第29話 大賢者、身分を詐称する
大地が、引き裂かれている。
そうとしか形容しようのない光景が眼下に広がっていた。
黒々とした黒竜山脈が唐突に終わった。
とても奥底まで見通せない深い谷が、向こうに見える黄褐色の荒野――瘴気領域とを隔てている。
降魔災害の時代に神々や悪魔の争いによって生まれた地形だと言われているが……それが本当なら、まさに人智の及ばない力を持っていたのだろう。
「ヒツジ先生ー! シショーさんのおうちはどこなの?」
「うーん、いまはどこだろうねえ。崖に張り付いてると思うから、メリスちゃんも一緒に探してくれるかな?」
「わかったー!」
虚無の谷を緩やかに降りながら、俺たちは断崖に目を凝らす。
師匠は決まった場所に住んでいないから、虚無の谷に着いてもまた探す手間がかかるのだ。
「……シロも、探してくる」
「離れすぎて迷子にならないようにねぇー」
【……わかった】
カゴから飛び降りたシロちゃんが、竜化して羽ばたいていく。
白銀の鱗をきらめかせながら断崖に挟まれた谷を飛んでいく姿は、ありきたりな例えだが教会の幻想画のようだった。
「すでに虚無の谷を離れてしまった可能性はないのか?」
「100パーないとは言い切れねえけど、まずこの辺にいると思うぜ。何百年も瘴気の研究をしてたそうだからな」
「そういえば、お前の師匠も長命種なのか? 種族は何だ?」
「あ、いや、人間なんだけど、うん? あれ? 人間なのか? ぎりぎり人間? 人間をやめちゃった人間みたいな?」
「おい、ヒツジ野郎。あっちに何か見えっぞ」
師匠についてミストに説明しようとしていたら、頭上からピュイの声が降ってきた。
ピュイが示す方に視線を向ける。
するとそこには、断崖絶壁にへばり付く甲虫のようなものがあった。
距離と形のせいでサイズ感がバグるが、その大きさは王都の宮殿なみである。
全身が赤銅色の外皮に覆われており、数百年の時を経てきたことを伺わせる。
そのデカブツが、数十本の脚を岩にめり込ませ、角張った巨体の隙間からは明かりが漏れていた。
「ああ、あれが師匠の家だな。寄せてくれ」
「寄せろったってよ。どこにだ?」
「角んところが玄関だからさ。あっちに向かってくれ」
甲虫の端から伸びる巨大な角を指差す。
ちょいっとした橋くらいの幅と長さがあるので、俺たちを乗せたカゴは難なくそこへ着陸できた。
「……シロ、見つけられなかった」
「シロちゃんが行ってくれた方を探さなくて済んだからね。おかげで早く見つかったよ」
「……そう」
「あたしも見つけられなかったけど、がんばったよ!」
「うんうん、ふたりとも偉かったねえ」
俺はシロちゃんとメリスちゃんの金銀コンビの頭をぽんぽんと撫で……撫でられない。ヒツジさんボディでは圧倒的に高さが足りない。ふくらはぎあたりをどんぐりの蹄で優しく叩いてその代わりとした。
「それでセージよ、この門はどうしたらいいんだ? 普通には開けられそうにないぞ」
ミストが腕を組んで見上げているのはこれまた赤銅色の金属でできた巨大な門だ。
巨人族向けに作られたんじゃないかって思うレベルで無駄にデカい。
幾何学的な文様が全体に刻まれており、初見では何かしら魔術的な仕掛けが施されていると思い込んでしまうだろう。
「ふふ、ミストにもわからねえか。こいつにはね、コツがあるんだよ」
「うっとうしいからもったいぶるな。もしや、魔力の直接操作で開けなければならないのか?」
「……これはな、こうするんだ」
たっぷり間を置いてから、俺は門の脇にあるボタンをジャンプキックでぺしっと押した。行儀悪いけどね、タッパが足りないから仕方がないのね。
すると、門の向こうで「ピーンポーン」という音が鳴る。
それに続いてドタドタと足音が聞こえ、段々と近づいてきた。
『すみませーん、どちら様なのじゃ?』
「クロネコ商会のものにゃーん」
『ああー、いつもご苦労さま。いま開けるのじゃー』
「お安い御用にゃーん」
突然にゃんにゃんしゃべりはじめた俺を、ミストとピュイたちがギョッとした顔で見ている。
ふふふ、いいね。男子たるもの、女にはいつも刮目して見られたいものだ。
ギョッとされている間に、門がぎぎぎぎと重く軋みながら開いていく。
「じゃ、入ろうぜ」
「おい、セージ。いまのは身分詐称じゃないのか……」
「方便だよ、方便。百年前に死んだはずの弟子が来たなんて、門の前で説明してたらまどろっこしいじゃん」
「それはそうだが……」
複雑な表情のミストを尻目に、俺はどんぐりの蹄を響かせながら門の向こうへと進んでいった。
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