第9話 5-1.実家にて

 新型コロナウィルス流行当初は中国から欧州へと広がり、欧米の介護施設で死者が続出しているとのニュースを目にして、いずれ日本へも来るのだろうし、この仕事を続けていくことが怖ろしくなったが、いざ日本へコロナが上陸してからは、死者や重症者は少なく推移した。

 日本人や東アジア人の特性によるものなのか、あるいは日本人ではほとんどの人が打っているBCGの予防接種によるものではないか、といった報道も成されていた。


 流行し始めてから半年間ほどの施設の姿勢はどこか他人事のようで、世の中の会社がテレワークを導入したり朝礼を廃止したりする中で何も変わらないことをやっていて相変わらずおばちゃん達が狭い詰所に何人も集まって世間話に興じている。

 施設として感染防止マニュアル的な物を作ろうとする動きも見えない。

 インフルエンザやノロウイルスのはあるのに。

 要は、国とかから言われないと何もしないのだ、とおばちゃん達に混じって僕も他人事のように言いながら、いざコロナにかかってしまったらどうしたら良いのか皆目見当もつかない状態だった。


 その後二年以上続く流行中にようやくマニュアルもできて出勤可否の判断基準や濃厚接触者の範囲も定まり職員にはフェイスシールドが配られフロアにもアクリル板が置かれるようになったが、変異を重ねまコロナウイルスはオミクロン株に至ってはほとんど重症化しなくなっているにも関わらず、以前からの基準を当てはめ微熱や咳だけで休ませ、代わりに働きまくらされる人が出たりと、世の中の会社でも同じようなことが起こっているらしいが、施設で働く職員は運営側の杓子定規な対応に振り回され続けた。


 誰かが休むと、その日は休みだった職員が出て来なくてはならなくなるなどしなくてはならないが、だからと言って全体の職員の数を増やす動きにはならず、むしろ退職者が出ても補充しないなど、人員削減を押し進めている。

 元々介護業界は政府の進める技能実習生制度を利用してアジア諸国からの人材を活用しようとしてきたが、コロナによる減収もあり、職員が辞めても補充せずに技能実習生で穴埋めするようになり、日本人の介護職員はほとんど入って来なくなった。

 アジアの介護人材は心優しい人が多いが同調性も強い傾向があり、回りのベテラン職員の多くがやっている業務を先へ先へと進め、老人個々人の本来のペースには目を向けないやり方を真似るようになるのに時間は掛からなかった。


 コロナ第七波がようやく落ち着いたようなので、ここ二年半以上帰っていない実家へ今度こそは行ってみようと思い立った。


 平日の休みに帰ることにしたので、一人で電車に乗る。

 乗客は皆マスクをしているが、ずらしたり、鼻を出したりして大声で話す人もいる。一時期よりも社会全体のコロナに対する警戒心も薄れているのが分かる。

 

 生まれ育った街へ着く。二十代は実家を出て一人暮らし、三十代で結婚して自分の家族と実家とは別の場所で暮らしてきたが、二年半も実家へ顔を出さないことはなかったのではないか、と記憶を辿りながら、この二年半の間に新しい店もできたり前にあった店や家がなくなっている様子の街並みをしげしげと眺めるが、今や日本全国同じようなチェーン店が並ぶ。


 二年半ぶりに会う父は小さく見えた。

 自分の中に父のイメージがあって、それとのギャップに過ぎないのか、実際に小さくなっているのかは分からない。

 古い木造の家に入って目につくのは、僕がこの家で過ごしていた頃よりも近く感じようになった天井や柱の木目で、渦を巻いているように見えたり波を作っていたり、確かにこの模様は何かが生きているように、何かがうごめいているように見える、と改めて思う。


 よく見ると、父が紙にマジックで模様のような物を描いている。

 父は手描きで仕事をするグラフィックデザイナーだったが、コンピューターグラフィックの台頭に押され廃業した過去を持つ。未だに父の机には筆やインクや定規、羽根ぼうき、カラスグチなどが無造作に置かれている。ライティングデスクは処分したようだ。

 廃業以降は掃除のパートをしていたから、もう三十年ほど元の仕事から離れているはずだが、デザイナーの習性なのか、模様とも絵とも言えない図を描きつけている。


 あの柱の模様は、面白い。

 僕が父の絵をじっと見ているのに気付いた父は、口を開いた。


 なんか、訴えてるっちゆうか、叫んどるっちゆうか。木の叫びかな。

 森の叫び、地球の叫びかな。分からんけど。叫びとまでは行かんでも、意思があんのかな、とあの模様見てたら思えてくる。


 父は地球環境を考えるタイプではない。

 僕が仕事で老人と相対する時の癖で、黙って次の言葉を待っていると、父は照れたように笑い、最近はテレビ観てもつまらんし、外へ出るのも億劫で、自分の家の柱を見て、そんなことを思ってるんや、年とったな、と言い捨てる。


 体調は良いの、とたずねてみる。

 良くはない。入院をすすめられてもいるが断っている。入院したら病人になる。介護なんかされるようになったら、終わりや。自分の動きに主導権がとれへんようになったら、もう死んだ方が良い。


 多分、多くの人はそう思っているだろう。 僕も、僕自身についてそう思っている。

 介護というのは介護者に主導権があるのではなく、利用者が主体で介護者は利用者の状態に合わせて介護するのが本来で、介護の教科書にもそう書かれているが、実際の施設の介護は日々のタイムスケジュールに追われ利用者を施設の日課に無理やり当てはめていかなくては運営できないところがあるので、父や多くの人達の介護を受けることに対する抵抗は現状の日本の施設介護への率直な捉え方だろう。


 昔はよく父に怒られたが、だんだんと、普段仕事で接している老人達に対してと同じような関わり方、話し掛け方をしている自分に気付く。

 体調の尋ね方も、どこか慣れ過ぎている、と自分でも思う。高石さんのことが急に思い出される。


 

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