第5話 2-2.昭南島

 職員に怒りをぶつけまくる高石さんをほとんど怒らせることもなく関わることができているのは、父親がどういう時に怒っていたかということを身体で覚えていることがあるのかも知れない。

 当時は、親でも先生でも、怒る人は正しくて、怒られる側が間違っている、怒られるようなことをするのが悪い、という時代の傾向があったように思う。

 怒られることは今よりも遥かに惨めなことだった。


 高石さんは僕に少しずつ心を開いてくれるようになり、自分の昔の仕事についてのことなどを話してくれるようになった。

 ある夜、高石さんは眠れず何度も起きるので真っ暗で無人のホールへ車椅子で出てもらうと、無地の壁や天井を見つめて、敵が近い、と真剣な表情で言ったり、他の人が鳴らすナースコールの音に驚き、爆撃が近い、と怯えたり、ナースカウンター横の職員の写真が並ぶ一角を指差し、戦死した人か、と聞いたりする。

 いつものことで、聞き流したり、余裕があれば、戦争中の話を聞き出したりする。

 ペアで夜勤をする看護師さんのほとんどは、また言ってる、といった感じで、高石さんの話す内容には興味を持たない。仕事には関係ない、といった感じではある。

 高石さんは話し足らない、といった感じで、なかなか寝ない。

 僕と同期で入った鶴田さんだけが、僕と一緒になって高石さんに色々と質問して話を引き出そうとする。たくさん喋った高石さんは眠くなり、結果的に夜間よく眠れる。


 この施設の入所者は、一日の中で、起きている時間よりも寝ている時間の方が長い。ベッドの上に身を横たえているが眠ってはいない時間も長い。眠れない間、天井を見つめる場面も見受けられる。


 僕も目覚めた時にまず自宅の木目の天井が目に入るので思うが、入所老人達は白い天井を見て何を思っているのだろう。

 木目ほどではないが、若干の模様が入っている。

 木目と違って人工的で規則的な模様なので錯覚は起こしにくいと思うが、人間は老いとともに幻覚や妄想が生じる可能性が高まると言われる。

 高石さんのように敵に見える場合もある。早朝、夜勤明けや早出出勤時、入所者を起こして回るがほとんどの人はまだ寝ていたがる。中には明らかに目を覚ましているのに起きたがらない人が居て、車椅子でじっとして過ごすしかないホールへ行くのが嫌なのもあるが、天井の機械的な模様を凝視したまま、何が見えているのか、まだ起きない、と言っている人も居て、僕が冬の朝になかなか起きられず視界いっぱいに天井の模様が覆いかぶさり心の中も支配されているような感覚なのだろうか、と想像を巡らせてみたりしている。

 考えてみれば天井はどこにでもあり、天井が現実で下界は幻との錯覚を感じたりするが、子供の頃に自分を取り囲んでいた世界は今や幻だったようにも思える。


 仕事の進め方、老人達との関わり方で感心することばかりの大山さんだが、やはり若者だな、と思う出来事があった。

 戦時中はショウナントウに居た、と言う高石さんに対して、どこかの島であるらしいが、どこにある島なのか分からず、どんな字なのかも分からず、湘南、と紙に書き、こんな字ですか?と尋ねている。高石さんは否定する。

 昭南島、今のシンガポールの日本占領時代の呼び名で今は消え去ってしまった地名だが、僕自身も学校でそんなことを教わった記憶はなく、戦時中旧満州にいた祖父の話を聞いた記憶があるので、何となく知っている。知らない人は知らないだろう。

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