続 秋花トンネル
「兄さん兄さん兄さん……私だけの兄さん……!」
「……ぅ? ここ、は……?」
「あ……! 兄さん、目が覚めたんですね……! 中々起きないから心配しましたよ?」
目を開けると、ぼんやりと浮かぶ眞代の顔がすぐ近くにあった。どうやら、膝枕をされているらしい。キョロキョロと周りを見渡すと、すぐ傍にランタンが置かれているだけで、辺りは漆黒に染まっていた。しかし僕は、この場所がどこかすぐに分かった。そう、秋花トンネルである。
「……眞代、これはどういうことなの?」
だが、そんなことはどうでも良かった。それよりも、僕の手足が全く動かない方が問題だ。まるでロープで固定されているかのように、左右の手はぴったりとくっついて離れない。明らかな異常だった。
「うふふっ……兄さんを逃がさないために、です。もう、離しませんからね?」
「眞代……! こんなことして、どうなると思ってるんだ! 今ならまだ、軽い家出で済む! だから、早く家に帰っ――」
「嫌です。私はもう、我慢しないって決めたのですから」
言葉を遮りながら、眞代は僕の頭を掴んでジッとこちらを見た。暗闇でも分かる、暗黒に染まった眼。様々な色を混ぜ合わせて、その結果真っ黒になってしまったかのようだ。思わず、ゴクリと喉を鳴らした。
「兄さんが家から居なくなってから、ずっと寂しかった。兄さんが傍に居ないと、不安だった。兄さんが誰かに取られちゃうかもって、心配だった。でも、私は必死に我慢してたんだよ?」
ザクリと、僕の心を突き刺す言葉の刃。自らの犯した罪を詳らかに復唱されている様で、耳を塞ぎたくなる。だが、今の僕にそんなことは許されていないのだった。
「我が儘言っちゃ駄目だって。兄さんを引き留めても私には何も出来ないからって、嫌で嫌でしょうがなかったのに、我慢したんだよ? いつかは兄さんが帰ってきてくれるって、これから先も一緒に居てくれるって、信じてたんだよ?」
眞代を壊したのは僕のせいだ。彼女を自立させることなく、ただ安易な偽善を振りまいた。日を経るごとに過剰になっていくスキンシップが、増していく執着や嫉妬、依存の類いによる副産物だと分かっていた癖に、それを放置した。
「なのに……兄さんは私以外の女の子と仲良くして……! そんなの嫌だ。我慢なんて出来るわけ無い! ましてやあんな奴らに兄さんを渡すなんて、絶対に嫌!」
暴走した愛情は、眞代を爆発させた。もはや彼女を止めるには、実力行使しか無いだろう。だが……僕にはそんなことをする気概も実力も無い。
「これからは毎日一緒に居るの。兄さんと私の邪魔をする奴は、例え親であろうと容赦しない。ずっとずーっと愛し合おうね、兄さんっ」
だったら、諦めるのか? まだ、ウエンとの魂集めも終わっていない。白雪への誓いも、果てせていない。詩歌さんとの約束も破ってしまう。
眞代は大切な家族だ。けど、こんなやり方は間違っている。元を辿れば僕のせいだとしても、僕がすべきことは眞代の言いなりになることじゃないはずだ。
妹の間違いを正してやれなくて、どうして兄を名乗れるのか。不正解を選ぶのは僕だけで良い。絶対に治らないとしても、やるだけ無駄だとしても、僕に諦めるという選択肢は残っていないのだから。
「眞代……僕はずっと、眞代が喜ぶことをするのが一番の善行だと信じて疑わなかったんだ。それが違うって分かったのは、中学校の修学旅行で家に三日間居なかった時だよ」
「兄さん? 何を言って……」
「たった数日会わなかっただけで、眞代は泣きじゃくって……不眠症になってたよね。家に帰ったのは金曜日の午前だったのに、眞代は学校を早退して家で待ってた。扉を開けると号泣した眞代が抱きついてきて、父さんと母さんが帰ってくるまで離れなくてさ」
あの日、僕は不安になった。僕と同じ中学生になったのに、一向に兄離れをしない眞代が、どうなってしまうのだろうと。
「僕が居ないと駄目になるなんて、そんな関係間違ってる。眞代は僕から離れて自立しないと、この先もっと大変になってしまう。そう思ったから、僕は眞城から離れたんだよ」
「どうして……!? 兄さんが傍にいてくれるだけで、私は良いんだよ!? 欲しいのは兄さんだけで、後はどうでも良いの!!!」
「駄目なんだよ……それじゃあ駄目なんだ」
その関係の果ては、ただ腐り落ちるだけだ。孵らない蛹のように、死ぬことも進化することもなく、ただ停滞するだけ。大切な家族に、そんな道を選んで欲しくないのだ。
「やっぱり……兄さんは、あいつらのせいで変わっちゃったんだ……いつも私の味方だったのに、私を捨てるんだ……そんなの、そんなの嫌!!!」
「っ!?」
手足が急に自由になる。僕はすかさず起き上がって、眞代から距離を取る。ユラユラとおぼつかない足取りで俯く彼女は、さながら幽鬼のようだった。
「野良は使えないなぁ……やっぱり、手足を切り落として私無しじゃ生きられない様にすれば良かった」
「眞代……どうしてこんな力が使えるんだ?」
「あはは……そんなの、どうだって良いでしょ? 兄さんはこんなもの知らなくて良い。ただ、抵抗はしない方が良いよ? 兄さんも、痛いのは嫌でしょ?」
眞代の右手が振るわれる。恐らくそれは幽霊、しかも依り代を持った何かなのだろう。どうしてそんなものを彼女が振るっているのかと、疑問に思う。だが、そんなことより、今の僕ではその姿さえ視認できないのが問題だ。
間合いが分からない。それがどんな形をしているかも分からない。そもそも、今どこにあるのかすら分からない。僅かな空気の揺らぎと、眞代の手の動きで予想するしか出来ないのだ。
三、四度は何とかなった。しかし、それもただの運だ。五回目で、僕は不可視の攻撃を受けてしまった。体から力が抜けて、膝をつく。全身から汗が溢れて、心臓はバクバクとうるさかった。
「はい、おしまい。これで兄さんは私のもの。どこにも行っちゃやだよ?」
「……最後に一つ、言っても良いか?」
「何? 説得なら意味ないよ? 兄さんはもう、私のなんだから。話なんて聞いてあげない」
こっちは話すだけでも辛いのに、反撃なんて出来るわけ無い。だから、これは神頼みの時間稼ぎだ。一人じゃ妹すら止められない不甲斐ない兄の、最後の悪あがき。僕は精一杯の笑みを浮かべて、眞代に言い放った。
「いつもの敬語が抜けてるぞ? 僕はそっちの方が好きだけどね」
「っ……兄さんの馬鹿っ!!!」
一瞬、毒気が抜けたようでポカンとした眞代は、すぐさま頬を赤らめて右手を振り下ろした。直撃しなくても、この威力。間違いなく、僕はもう駄目だろう。ゆっくりと眼を閉じて、衝撃に備えた。
その時、後ろから風を切る音が聞こえた。ヒュンっと、軽やかに空を滑空するようなそれは、やがてパキンッっと、甲高い音を響かせた。
目を開けると、眞代が険しい表情をして僕の後ろを見ていた。振り返るとそこには――
「間に合ったようね。それじゃあ、出会って早々で悪いけど、私の真尋を返して貰うわ」
「また貴女ですか……また前みたいに、全身バラバラにされたいようですね。今度はミンチになるまで切り刻んであげます」
「う……えん」
そこには、神は神でも死神が居た。弾き飛ばされたナイフは、風車のようにその刀身を回転さえ、地に落ちた。その持ち主は、以前と服装も手に持った武器も違っていた。いつも纏っているぼろ布はどこへやら、今の彼女はゴスロリのようなドレスを着ている。
黒を基調とし、全身に施されたレース加工が高級感を演出していた。特に彼女の白い髪とその黒さが、美しい調和を生み出している。また、その肩にはウエンの背丈を軽く超す、大型の鎌が鎮座していた。死神らしい要素が、鎌以外に全くないのだった。
「はんっ、こっちだって、それくらい織り込み済みよ。人間風情が死神を舐めないことね。貴女と違って、こっちは許可が無いと本気を出せないの、よ!」
「っ! 早い……!」
一歩踏み込むだけで、ウエンは眞代を自らの得物の射程内に収めた。前々からとてつもない運動能力だとは思っていたが、今のはそれ以上だ。少し動くだけで風が断絶され、新しい動きを始めている。
反り返った刃は暗闇でも煌めき、目の前の命を刈り取らんと疾駆する。眞代はそれを真っ向から受け止めるしか無く、そのまま吹き飛ばされた。
「どう? 死神の鎌の威力は。反則スレスレだけど、やっぱり持ってきて良かったわ」
「凄まじいですね……あまりにも馬鹿力過ぎて、ブルドーザーかと思いましたよ」
「ふふーん! そうでしょうそうでしょう! 本気の私は凄いのよ!」
多分、その呼称は馬鹿にされていると思うのだが、ウエンは得意気だ。それにしても……
「そんなものっ……あるなら最初っから持ってこい……!」
「うっ……しょ、しょうがないでしょ! 現世に持ってくるのは手続きとか、色々と大変なのよ! というか、真尋のために持ってきてあげたのに、その態度はなんなの!」
「馬鹿っ、揺らすな……!」
三半規管が揺さぶられ、胃酸がこみ上げてくる。辞めろ、揺らすな……!
僕たちが啀み合っていると、ボソボソと重い声が聞こえ始めた。それは、怨嗟の声。眞代から発せられているとは思えないほど、恐ろしい声だった。
「触るな触るな触るな……! 私の兄さんにその汚い手で触るなぁ!!!」
「ハッ! あんたの、ですってぇ? こいつの命はとっくに、私のもんなのよ! 文句ある?」
「世迷い言を!!! お前みたいなゴミクズが居るから、兄さんが私を受け入れてくれないんだ! 死神だろと何だろうと、私と兄さんの邪魔をするなら殺してやる!!!」
ウエンに触れたおかげで、僕も眞代の持つ何かの姿を確認することが出来た。それは、無骨な太刀だった。博物館で見るような、現代ではあまりお目にかかれない日本由来の武器。日本刀である。
「ぜぇ……! ぜぇ……! まひ、ろ……さんっ……!」
「真尋、平気か? あのブラコンに、何にもされてねぇか?」
「白雪と詩歌さん……? 来て、くれたんですね」
「当たり前だろ。目の前で仲間が攫われたら、普通助けに来るもんだぜ?」
仲間……ただの協力関係の、一歩先の関係。まだ出会って一日しか経っていないけど、それでも僕たちはもう仲間だったのだ。なんだか少し嬉しい。
「害虫みたいにワラワラと……! どうして私と兄さんの邪魔をするのですか……!」
「そっちの都合は知ったこっちゃ無いわ! 私は真尋と一緒に魂を集めなきゃいけないから、貴女に真尋を持って行かれると困るのよ!」
「それこそ、そっちの都合でしょう! 勝手に私の兄さんをそちら側に引き込まないで下さい! こんなもの、見えない方が良いに決まっています!」
一進一退の攻防を続けるウエンと眞代。その動きが苛烈になるにつれ、口論も益々ヒートアップしていくのだった。
「親も世間も貴女も……! 全てが私の邪魔をする! そもそも、貴女は兄さんの何なのですか! 兄さんを誑かして、何がしたいのです!」
「うるさいわね! 私はただ、真尋が必要だから必要だって言ってるの!」
「貴女頭悪いのですか! そんなの理由になってません!」
「頭悪いのはそっちでしょ! 真尋がそんな関係望んでないって、分からないの!? もうちょっと話し合いとかした方が良いと思うわ!」
少し離れたところからでも分かる、とんでもない威力を秘めた鎌を振り回すウエンと、それを冷静に受け流す眞代。僕たちが入り込める隙なんて、一瞬たりとも存在しなかった。
「はぁっ……! はぁっ……! そんなの、必要ありません……!」
「全く……まぁ、良いわ。貴女の持っている依り代の魂を全て回収して、また元の十川眞代に戻してあげる。話し合いはそれからでも遅くないでしょう」
「……! 元の、私……? また、無力な私に戻るの……?」
その様子は異様だった。追い詰められて自棄になっている様にも見えるが、そうじゃない。眞代は、たまにとんでもないことを仕出かすことがある。普段が優等生だからか、溜め込んだ火薬は通常の何倍も大きいのだ。
そして今、ウエンはそんな特大の爆弾に火を点けたも同然だった。
「そんなの嫌……!元の私になんて戻らない……! 無力なままじゃ、兄さんを守れない……! 誰にも……絶対に、兄さんは渡さない!!!」
たらりと垂れ下がった左腕が、振り子のような動きをする。その手は何も起こさないまま、元の位置に戻るはずだった。
「っ熱っつうう!?!? なにこれなにこれ!? なんで燃えてんのよ!?」
ウエンの体が、発火した。燃え上がるその姿は、どんどん大きくなっていく。薄暗いトンネルが真っ赤な火で照らされるくらいに、その火は燃えさかり続ける。火柱がトンネルの天上につくと、そこから煤だらけのウエンが飛び出してきた。
「アハハ……! 燃えろ燃えろ! 兄さんを奪おうとする奴なんて、皆燃えてしまえば良いんだ……!」
「あっつあっつ! この……! これ高いのよ! 燃えたらどうしてくれるのよ!」
「うるさい! とっとと燃え尽きてしまえ!」
左手が振るわれるたびに、火の粉が舞う。爆発音と共に、ウエンを焼き尽くそうと業火が赤い花を彩る。だが、ウエンも伊達に死神をしていない。紙一重でその火を避け続けている。
「ちょっ……! 髪が焦げたんですけど!」
「この……! 早く燃え尽きろ!」
いくらやっても燃えないウエンに痺れを切らして、眞代は次の一手を打った。どこからか色とりどりの帯のようなものが現れて、ウエン目掛けて飛んでいったのだ。狭いトンネル内では爆発を避けるのに手一杯で、何本かの帯に巻き付かれてしまう。
「終わりだ……! 死ね、化物!!!」
「っ…………!」
三連続の爆発音が響き渡る。その爆風は僕たちを吹き飛ばし、辺りの壁を這うように広がっていく。そんな炎の海で一人、ケタケタと笑う人影が居た。すっかり正気を失った、眞代である。
「アハハ!!! 死ね! 皆死んでしまえ! 兄さん以外の生き物は必要ない!」
聞いたことの無い笑い声をひとしきりあげると、眞代はゆっくりとこちらに歩いてきた。
「さぁ、兄さん? 邪魔者はもう居ません。一緒に行きましょう?」
「っ……眞代、そこで止まるんだ」
僕はウエンが投げたナイフを拾う。それを構えて、眞代に向き合う。後ろを向けば、打ち所が悪かったのか白雪と詩歌さんぐったりとしている。今は、僕が踏ん張らなければ。
「そんなもの、向けないでよっ!!!」
五本の帯が僕に向かってくる。その動きは直線的で見切りやすく、僕でも対処は可能だった。まず、向かってきた二本を避けてから、残りの三本を切り捨てる。そのまま眞代に近づこうとして、僕の歩は止まるのだった。
見れば、後ろから数十本の帯が僕の体に巻き付いていた。完全にしてやられた。ギチギチと体を締め付ける帯は全く動かず、僕の動きをすっかり止めたのだった。
「捕まえたぁ。うふふっ……これで、ずっと一緒だよ?」
眞代の手に握られた刀が僕の腹に向かう。僕はそれを、ただ見ていることしか出来ないのだった。
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