店に勤めるミチル他の女性に対し。 リーダー格の若者は、暴力団絡みの伝を頼ろうとしている事を知る。
古川刑事は、また別の線が出て来たと。 別の課の刑事の応援も要請し、協力してこの伝を調べる事に成るのだが。
その過程で、まだ風俗店に居たミチルに、三住刑事が出逢った。
この時、辞めたがっているミチルだったが。 過去の終わった罪をネタに脅しを掛けられて、辞められない状況に置かれたのだった。
後、許可無く運営していた店の摘発まで、捜査の手は発展したが。 風俗店を営業する方は、人気の女性従業員を手放さない様に悪辣な手を回し。
傷害致死容疑の人物は、この店の女性従業員の獲得に暗躍した。
その時、ミチルの話を聴いたのが、偶々に志願が叶って話を聴きに行った三住刑事。 そして、ミチルに同情した三住刑事は、その時に偶々やって来た。 別の場所で風俗店を開こうとする業者側を、脅し掛けて追い払った。
だが後。 今度は、三住刑事の一途で荒い気質が、悪く出る。 ミチルに絡み付く悪い糸を切ろうとする余り、課の違う仕事にまで顔を出したのだ。
単細胞と云うか、猪突猛進云うか。 別の課の方から苦情を貰って、立場を悪くする三住刑事。
然し、其処を救ったのが、古川刑事だった。
古川刑事は、敢えて本庁(警視庁)の捜査課に情報を流す。
解っている前科は元より。 違法薬物やら商法違反と云う、隠れた埃がたっぷり有る業者側。 過去の情報と絡んで捜査が始まれば、開業処の話では無い。
だが、この行動がとんでもない尾を引く。
業者側は、暴力団のみならず。 一部の政財界へ、風俗嬢斡旋をしていた事実へと繋がっていて。 すったもんだの事件に発展するかと思いきや、業者の多数に自殺者が出た。
リーダー格の若者も、業者側も、捕まるか死ぬかと相成り。 漸く自由と成るミチルだが。 好かれた三住刑事の事を思い、刑事の仕事の重荷になりはしないかと、身を引く事も考える。
だが、古川刑事と和世は、ミチルに介護職を薦め。 不思議と、ミチルは三住刑事と落ち着く事に成る。
刑事に昇進する時も、ミチルの事も、三住刑事は、古川刑事の助けを借りた。 この二人に古川刑事と和世の夫妻は、本当の恩人なので在る。
さて、古川刑事の元に来たのは、刑事達だけでは無い。
(全く、とんでもない事に成ったっ)
今、ホールの在るビルに来たのは、越智水医師だ。 礼服姿の越智水医師は、夕方に木葉刑事よりメールでの知らせを受け。 己から、通夜や葬式に行く代行を買って出た。
親しい者のみが来て、古人を偲ぶ通夜。 其処へ、越智水医師が来たのを見た人は、彼が誰も解らない。
建物に入った越智水医師は、案内板を見て二階セレモニーホールBに向かう。 室内の自動ドアを越えると、白いタイル張りの道らしきものが、和世の遺影を飾る奥まで伸びている。 簡易的なセレモニーホールだから、白いタイルの参道の左右には、椅子など無い。
一方、遺影に向かって、右側。 仕切りの薄いカーテンが掛かる、親族のみが居る床の間では。 越智水医師が歩いて、和世の遺影に手を合わせるのが見えた。
和世の弟妹は、それが誰か解らず。 詩織も知らない人物故に其処へ。
「あの…」
喪服を着た詩織は、越智水医師に声を掛けた。
数珠を持つ手の合掌を解いた越智水医師は、涙目の詩織を見返し。
「貴女が、詩織さんですね?」
「はい」
「私、木葉刑事の友人で、大学の外科医療部の准教授をしております者で、越智水と申します」
「えっ、木葉さん・・の?」
「はい。 木葉君が、和世さんの亡くなった事を知って、何とか葬式に連れ出して貰えないかと…」
「あの体の・・・木葉さんが?」
「私は、以前に古川さんとも面識が有りましたので。 彼の代わりを、こうして買って出させて頂きました」
詩織と話す越智水医師に、小さい遺影を抱く古川刑事が今日、初めて目を向けた。
(おち・みず・・さん? あ、あ・あっ、木葉っ、木葉か?)
と、思い気を取り戻した古川刑事。
床の間、8畳の部屋からセレモニーホールが見える板の間に這い出た古川刑事。
「越智水さん、木葉がっ?」
古川刑事と見合う越智水医師は、重々しく頷き返しては。
「彼が、此処に這ってでも来たいと云うので、代わりを私が…」
畳から一段下がった足場に来る古川刑事は、枯れた様に見えていたが。 また涙が溢れて来て。
「そっ、そうですか・・、木葉のバカが…」
こんな処で、‘バカ’と言える。 古川刑事と木葉刑事の間柄は、不思議と其処まで来ていた。
古川刑事は、涙を流すままに。
「高名な先生にまで、通夜へ来て頂き。 ありがとうございます…」
板の上に落ちる涙に、越智水医師は古川刑事の胸中を知る。
(私も、妻を失ったら…)
こう察する越智水医師は、深々と頭を下げ。
「古川さん、お気を確かに。 明日、葬儀にも出席させて頂きます。 木葉君の分まで、居させて下さい」
「はい、はい…」
和世の事を思えば、木葉刑事も何かしたくて仕方ない。 その意を汲む越智水医師と、その気持ちを察した古川刑事の遣り取りは、見ていた詩織にも不思議な光景だった。
また、刑事課の課長さんまで来ても、ぼんやり虚空を見ていた古川刑事だったのに…。 木葉刑事と関わる越智水医師が来ただけで気持ちが戻ったのは、一体、何なのか…。
[カウントダウン:その日まで、残り12日]
‐ 次の日 ‐
ビルの脇に在る別館にて、和世の葬儀が行われた。 三列に並ぶパイプ椅子が、焼香に訪れる人の歩く道を挟み、向かい合っていた。
喪主の席には、ぼんやりと遺影を抱く古川刑事。
娘の詩織は、これまでの父親の愛情を思えば、寧ろ自分が、と。 従兄妹や叔父・叔母、手伝いに来るミチルや越智水医師と、小さいホールで出迎えやら記帳に立つ。
さて、午前10時過ぎ。 和世の父親が、漸くやって来た。 少し長めの白い髪を総髪にして、丸渕眼鏡に和服の喪服姿ならば。 秘書と共に焼香を済ませるなりに、喪主の席に居る古川刑事を睨み付け。
「私は、お前の小間使いに、娘を出した覚えはない。 骨は、此方の一族の墓に入れる。 死後まで、お前と一緒にはさせんぞっ」
と、低い声ながら鋭く言った。
その場に居た一同、この話に驚く事に成る。
だが、憔悴した古川刑事は、一礼すると。
「お任せします。 和世を・・この様に亡くしまして、すみませんでした」
何故か、素直にこう言った。
その時に、和世の父親は目を見開き、誰よりも驚いた顔をする。
「いいかっ、古川君! 間違ってもっ、変な気を起こすなよ。 私も法律に携わる端くれと成る者だが。 お前も、法律の番人だぞっ」
その物言いに、詩織は何を言ってるのか解らない。
だが、越智水医師は、年の功で解る。
(‘復讐’を・・、古川さん?)
古川刑事と妻の和世の仲は、木葉刑事から聴いていた。 墓に二人して入るのは、この二人の仲からして当然だ。 古川刑事を嫌っている和世の父親に骨を渡せば、二度と古川刑事と和世は一緒に成れない。
なのに、なのに…。
驚き、不意を突かれた様な和世の父親は、慌てた足取りで車に向かう。
処が、入り口に立つ詩織を見た瞬間、厳格な祖父の目が潤んで解ける。
「詩織、ちゃんと生きろ。 お前には、儂が…」
と、声を詰まらせる。
然し、最後まで言えないのは、振り返って見た古川刑事の存在の所為か。
俯いているだけの古川刑事は、まるで70過ぎの老人の様で在る。
和世の父親で詩織の祖父はもう一度、グッと詩織を見ると。 不安満面に強張る顔をして、秘書と外へと出て行くのだった…。
その日の夜だ。
もう目覚めていた木葉刑事は、珍しく鬼の様な形相でベッドの布団を握る。
(先生からのメール…。 嗚呼、和世さんが・・死んだ。 誰だ、一体誰だ! 犯人は誰だっ!!!!)
怒りに震える木葉刑事だが。 その胸の内に湧くのは、全く逆の恐怖。
(頼む・・誰か早く犯人を捕まえてくれっ。 フルさんが、鬼に変わる前にっ。 あの悪霊と繋がる前に、誰かっ!)
動けない身体が、今日ほどに憎い事は無い。 この身体が動けるならば、今すぐにでも古川刑事の元へ行き。 この不安を除きたい。
(フルさん、絶対にダメだ! 絶対に、その道だけは選ばないで下さいっ)
胸の内に湧く不安を、メールで送るべきか。 逆効果で、仄めかす事に成りはしないか。 苦悩する。
(嗚呼っ、どうしたら…。 フルさん、和世さんと詩織ちゃんの事を第一に………)
祈りと云うより、懇願に近い思いで悶える木葉刑事。
まだ、胸部の瘴気が取れきっていない。 更に、血の巡る腕や肩や首には、異常な回復から来る強い脱力感が。
(クソっ、段階・・か。 確かに、残りの部分に御札を巻いたら、一部に巻く比じゃ無い。 一週間内で目覚めるならば、それも覚悟できるけど。 目覚める保証は、皆無だろうな…)
憎らしい、和世を轢いた犯人が。 恨めしい、動けない自分が。 そして、何よりも悩ましく、苛立たしく、もどかしいのは、今も彷徨う悪霊の存在。
だが、木葉刑事は、まだ動ける時では無い。 巡る血の働きが、更に瘴気の動きをも加速させる。 胸を境界線に、今夜も、吸い出す御札と瘴気の戦いが始まる。
[カウントダウン:運命のその日まで、残り11日]
‐ 次の日 ‐
和世の葬儀を終えた古川家族。
朝、起きた詩織は、4畳半の部屋で寝転ぶ父親を見る。
「・・・」
喪服のスーツを脱いだ後、詩織に渡された寝間着も着ず。 下着姿で妻の遺影を抱いては、布団を被ったままに動かない。
(お父さん・・ヘンな事だけは、考えないでね)
そう思う詩織は、まだ休めた筈なのに歯を食いしばって学校へ行った。 来年に受験を控えた今、今日も進学級で模擬試験が在る。
さて、一人遺されて、部屋に残る古川刑事は、
「・・・」
布団の中で黙りつつ、目を開いていた。 その内心で沸々と湧き上がるのは、轢き逃げをした犯人への憎悪。
(・・誰だ? 誰が遣ったんだ?)
感情が覚めるのと反比例し、淡々と殺意が募って行く。 怒り、憎しみが純粋に湧き上がり、心を熱く満たして行く。 あの二人の幼い子供の母親を轢き殺し、和世まで奪った相手。 一体そいつは、何処の誰なのか。
(まだ、捕まってない。 逃げてるのか…)
事故の起きた場所は、古川刑事の所属する警察署の管轄外だ。 即ち、違う所轄の刑事が追っている。 古川刑事は、仲間を信じて無い訳では無い。 だが、交通事故で、事故車両もまだ見つかって無い。 事故現場は、徹底的な捜査が行われていたらしいから、そろそろ見付かっても良い頃だと思う。
(木葉、木葉よぉ。 早く良くなって、現場に戻れ。 俺と一緒に、仇を…)
亡くなった和世の霊が居るならば、其処から捜査をしてやろうと思った古川刑事。
だが、その時に木葉刑事は、また気を失って潰れていた。
警察病院にて。
今朝も御札を外した後に、気を失ってしまった木葉刑事。
病室へ回診に来る医師は、痣が段々と目に見えて消えて行くのを知るので。
“回復はしているな。 だが、血が巡って貧血に陥っている。 痣が消えるまでは、これが続くかもな~”
と、診察する。
本日、見舞いに来てそれを聴いたのは、里谷捜査員ではなく順子で在る。
仕事明けで木葉刑事を見ている順子は、一体、この人物の体に何が起こっているのかと、非常に心配した。 痣が消え始める前は、1日の半分ぐらいは眼を覚ますまで回復して来た様に見えたからだ。
曇り空の寂しい雰囲気に包まれた病室に、うつ伏せ寝で居る木葉刑事。
その脇には、椅子に座る順子が居る。 今日は、黒いパンツスーツ姿だ。
そんな病室に、午後3時頃か。 突如、ドアが開かれる。
振り返った順子の目に、車椅子で入って来た女性が居た。
「あら」
最新型のリモコンで動かす車椅子で入るのは、里谷捜査員。
入って来た里谷捜査員に、順子は怪訝な顔をして。
「あ・・あの?」
顔の擦り傷は、既に治り掛ける里谷捜査員。 順子にこう問われて、
「あらら、自分で助けた人の顔も忘れた?」
と、近づいた。
血で汚れた顔しか見てなかった順子は、ハッとして。
「アナタ・・、木葉さんと一緒に入院された?」
「そうよ」
木葉刑事の枕元に来た里谷捜査員は、
「し」
と、口に指を当てる。
「?」
何事かと思う順子の前で。 里谷捜査員は、木葉刑事の枕の下に手を入れると。 何か、黒ずんだ紙の様なものを握り締めて、引き抜いた。
順子は、驚くと共に口を開いたが。
「!」
その口に、里谷捜査員の手が掛かる。
里谷捜査員と順子の目が噛み合う。
然し、直ぐに里谷捜査員は、左に目を巡らす。 何度も、何度も、そうするので、順子もフッと自動ドアを見ると…。
(え? ・・人影?)
順子がその人影に気付いたと知る里谷捜査員は、彼女の口から手を離すと。 順子の手の甲へ指を置き。
“みはられてるから はなしがあるなら わたしのへやで”
と、書いた。
流石に医師か、その文言を悟る順子は、里谷捜査員を見て頷く。
最低限の話が通じたと、里谷捜査員は手にする紙を膝に挟み込むと、膝にガウンを掛ける。
「美人センセ。 こんな気絶したアンポンタンなんて、看てても詰まんないわよ。 私の部屋に来て、ケーキでも食べて行かない?」
突然、こう言われた順子は、誰かに見られていると知るので。
「あら、大学病院のエリートにケーキって、コンビニのヤツじゃないわよね?」
イヤミに返された里谷捜査員は、鋭い自前の眼を呆れさせ。
「ゼータク言わないでよ。 公務員の給料とかなんて、お医者様と比較になんないわよ。 てか、見舞いのお土産よ」
「あら、そう。 でも、甘いものは好きだから、お邪魔するわ」
語る二人は、木葉刑事の病室から出て行く。
廊下を出た其処には、誰も居ない。 普段の病院の様子が在るのだが。
里谷捜査員と順子が、廊下の向こうまで行くと…。
「・・・」
黒いスーツ姿の女性が、また階段の影から顔を覗かせる。
(わざわざ、姿を現す様にしてるのに。 心配より、別の感情が在るのか? あの警護課の捜査員も、何故か毎日、見舞いに来ているが…)
鵲参事官から木葉刑事の警護と見張りを任される女性は、去って行く二人を見送った。
さて、里谷捜査員の病室へ来た二人。
木葉刑事の病室より狭い部屋で、本当にそこそこ有名なパティシエの営む店のシナモンパイを出す里谷捜査員。
「急な話で、ちょっと面食らうだろうけど。 何故かは解らないケド、木葉さんの病室が、政府関係者の方から見張られてるのよね」
丸い椅子を持ち出し、病室の片隅に在る二畳ほどの待合い場に座る順子で。
「入院した時から、ずっと見張られてるの?」
ケーキの入った箱をテーブルに置く里谷捜査員が。
「みたいね。 私が気付いたのも、新年に入ってから。 でも、木葉さんは、最初から見張られていたとしても、全く不思議は無いって」
然し、順子の感覚すると、‘監視’や‘護衛’が付く事が、ある種の異常。
「でっ、でも、何故に?」
すると、湯沸かしポットを持ち上げる里谷捜査員は、鋭い自前の目を細め。
「そうね・・。 彼に有って、他には無い。 それは、彼の眼…」
里谷捜査員の意見に、順子は目を凝らす。
「本当に・・それが?」
引き出しから紅茶のティーパックを持ち出す里谷捜査員は、それをテーブルに置くと。 順子も手伝いをし始めた。
「木葉さんと一緒に、あの悪霊って存在に触れた佐貫刑事は、元々は彼の見張りで付けられたみたい」
「そんな…」
カップを並べる里谷捜査員に対し、ティーパックを出して入れる順子。 紅茶が入り、ケーキを二人して片付ける中。
里谷捜査員は、木葉刑事の巻いていた御札をテーブルに出して。
「食べ物を前にして、こんなの出すべきじゃ無いけども。 見て、このヌメリ」
クシャクシャに成った御札の表は、書かれた文章が見えない程に歪み滲んでいる。 然も、御札の表面、木葉刑事の皮膚と触れ合っていた部分が、ドロドロとしたゼリーの様なものに被われている。
爪で突っつく順子は、
「何コレ」
と、凝視すれば。
ケーキを細かく分ける里谷捜査員が。
「数日前に、木葉さんの希望で、或る神社の神主さんが来たみたい」
御札から、里谷捜査員へ目を移す順子。
「‘神主’って、神社や神宮に居る?」
「そ」
「何で・・また…」
「彼が、呼んだみたい」
「木葉さんが呼んだ? じゃ、もしかして・・これって、その、神主さんが持ち込んだ御札?」
「みたいよ。 その人の話だと、悪霊の力に冒されたから、あの痣が出来たみたい。 だけど、この御札を痣の部分に貼れば、その力を吸い出せるとか…」
アニメの中の話みたいな事に、眼を見開く順子。
「も、もしかして、木葉さんの身体が急に回復してるのって…」
「ご想像通り。 でも、悪霊の力が抜けた後、急激に血の巡りが良く成って、逆に貧血に成っちゃうんだって」
公務をする時では無いからか、口調を砕かせる里谷捜査員。
然し、御札を見詰める順子は、そのゼリー状の部分をじっくり観て。
「本当に、‘念’なの? 微かにだけど、このヌメリの中のインクみたいな部分が、動いてるみたい。 然も、何て云うか・・もがいてる?」
細かくしたケーキを口に運ぶ里谷捜査員は、見方が違う順子を見て。
「流石ね。 私なんて、さっさと棄てちゃってるのに」
だが、ケーキに気を移す順子。
「‘ケッタイなもの’って云う意味なら、同意見よ」
と、食べる方に動く。
処が、この時に。
木葉刑事の部屋では、黒いスーツを来た人物が木葉刑事のベッドの脇に立って居る。
サングラスを掛け、短めの髪をした。 薄い化粧の女性で在る。
(この男が、今に起こっている事件を止める可能性を持つ者。 視えるだけで、何が…)
だが、彼女が居たのは、僅かな時間だった…。
そして、夕方。 木葉刑事が目を覚ます頃。 この女性の影も形も無い。
然し、漸く両手が使える様に成る木葉刑事は、細めた眼で脇を見詰める。
(また来たね。 見守るのか、監視か…)
何故、眠っていた木葉刑事が、謎の客の存在を知っていたのか。
謎は、多い。
だが、両手が使える様に成って来た。 メールを里谷捜査員に売って、また差し入れを求めた。
[カウントダウン:その日まで、残り10日]
‐ 次の日 ‐
朝、10時頃。 古川刑事は、自分の所属する所轄の警察署に、電話で連絡を入れた。
最初は、三住刑事が暴走してないか、とか。 仕事の事だが、最後には…。
«課長、それから・・妻の事件については?»
«いや、まだ新しい情報は、入ってないよ。 だから、フルさんね。 もう少し、ゆっくりして構わないよ»
と、課長はやんわり言う。
然し、古川刑事は、声を低く引き締めて。
«いえ、明日から、出勤させて貰います。 黙っていると、逆に気が滅入りますんで»
«だが・・、フルさん»
«大丈夫です。 被害者の遺族と成っても、私は刑事ですから…»
«そ・そうか?»
«はい。 では、明日»
電話を切る古川刑事は、何故か仕事に行く姿に変わる。 グレーのスーツに、黒いコートを羽織ると外に出た。
薄曇りの広がる下で。 古川刑事が向かったのは、和世の事件現場だ。 路肩に雪の塊が残る交差点には、信号機の付いた横断歩道の向こうと反対側に。 亡くなった母親への、線香やら花束が在る。
(二人も・・、子供の居る母親まで…)
古川刑事も、迷惑に成るのは解っていたが。 どうしても、手を合わせたく成った。
雪が降った後だが、街路樹の周りは湿っていて。 其処に集められた様に重なる花束は、意外にも数多い。
手を合わせる古川刑事は、近くの公園に向かう。 この公園は、遊具などは無いが。 ベンチや灰皿が完備され、真ん前には裏手だがコンビニも在る。
其処で古川刑事は、スマホを使って、誰かと連絡を取る。
さて、水分を奪う乾燥した冷たい風が吹く、午後の2時前か。
公園で待っていた古川刑事は、通行人に見られても気にする感覚も無く。 ベンチに座り、ボンヤリとしながら、コンビニの裏から入る自動ドアを見詰めていたが。
その後ろから。
「古川さん」
と、絞った様な低い女性の声が掛かる。
振り返らない古川刑事は、誰か解って居て。
「ん・・、
古川刑事の後ろに居るのは、白いコートを羽織る細身の女性だ。 年齢は、見た目に30代半ば・・どうか。 前髪が顔を右に流れ、後ろ髪をポニーテールにしている。 その毛先は、背中の真ん中に掛かるぐらい。 コートの襟元には、赤いスーツの襟元や、Yシャツの襟がみえる。
‘諸方’と、古川刑事から呼ばれた女性は、古川刑事の背中を見て。
(古川さん、背中が・・刑事じゃ有りませんよ)
細目で鼻が高い、細面の諸方なる女性は、古川刑事の脇に出て。
「古川さんのトコの交通警務課に居た頃は、‘リン’って呼んでくれてたのに。 刑事に成って移動したら、急に他人行儀ですね」
と、言う。
彼女も、古川刑事の奥さんの事は知っている。 明らかに、態と言い掛かりをしたのだ。
処が、細目の大人びた女性を見返さない古川刑事は、こう言われても。
「君も刑事に成って、早6年。 然も、今はソウイチのデカだ。 いい加減、20代の呼び名じゃ失礼だろう」
解り切った変化の説明が返って来て、諸方と云う女性は溜め息も出せずに立ち尽くす。
古川刑事は、遠い目をしながら。
「和世の事件は、捜一“ソウイチ”が出張らないのか?」
と、問えば。
「・・・」
諸方と云う女性は、目を困らせた。
違う事件の捜査状況を、合同捜査する捜査員でも無い限り。 他言する事は、服務規程違反と言われても反論は出来ない。 更に、その話す相手が事件の関係者で、然も遺族と為ったら…。
だが、諸方と云う女性は、
「無論、来てます。 でも、例の事件の影響から、本庁からの捜査員は少ないです」
と、報告をする様に言う。
「やっぱり・・、な。 あの事件の所為で、悪い事が続いてるか…」
古川刑事は、力を無くす様に俯いた。
然し、日本の警察の捜査能力は、古川刑事も理解している。
「だが…」
と、顔を始めて諸方と云う女性に上げると。
「あの交差点には、最新の防犯カメラが入ってる。 ‘特殊な高級車’って云う目撃情報が、マスコミも流す程に上がっている以上。 映像解析から、車種とかは特定されて然るべきだろう? そんなに、手が足りて無いのか」
と、こう聞き返した。
「それは…」
問われて、急に口を濁す諸方と云う女性。
だが、長年に亘って刑事をやって来た古川刑事は、その変化すら目敏く見据え。
「・・まさか、既に解ってるのか? 解ってて、情報を出せないのか? そうゆう相手なのか、諸方」
諸方と云う女性は、もう既に一人前の刑事だ。 元は、古川刑事の居た所轄の婦警だったが。 刑事を志望して、自力で成った。
然し、その手本は、古川刑事で在る。 この、古川刑事の眼力を見て、成る決意を持った。
詰まりは、古川刑事を目指したのだ。
(古川さんに主導権を持たれたら、腹の中の事を当てられる。 やっぱり、微かな変化も…)
犯人の様な気分と為った諸方刑事は、その不安を捨てたくて。
「古川さん、もう少しじっくりと、遣らせて貰えませんか。 奥様の仇は、我々が必ず…」
然し、古川刑事の眼が、一気に刑事の眼に変貌する。
「諸方、これだけの事件で、今日も特集組んでTVで放送してる。 俺の事は、警察の方でカバーしてるが。 幼い子供二人の母親の方は、旦那にインタビューが集まってるし。 事件の進展を知りたい記者やカメラマンが、娘の詩織の帰り道に待ち伏せするぐらいだ。 なのに、その情報が報道に落ちてないなんて、相手が普通じゃ無いな?」
古川刑事が此処まで言うと、諸方刑事の眼が更に細くなる。
その顔を見返す古川刑事は、諸方刑事の立場を察した。
(こりゃ、かなり慎重な捜査が行われつつも。 一方では、情報共有の枠が、捜査陣の中でも個別に設定され。 所轄の刑事は、知らされて無い情報だな?
嫌な現実が、諸方刑事の態度からうっすら浮かび上がって。 古川刑事は、寧ろ苛立つ。
だが、同じ刑事。 心中を察して、か。 また、コンビニの入り口を見る方に顔を戻すと。
「諸方」
と、平静の声音で声を掛ける。
然し、諸方刑事は、腹を探られまいかと返事が出来ない。 言葉一つ、視線や表情一つすら、返すのが怖い。
古川刑事は、前を見詰めるままに。
「今、木葉が入院してる以上、俺も本庁にコネが少ない。 相手が誰か知らんが。 隙の無い捜査を頼むわ」
と、腰を上げた。
地下鉄の駅の方に、古川刑事は去る事にする。
その後ろ姿を見詰める諸方刑事は、老兵と成る古川刑事の経験と勘に恐れを為した。
(古川さんなら、私達以上に捜査が出来るかも・・。 ‘木葉’なんて捜査一課のお荷物なんかに、頼る必要も無いわ)
と、低いヒールの踵を返す。
いや、古川刑事と木葉刑事なら、全く別の切り口から犯人に辿り着くかも知れない。
そして、彼女は・・・。 木葉刑事的に云うならば、‘大失態’を犯す。
さて、その前に。
今日も、木葉刑事の見舞いに来た順子。
ベッドで伏せる木葉刑事は、気を失ってる様に眠る。
御札を棄てた順子は、一人病室にて。 眠る木葉刑事の顔を見詰めていた。
(不思議だわ…。 こんな身体に成ったのに、まだ命懸けで治そうとしてる)
順子にとって木葉刑事は、これまでに知る一番異質な人間だ。
何故なら。
今、順子の周りでは、地位と出世目的の争いが起こっている。 ま、何処の会社だの、病院だの、人間の作る階級や役職の在る職場なら、普通に起こる現象だ。
然し、事件とか、災害とか、救助とか、普通に危険だと思われている事とは、全く違う事に。 こうして命を、体を、張る人物が居るのだ。
(木葉さんが、死ななきゃいけないのかな。 神主さんとか、その道のプロって居ないのかな)
ぶっちゃけ、順子には他人ほどに強い出世欲は無い。 医療技術を何処までも極めたいとは思うのだが。 教授に成りたいとか、最新医療を開発して売りたいとする様な気持ちも、何処か薄い。
然し、悪霊の所為で病院で医師が三人も亡くなり、休業する医師も出始めると。 残る優秀な医師には、期待やら欲の視線が集まる訳で。
家に居ても、妙な誘いの連絡やら何やらが来る順子は、逃げる様に此処へ来る。
(木葉さんが心配で、此処に逢いたくて来てるのに。 下らない誘いや連絡に、断りの理由付けみたくして来てるみたいだわ)
一応、かなり優秀な医師として、今日まで来た順子だが。 木葉刑事の示す行動には、頭が下がる。 自分のプライドや経験が勝らないと感じて、不思議と普通に居られるのだ。
里谷捜査員からこの部屋が監視されてる・・と、もう知った訳だが。 今日は、話せるまで居ようと思っている。 里谷捜査員も含め、何となく会話をしてみたかった。
一方で。
警視庁の‘特別捜査本部’では。
広い本会議場の2つ隣。 ブラインドが降りた小さい会議室には、何時でも会議が出来るセットが成されており。 その場には、二人の人物が居た。 一人は、木葉刑事の直属上司と成る篠田班長と。 数年のみの借り置きで役職に座る、一課長だ。
コーヒーの入った紙のコップを片手に、パイプ椅子の脇に立つ篠田班長は、50代に差し掛かるオッサン面を酷く憔悴させて。
「あ゛~、一課長」
と、眉間を揉む。
一方、若干色の入った眼鏡を掛ける一課長は、まだ40代前半の痩せた男性ながら。 額に手をやる様子は、相当に疲労困憊していると云う雰囲気が溢れていて。
「何ですか、篠田班長」
奇妙に他人行儀な物言いで返す。
ブラインドの降りた窓の近くにて、椅子にドッと腰掛けた篠田班長が。
「我々は、降格処分ですかね…」
と、投げ遣りに言うと。
一課長は、普段の狡猾な印象を受ける眼を、今は力の無いものに変えて。
「可能性は、‘超’が付く程に有りますよ」
と、先ず言ってから。
「ま、我々以外が後を継いでも、結果は似たり寄ったりと・・・思いますがね」
間を余り開けず、こう続けた。
目の下の色が、実に不健康そうな二人。 篠田班長など、頭を掻けばフケが飛ぶ。 最近、警視庁が家の様に成り、恐い奥さんですらメールの文章が優しい。
「然し、2日、3日と間を空けずして、このヤマに関わり合いの有りそうな首の無い遺体か、首が落ちている遺体が見つかる。 鑑識も、刑事も、もう限界に来てますよ」
篠田班長の愚痴に、一課長は意気消沈。
「ハァ~、犯人と思しき相手とニアミスするのは、決まって木葉が切っ掛け。 アイツが居なきゃ、尻尾も掴めない…」
この話には、篠田班長も大きく肩を落とした。 だが、篠田班長は、顔を手で撫でながら。
「然し・・、何で鵲参事官が、最初から出張ったのか。 あの極悪人の広縞が死んでから、明らかに変なことばっかり続く。 木葉刑事も、・・面倒な人に目を付けられたもんだな…」
すると、何故かコーヒーの入ったカップを口に運び掛けた処で止める一課長は。
「‘未解決の始末人’か…」
と、呟いてからコーヒーを呷る。
顔をさする手をピタッと止めた篠田班長は、一課長に顔を向けると。
「は?」
聞き返された一課長は、廊下側の入り口の扉を見詰めながら。
「警察庁官房長官付きの特別な参事官‘鵲’は、これまで特殊な事件にのみ首を突っ込んで来た」
「はぁ」
「篠田さんも、私より古い一課の刑事だから、その辺の事は知らない訳じゃ無いだろうが・・。 あの鵲参事官の来る時は、特殊な未解決事件の時だ」
一課長の意味深な物言いに、篠田班長は嫌がる様に顔を背け。
「そんな風に、見えますかね…」
「見える。 今回の事件といい、木葉の叔父の死んだ一件といい。 数年前、足立区で起こった事件だって、その前の港区で起こった事件も。 犯人の姿を見た者が居ないのに、鵲参事官が出て来て。 木葉の叔父や、他の刑事の証言を元にして、被疑者死亡として幕引きをした」
語る一課長の顔は、次第に不満から来る憤りに染まる。
然し、彼に背を見せる様に成った篠田班長は、話を嫌ってか。
「一課長、その話は・・止めませんか。 ‘幽霊’に関わってるみたいで、嫌ですよ」
言い出しっぺの篠田班長だから、一課長もムッとしたのか。
「篠田班長。 お宅だって、あの消えた三人の刑事とは、面識も在った筈ではないのか?」
然し、問われた篠田班長は、
「一課長・・」
と、力無く呟く。
「何だ?」
「私、もう退職した先輩の刑事に言われた事を思い出しましたよ」
「何を?」
「昔、やはり木葉の叔父と同様に消えた刑事と同僚だった先輩が、似たような境遇の私に、こう言いました」
“我々は、‘普通’の刑事だ。 普通の刑事は、目に見える者を追えばいい。 決して、‘視る事の出来ないもの’を、追う必要は無いんだよ”
「・・とね」
篠田班長の話は、一課長には不思議な話だ。
「篠田班長・・、いや、篠田さん。 アンタ、何か知ってるのか?」
だが、篠田班長は、一課長に背を向けた姿のままに席を立つ。
「何も、知りませんよ。 私は、見えるもの以外は、何も知りたく無いですよ」
と、紙コップを手にする。
「篠田さん、何か思い出したのか? 何だ? 何を思い出した?」
捕まえる様な、刑事の取り調べの様な、一課長の問い掛けだが。
「いえ、何も。 私、今日は帰ります。 妻と子供の顔を、忘れそうなんで…」
珍しく、篠田班長が一課長に反抗する。 声を荒げたりしないが、明らかに肩へ掛かる声の手を振り払う様な淡々とするものが在った。 これまで、何処までも自分を持ち上げて来た人物が、急に掌を返した様な印象を円尾一課長は感じたのだ。
篠田班長が廊下に去って行き。 一人で取り残された一課長は、携帯を取り出してディスプレイ画面を見た。
(もう、昼も過ぎたか…)
昼食が喉を通らないので、後回しにしたが。 既に、午後3時を回っていた。
(まさか・・切っ掛けは、木葉か?)
一課長は、そう考えて。 改めて木葉刑事の存在が、不思議に思えた。
(一体、鵲は何を考えている? 大体、大学がいいとは云え、何で大した手柄も無く、あの地位まで登ったんだ?)
一課長の知る限り。 鵲参事官と云う人物が、目立って捜査に於ける指揮能力を発揮した記憶は、全く無い。
深く考える一課長は、警察庁の
然し、この同時刻。
所が変わって、目黒区の霊園にて。 和世の墓参りをする古川刑事の姿が在る。 和世の一族が入っている墓で、真新しい花が備えられている。
古い墓石も多い並びで真新しい卒塔婆が立てられた墓は、目に付く限りで云えば和世の入った墓だけだ。
線香の香りが、手を合わせる古川刑事を包む。
(和世。 お前は・・此処に居てくれ。 俺の代々の墓なんて、小さいもので無縁だ。 お袋と、俺も入ったら…)
そんな事を考えていた古川刑事だが。 赤く成った陽が、敷地の片隅に植わった柿の木に遮られていた。
そろそろ詩織が学校を出る頃だろうと。 帰る事にした古川刑事。 柄杓を入れた空の桶を手にして、残った線香やらゴミを黒いビジネスバックに入れた。
広い霊園の中で、日暮れまでもう少し。 少し延びた陽だが、まだまだ冬の長さだ。 その日差しが、斜めに入る一角。 水道の蛇口が並ぶ石の流し場に来た古川刑事は、桶や柄杓を片付けた後。
(詩織に、電話してみるか。 何か、食べに出てもいいしな。 マスコミに、絡まれてなきゃいいが…)
と、スマホを取り出せば。
(ん? メールが着た・・・、諸方か?)
警察関係の者とのメールアドレスは、保存して在る古川刑事だが。 違う所轄に移ってから、諸方刑事のアドレスで来るのは、初めてだった。
然し、その内容とは…。
- 古川さん、諸方です。
今、此方の捜査本部では、或る人物を犯人と断定して、裏付け捜査をする事に決まりましたので。 古川さんが暴走しない様、メールをさせて頂きます。
昼間に仰った通り。 とても特殊な超高級車が、奥様を含めた四人を轢いたものです。
また、その持ち主は、この1年ほどで我が国と親しく成った、暫定自治政府が治めるアフリカの国の大使の息子です。
然し、その息子は、大使館に問い合わせた処。 ‘海外に出国した’、との返答でした。 -
此処までメールを見て、古川刑事は愕然として前に向く。
(馬鹿なっ!! もっ・もうっ、この国に居ないだとぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…)
グワァーーーっと胸の内に湧き上がる怒りは、脳天まで突き抜け。
(ふざけっ!!!)
スマホを投げつけ様と、意識が爆発し掛けた。
処が。 握ったスマホの画面を睨み付けた瞬間、まだ続きが在るのが辛うじて眼に入る。 然も、右のカーソルを見れば、全体の文章の半分ぐらいしか読んで無い。
(続き・・)
だが、持つ手を振り上げ様とした気持ちを静めるのは、簡単では無かった。 もう亡くなったが、古川刑事の心ではまだ生きている和世の近くでは、この続きを読むのは難しいと感じた。 近場で、何処かを探そうと目を瞑った。
霊園から出た古川刑事は、駅に向かう道なりの公園で腰を下ろした。
(・・刑事、俺は刑事だ)
己の冷静さを呼び起こして、覚悟を決める。 何が書かれていても、取り乱さない様に…。
そして、メールの続きに目を落とすと。
- ですが、古川さん。 容疑者の若者は、以前に海外から国内へと麻薬を持ち込もうとした事が在り。 空港のブラックリストに、指紋・網膜を含めた情報が既に登録して有ります。
詰まり、偽装カード辺りでは、海外に出国する事は不可能。 本部としては、大使館内か。 大使の息が掛かる場所にて、潜伏していると見ています。
また、車は既に他人へ渡り、バラバラにされて売り捌かれたと云う見込みですが。 フレームの一部は、先ほどに発見されました。
古川さん。 この事件は、外堀から埋めて行く地道なものが主流となります。 早い逮捕を望みましょうが、少しの間だけは待って下さい。
此方の捜査本部としても、両国の間で交わされた協力開発の事を考えると。 ごり押しの事は出来ません。
もし、取引協定の無い国に逃げられたとしても、海外でも乱交やら暴力と無謀な事を繰り返しているので。 必ず捕まえるチャンスが有る筈です。
どうか、辛抱強くお待ち下さい。
諸方 -
その全てを読んだ古川刑事は、相手が治外法権の特権を持つ相手と知る。
(なんて・・こった…)
周りの人など目にも入らず、頭を抱え込んだ。 問題の国は、去年の初夏頃。 日本政府と急接近して、大規模なインフラ整備を交換条件に。 石油、レアメタル、鉄等の採掘などを任せて貰える上。 購入にも優遇が付くと言うのだ。 美味しい条件を提示してくれた相手国の大使の息子一人で、この関係を悪くしたくは無いのは、両国政府の本音だろう。
捜査員で在る古川刑事だから、そのやり方を色々と考える。 海外に出させ、引き渡し協定の在る第三国で捕まえるやり方や。 これを取引の条件に使って、もっと有益な外交交渉も有り得る。
(冗談じゃ無い、冗談じゃないぞ…)
法治国家と云う立場からして普通ならば、犯罪を犯したる者には、逮捕が優先されて当たり前だ。
然し、外交特権が絡んで外国人が犯人と成ると、その普通の流れが普通では無くなる。
恐らく、今年3月から始まる日本政府が任されたインフラ整備工事事業まで。 この事実を明るみにして世論に波紋を生む事は、両国とも避けたいだろう。
何より、マスコミの調べた情報だから100%信頼が出来るとは限らないが。 この自治政府の国は、反政府グループの第三勢力が、資金力に物言わせて内戦に勝ち。 民主の主導を謳った勢力、社会主義を謳った勢力、宗教主義を謳った勢力も国内から排除した経緯が在る。
そんな経緯から、各勢力をバックアップしていた核保有国家からは、国として国連で認めるか、否か、非常に揺れ動いているらしい。
日本政府は、民主資本主義を協力して指導するとして、全く無関係に近い所からこの状態に成った。 その政府の大使の一族に、国内で我が儘放題されても恥に成る。
様々な見方を考える古川刑事は、嫌な考えしか浮かばない。
(嗚呼・・、今の俺では、詩織の前で………)
娘に、こんな事を知らせられようか。 知ってしまった自分だが、娘の前でポーカーフェイスをする自信すら無い。
(今日は、帰りたく無い…)
頭を抱えた古川刑事は、可愛い娘となる詩織の事を思って、今の自分の不安を見せる訳には行かないと思う。 酔う事にしようか・・と、考えた古川刑事だが。 酔ったら酔ったで、自制心が砕けてしまうかも知れないと迷う。
これから先・・と、云うより。 この事件がどうなるのか、古川刑事は困った。
(木葉…)
ふと、相談の出来そうな相手を考えて、真っ先に木葉刑事が浮かぶ古川刑事。
(娘には、こんな事を言えないが。 馬鹿でも、息子みたいな奴になら…)
愚痴に成りそうだが、他に誰も居ないと思った古川刑事。
(コイツなら、詩織も頼れるだろう…)
唯一、相談の可能な人物に電話をしようか、どうしょうかと古川刑事は悩む。 顔をさすったり、帰宅するサラリーマンを見詰めたり、雲の動く空を見上げたりする。 薄曇りの広がる空は、夕方すら暗くする蓋の様だ。 街灯が点いて闇を明るくするまで、古川刑事は迷った。
然し、スマホを見詰めていた古川刑事の眼が次第に・・次第に、一点を見詰めて細まった。
(待てよ、待て。 も、もしも・・俺と・・刺し違えなら…)
どうしたら逮捕する事が出来るのか。 それを考える古川刑事だが、フワッと。
“殺せば良い”
と、考えが浮かんだ。
向こうが、此方の手出しが出来ない特権で守られるならば。 こっちは、科学的じゃない。 法に問えない方法を使えば良いと…。
(仇を取れるなら、和世の仇が取れるなら…)
この時、この場に木葉刑事が居たならば、古川刑事の背中に寄り添い泣きじゃくる女性の姿を見ただろう。 止めて、止めてと泣き叫ぶ女性の姿が…。 そして、全てを察しては、古川刑事を止めたに違いない。
が、何故だろう。 人、魂の触れ合いは決まった物と成らない。 この不確定でハッキリしない所が、科学的に理解の出来ない部分なのだろう。
“強い繋がりが有るならば、現れて言えばイイだろう”
こう言われるかも知れない。 古川刑事に寄り添うのは、和世の霊だ。
“木葉さんっ、助けてぇっ! ウチの人っ、ウチ人をぉぉぉっ!! アナタっ、私を視えて!!! 私、そんな事をして欲しく無いっ!! アナタは、刑事よ! 駄目っ、そんな事は駄目ぇぇ………。”
この和世の霊の姿が視えていたならば。
いや、運命はそれを許さない。 どうして、視えないのが当たり前なのか。
(クソっ、和世やあんな若い母親を殺しやがって。 それで、逃げられるなんて、何が法だ! 悪霊でも、悪魔でもイイ。 仇を、裁きを与えられるならば…)
こう思い詰めた古川刑事は、迷う事も無く。 夜の入りと成る6時過ぎ、或る人物へと連絡を入れた。
«・・もしもし、先生ですか? はい、自分です。 先日は、通夜から葬儀まで、お付き合い下さってありがとう御座います。 いえいえ、此方こそ。 はい、実は…。»
[カウントダウン:その時まで、残り9日]
‐ 次の日 ‐
早朝。 何とか目を覚ました木葉刑事は、昨夜に御札を巻いた腹周りから震える手で御札を剥がすと。 突然、目眩に襲われた。
(な・・・ん・だ? 心臓・・か・ら・・と、とお・・のいた・はっ・・ず)
血液を巡らせる心臓の在る胸部から、既に瘴気に因る障りはだいぶ消えている。 昨日は、楽に成って来たと思ったのに…。
(ま・まく・・ら)
どうして滑るのか解らない御札を、枕の下に入れた木葉刑事。
また、昨夜から誰かに、ずっと話し掛けられている様な、そんな記憶が微かに残る。 意識が抜ける様な感覚に陥る木葉刑事は、誰かに誘われている様に、吸い込まれる様に、眠りへと堕ちる。 ‘気絶’では無い、完全なる睡魔に引きずり込まれた。
(だ・誰…)
眠りに着いた木葉刑事は、不思議な夢を見る。
(何だ・・これ)
周りがぼやけてハッキリしないが。 二人の人物が居るのは、確実に解る。 古川刑事が、泣いて伏せる和世さんを見下ろしているのだ。
その見下ろしている古川刑事の顔は、とても悲しそうな顔をしている。
また、頭を下げている和世は、何かを頼んでいる様な。 懇願している様な様子で、身体を揺すり泣いていた。
木葉刑事は、夢の中と解る。 だから、それを消そうとして。
(フルさんっ、何をしてるンスか・・。 和世さんを、フルさんが泣かすなんて可笑しいッスよ)
意識として、言って終わらせるつもりだった。 自分の認識しない形の夢は、自分の妄想や不安の現れに近い。 こう言って、自分に納得させるつもりなのだ。
だが。
気持ちとして、古川刑事に言った。 然し、不思議な事に、喉が潰れているのだろうか。 口をパクパクさせているだけの様で、声が出ない。
(ん? どうした?)
また、動こうとしても、透明な箱にでも入れられて阻まれているかの様に。 前にも、後ろにも、何処にも動けず。
(?!!)
夢の中なのに、泣いている和世が自分を見て来る。
“助けて、木葉さん!”
口の動きで、和世がそう言ったのが解る。
(あ、嗚呼っ! 和世さんっ! 何が起こったンですかっ!! フルさんっ! 何をっ?!!)
何故だか、もがきながら問う木葉刑事で。 二人に言うも、次第に二人が暗く成る。 闇に包まれると云うか、遠退い行くと云うか…。
(これは、佐貫さんの時と同じじゃないかっ!!!! フルさんっ!! フルさんっ!!!!!!!! フルさああああああああああああん゛っ!)
喉の限界を超える程に大声を上げながら、古川刑事に手を伸ばした。
瞬間。
「フルさああああああああああん゛っ!」
目を覚ました木葉刑事は、またもや空に向かって手を伸ばして居た。
「ハァ、ハァ、ハァ…」
叫び上げた自分の視界には、医師と看護士の姿が見える。
「木葉さん、しっかりしなさい」
回診に来た恰幅な体型の医師が、木葉刑事を見下ろす形で言って来る。
医師も、看護士の幾人かも、古川刑事と奥さんの和世の存在は薄々と知っていた。 木葉刑事を見舞うのだから、当然かも知れない。
医師は、木葉刑事へ。
「木葉さん、少しずつ痣が取れて来ている。 だけれど、まだ動いてはダメだ。 激しく動けば、痣の在る境目で、筋肉の断裂が起こるかも知れないからね」
言われた木葉刑事は、医師と看護士をやり過ごすべくして、頷いて寝る。
然し、二人が部屋から出て行き次第に、順子から用意して貰ったスマホを使って、古川刑事にメールをした。 電話をしたいが、外で見張られているのがそれを憚った。
然し、動く運命は、動けない木葉刑事を苛めるかの様に、待ってはくれない。
昼前。 古川刑事は、わざわざ自分に会いに来た、同年代の刑事と外で会っていた。 二人のみ、話の聴かれない様にと、或る地下鉄の片隅にて移動した。
トイレが近い行き止まりの壁に背を預ける白髪混じりのスポーツ刈りをした年配刑事は、厳めしい顔を渋くさせて。
「古川さん、‘諸方’から相談されましたか?」
今の付き合いは薄いが、互いに警察学校からの同期にて。 和世との結婚式にも出席してくれた相手だけに、古川刑事も苦笑いして。
「‘相談’な。 リンは、そう言ってたか」
こう呟いた古川刑事に、年配刑事は言った。
「古川さんよ。 互いに、刑事だ。 アンタほどの相手に、説教なんておこがましいだろうが。 頼むから、落ち着いていてくれよ。 事態は、どう転ぶか解らないからな」
然し、犯人となる相手が相手だ。 古川刑事も、やや物言いを崩して。
「‘落ち着ける’って云う状態にするも、しないも。 それは全て、警察に掛かってるんじゃないのか? バラされた車のパーツを探して、
不気味な睨みまで貰う年配刑事は、背中に震えに近いものを走らせた。
「気持ちは、良く解るさ。 だが、向こうは、外交特権に守られてるし。 上層部は、政府の威光と同調してる。 事件の間が悪過ぎて、沙汰が遅れてるのは、確かだ」
と、苦しい言い訳に。
然し、何故か怒る処まで行かず、不気味な程に落ち着いている古川刑事だ。
「ま、お互いに組織の下っ端だからな。 それについては、仕方ないだろうよ。 逮捕をしないってなら、ホシに天罰を下すのは誰か…」
と、意味深な言い方をした古川刑事は、年配刑事を見た。
その瞬間、見られた年配刑事は、驚きの顔に変わる。
(不味い、こりゃあ復讐の眼だ)
刑事ならではの直感だろう。 恨みや妬みで、事件を起こす者が居る。 中でも、本気で復讐をする人間の眼は、総じて似通って来ると感じたこの年配刑事。 今、古川刑事の眼は、鬼刑事の眼では無い。 明らかに、遺恨を孕んだ‘復讐の鬼’に変わる眼だった。
然し、直ぐに眼を穏やかにした古川刑事で。
「んじゃ、三住の馬鹿たれを待たせてるからよ」
と、古川刑事は去って行く。
「・・嗚呼、不味いな」
その背中を見送る年配刑事は、小さく呟いた。
昼間、三住刑事を従えた古川刑事は、仕事を始めながらに聴き込みに回り。 三住刑事へ、その役回りをさせる事に。
人当たりが荒っぽく成ってしまう三住刑事が、今更ながらにアクセクして。 新米の巡査みたいに聴き回るのを見ながら、古川刑事はメールだけを見て返信しなかった。
(ふぅ、木葉・・。 やっぱりお前は、凄ぇよ。 お前のその能力は、何処までも刑事向きだ。 俺の腹を読んで…)
古川刑事は、短い文面のメールを見て。 木葉刑事が、自分の憎しみや復讐の念を悟っていると想像をした。 いや、和世が木葉刑事を頼ったと感じた。 昨日、一瞬の事だが、誰かが傍に居ると何度も感じた
然し、アパートでは無い場所のテレビであの母親を亡くした家族を観ると、和世の命を奪った者に対して強烈な怒りが込み上げる。 自分や詩織を、あの家族をボロボロにしておきながら、逃げ回る犯人が許せない。
(誰も裁きを課せないならば、俺の命で裁きを課してやる。 逃がさねぇぞ、絶対に、逃がさねぇぞぉぉぉ……)
今、正に。 古川刑事の心は、木葉刑事の懸念するその一念に入り込もうとしている。
‘逃してなるものか’
この一念。 これだけは、揺るぎないモノに成りつつ在る。
その日の夜まで、通称‘地取り’となる聴き回りは続いた。 然し、不思議と三住刑事が古川刑事からどやされる事も少なかった。
夜、7時を回る頃。
或る駅前の大型スーパーにて、高い肉を買った古川刑事は、
「三住、肉を持て」
と。
「はい」
まるでヤクザの下っ端の様な三住刑事だが。
古川刑事は、三住刑事を見ずして。
「三住。 その肉は、お前と彼女で食べろ。 通夜や葬儀で、彼女に世話に成った。 そのお返しだ」
「あ・・」
普段は、絶対に口に出来ない高級な肉を渡され、眼が点に成る三住刑事。
「こ・こんな高い肉、貰ってイイんですかい?」
財布を仕舞う古川刑事は、
「ほら、今日は上がりだ。 お前、明日は非番だろ? 彼女と、ちょっとは夫婦らしい事でもしろや」
と、歩き始める。
本日は、所轄の刑事課長も、主任も、用が在って定時上がり。 報告は、電話で連絡した為に、今日はこのまま帰れる。
スーパーの外にて、頭を繰り返し下げる三住刑事と別れた古川刑事は、詩織に遅く成ると連絡を入れた。
“ちょっと、遅れが出た”
こう文字で会話の出来るアプリで打てば、
“張り込みやら聴き回りで帰れない”
と云う家族内の隠語に成る。
そのまま居酒屋に入る古川刑事は、ダラダラと時間を潰すのだが。 その胸中に募るのは、犯人への怒りと怨みだ。
数年して退職したら、田舎にでも越して。 二人の人生をどうしようかと、他愛なく話し合った最近の日々…。 そんな事から様々な記憶が、古川刑事の頭で浮いては沈みを繰り返す。
(痛かっただろうに・・、怖かっただろうになぁ・・・。 悔しかっただろうに、死にたく無かっただろうに゛っ!)
ふつり…ふつり…ふつり…。
古川刑事の脳裏に、死んで行った妻・和世の姿が浮かび上がって。 その無惨な姿に対して、死ぬまでに和世が思ったと思う感謝が溢れ出る。
古川刑事は、お世話にも人相が良い方では無い。 その男が、怒りと怨みに凝り固まったならば、他人からするとそら恐ろしい顔に成るだろう。 周りに座っていた客が、怖くて席を移るし。 店に入ろうとしていた若者の中では、その古川刑事を知るだけに驚いて、入るのを止める客も出た。
夜9時頃。
酔っても無い古川刑事だが、長居もどうかと感じて外に出る。 だが、帰る心を無くして、トボトボと駅より離れて歩き始めた。 雑居ビルと商店が並ぶ箱の街並みを、当て所ないままに歩き。 ふと、行き着いたのは、何故かネットカフェ。
ちょっと足を休めたくて、誘われる様に店内へと入った。
「休憩を…」
何時に入ったのか、どんな顔をして言ったのか、古川刑事には解らない。 個室化された狭いスペースに入り、黒いリクライニングシートに座った古川刑事。 消音にして点けたモニターテレビの画像は見ず。 ぼんやり脱力しては、木目調の仕切りを見詰めていた。
(和世…和世…か・・)
ジワッと溢れた涙は、その後に止め処なく。 失った悲しみが溢れ出すかの様だ。
そして…。
(チクョウめ・・、チキショウっ! 何が、‘大使’か。 特権・権利を笠に着ている分際で、法を犯した事すらも理解できねぇのかっ! 人を一人・・こんな簡単に命を奪っておいて、それなのに他国でこそこそと逃げやがって…)
例え様の無い喪失感に、一時は無気力に成った古川刑事だが。 被害者、遺族と云う立場に立った時に、客観的な思考など・・持てなかった。
(許せない・・憎たらしいっ。 和世を奪った奴が・・今ものうのうと遊んでるかと思うと…)
悲しみからジワジワと転じて、怨みが湧き上がると同時に。 奥歯を噛み締める古川刑事の顔は、既に刑事の顔では無かった。 一点を集中して見る様に、木目調の仕切りを睨み付け。 何時しか、その手は拳を強く握る。
(殺して遣りたい・・犯人をぶっ殺したい。 ・・チキショウ・・・、チキショウめぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!!!!!!!!!!!)
噛み締める歯を剥き出し、ぎゅうぎゅうと握る拳を震わせる古川刑事。 その‘鬼’と化す形相は、仕切りの壁に見も知らぬ犯人の姿を見ていた。 憎らしい、怨んでも、怨み抜いても飽き足りない相手だ。 身分がどうこうとか、法がどうこうではない。
この時、怒りに身を満たす古川刑事は、奥さんの事件で頭がいっぱいで。 モニターに流れる深夜近くのテレビなど観る余裕が無かった、が。
実は、この日から遡って、前々日の事。 また、身体を握り潰されたかの様に、棒の様に圧縮された老婆の遺体が発見されていた。
そして、その現場には…。
[続きまして、バラバラ連続殺人事件の続報をお伝えします]
特別の特集として、コメンテーターが何人も出ているテレビ番組。 その中にて、メインキャスターの女性が事件をおさらいしている。
前々日に見つかった老婆の遺体の周りには何と、15人もの若者達の首が転がっていたと云う。 握り潰されたかの様に身体を圧縮されて見つかった老婆は、‘振り込め詐欺’の被害者で在り。 また、見つかった若者達の首とは、老婆を騙したと推測されるグループの者ではないか・・と、推察されているらしい。
だが、首だけが発見された若者達の身体が何処に在るのか。 全く解らず、捜査が行き詰まっていて。 その為、警察が情報提供を求めていた。
モニターを‘消音’にする古川刑事は、それが目に入って居なかったが。 然し既に、或る出来事への入り口に、古川刑事は立っていた。 この東京都の中で、あの者を最も強く引き寄せる可能性を持っていたのだ。
そして…。
(高飛びしやがったのか…。 それとも、まだ大使館とやらに逃げ込んでるのか…。 和世の苦しみを、どうしたら仕返し出来るっ。 どうやったらっ、あの悪霊を俺に繋げられるっ?)
明らかな殺意を抱き、犯人へ確実に復讐する事が出来るのか。 それを考える古川刑事は、ヒントを得て模索していた。
そう木葉刑事の恐れていた事は、やはり現実に成っていた。
これまでの事件に、最も近い木葉刑事。 悪霊の存在を認識して、その後を追っていたのだ。 その木葉刑事と、最も近い間に居る古川刑事で在る。 刑事としては立派な人物だが。 和世や詩織の命が奪われたとしたら、その愛情が深いだけに鬼と化す事は想像の出来る事だろう。
動けない木葉刑事は、歯痒かった筈だ。 想定内の事なのに、誰にも相談が出来ない。 もし、まだ佐貫刑事が生きていたならば…。
だが、全ては、予定された事なのか。
古川刑事は、昨日に悪霊を利用する事を思いついていた。 だから、それとなく越智水医師に電話して、悪霊についての知識を再確認したのだ。
(怨めしい・・憎たらしい、殺してやりたいっ! どうしても、どうしてもだっ!! 悪霊よっ、俺に反応してくれ! 頼むっ、頼むから和世の仇を討ってくれっ!!!!!)
心から、その想いが張り裂けて飛び出さんばかりに強く、強く願い始める。
モニターに流れる番組が、深夜帯の情報バラエティーに変わる頃。
一心不乱に望む古川刑事は、己の命を
その、大切な命を奪われた悲しみや憎しみを纏う怨みは、寧ろあの悪霊の始まりの時の想いと通ずるものが…。
だから………。
“にぃぃぃく・・ら・しや・・、にくら・しや・・・。 おまえのにくいあいては・・どこに・・・おる…。 にくらしや・・・のろい・ころ・・して・しまおう・・か”
まるで、テレビのノイズに似た雑音の様に、古川刑事の耳・・。 いや、脳の中に響く、たどたどしい声がした。
「あっ」
思わず、小さく声が出た古川刑事。 その声、その言葉、その言い方…。
(コイツは・・・まさか)
古川刑事の脳裏に浮かび上がるのは、木葉刑事から聞いていた悪霊の声。
(やっぱり、か。 越智水先生から聴いた通りだ! 強烈な憎しみや怨みを抱いただけで、彷徨う悪霊と・・
そう理解した直後。 俄かに肩を揺らし、震え始めた古川刑事。 そして、酷くゆっくりとしながら身を越しては、何故か前のめりに成って行く。
「・・」
黙った古川刑事は、頭を抱えるままに悩み込む様になる。
だが、其処からいきなり勢い良く立ち上がり。
「・・・」
天井を仰ぐ古川刑事の顔を見て、普通の人が思うのは先ず。
‘驚き’
に、なるだろう。
肩を揺らす古川刑事のその顔は、満面の笑みで在る。
いや、当然か。 何処に居るとも所在がハッキリしない轢き逃げの犯人なのに。 悪霊が反応したならば、追えると云う事なのだろうから。
そして、古川刑事は見上げる天井に、姿形も解らない犯人を見ている様で。
「待ってろよ・・、犯人。 俺の身代わりに‘死神’が、復讐に赴くからな」
小さく小さく呟いた古川刑事は、また椅子に腰掛けた。 念願が叶ったと、笑う古川刑事の脳裏には…。
(待ってろ、木葉。 犯人が殺されたら、お前に手柄をくれてやる。 俺の命と引き換えだがな・・。 へっ、へへへ…)
強面の古川刑事が、子供の様に喜び。 そして、笑った…。
[カウントダウン:運命のその日まで、残り8日]
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます