閑話休題
遠くから、今日も元気な蝉の声が木霊する。夏の風物詩が奏でるその音色が響き始めると、もう朝が来たのだと思う。そして今日も変わらず、お天道様は熱光線を元気に振りまいて、下界の僕たちを苦しめるのだった。しかし、そんな自然の驚異も現代の発明によって克服されたのだから、人間の知恵は素晴らしいと言うほか無い。
「いや~この時期のクーラーは最高ですねぇ……私の部屋にはこの世紀の発明品は無いので扇風機なんですけど、それが馬鹿らしくなってきますぅー」
「年々暑くなってきてるからな。その内、毎日こんな灼熱地獄になっちまうかもしれねぇぞ」
「うーーん……意外と、ありかもしれませんねぇ。やっぱり、怪談や怖い話は夏に限りますからぁ」
夏休みに、部屋へ女の子が遊びに来る。そのシチュエーションは、全男子が夢想する最高の天国だろう。しかしそんな天国も、傍から見ているだけでは魅力が半減する。ましてや、全身筋肉痛で体を動かすことすらままならない現状では、ご無体と言うほか無い。
「真尋さんの家、居心地良いですねぇ……私の大好物のオカルト本やホラー映画も沢山ありますし、家に帰りづらい時はまた来ることにします!」
「家主の許可は……?」
「嫌なんですか?」
「嫌じゃ無いけど……二つ返事で了承するのも問題があると言うか」
友達、というよりかは協力者の二人がここに来るのは全く嫌じゃ無い。中には、来るなと言っても勝手に入ってくる白髪の死神も居るわけだし、それに比べたら幾分か常識を弁えている八尋や詩歌さんは問題ない。
問題があるとすれば、僕の方だ。
「流石に無いとは思うけど、妹に見つかると少しヤバいんだよ」
「妹さん? 親とかじゃなくてですか?」
「あぁうん、親も面倒ではあるけど……幾分か話が出来るというか、むしろ喜ばれるというか……」
「? どういうことなんです?」
そもそも、僕が何故高校生という身分で一人暮らしをしているのか。それにはもちろん、通っている学校が遠いという理由はある。問題なのは、どうしてそんな場所を選んだかである。大前提として、ここに行きたいという気持ちはあった。しかし、そんな場所を選んだのはやはり、家から離れようと思ったからだ。
「僕の妹、眞代って言うんだけど。ちょっとブラコン気味というか、僕がそうしちゃったというか……今年で15なんだけど、未だに兄離れが出来て無くてね」
「はぁ……でも、それの何が問題なんです? 兄妹関係が良好なのは、良いことなんじゃ?」
「問題なのは、眞代が義妹ってことなんだ。最初こそ、両親は仲良くなってくれて良かったって感じだったんだけど、段々心配になってきたみたいで……いくら血が繋がってないからって、そういう関係になったら困る、ということになってさ」
「あ、えーっと……なんか、ごめんなさい」
「僕こそごめん。こんなこと、話すべきじゃなかったな」
おおよそ十年前、僕と眞代は兄妹になった。当時の僕は、出会ってまだ半年も経っていない女性を、母と呼べなかった。それが申し訳なくて、僕は母となった人と、父の望むことを全力で遂げようと思ったのだ。
その内の一つが、引っ込み思案でどこが変わっている眞代と仲良くすることだった。だから、彼女が幽霊が見えると言って気を引こうとしても、僕はそれに付き合ったのだ。子供らしい、変わった気の引き方だったけど、それもまた可愛らしいと思う。
「そんな訳で、妹は僕が女の人と話したりすると、すっごい不機嫌になるんだ。癇癪って言えば子供らしいけど、最近の眞代はちょっと異常なくらい敏感に反応するから、出来れば秘密にしておいてくれると助かる」
「へー……そういうのって、本当にあるんですねぇ……」
「なるほど……妹の名前だったか」
流石の眞代も、突然家を訪ねてくるようなことは無いだろうし、杞憂と言えばそうなのだが……ここのところの電話の頻度を考えると、不必要に精神を逆撫でするのも良くない。今年の眞代は受験生なのだ、気を使い過ぎなくらいがちょうど良い。
「兄妹、ですか……私も、真尋さんみたいなおにぃちゃんが居てくれたら、良かったんですけどね」
「八尋……?」
「ふふっ……そういえば、私と真尋さんって一字違いですよね? ほら、八尋と真尋で、すっごい似てないですか?」
「苗字と名前だけどな。確かに似ちゃあいる」
確かにそうだが、急にどうしたのだろう? 八尋は微笑みながら、こう続けた。
「ね、真尋さんっ……どうせなら、私も名前で呼んでくださいよ。詩歌さんだけ名前呼びするの、なんかちょっと嫌です」
「べ、別にいいけど。なんで近づいてくるんだ?」
ベッドの上で寝たきりの僕に、笑みを浮かべながら八尋は近づいてくる。
「だって、親以外に名前で呼ばれるなんて、久々なんですもん。ちゃんと、真尋さんを見ながら聞きたいじゃ無いですか」
チラリと、視線を詩歌さんに向ける。それに気づいた詩歌さんは、少し斜め上を見た後に、合点が行ったという様子で立ち上がった。
「そろそろ昼だな。作っといてやるから、ごゆっくりどうぞ」
完璧に面白がっている。だって、八尋の笑みとは別種の、ニマニマとした揶揄いの表情をしていた。そのまま、詩歌さんは台所に消えていってしまった。
「ほーら、真尋さんっ……名前、呼んでくださいよ」
「……し……らゆき」
「ん~? 良く聞こえなかったですぅ。もう一回、お願いしますっ♪」
弾むような声を出して、調子に乗る八尋……いや白雪は顔を綻ばせている。聞こえていた癖に、僕の反応を楽しんでアンコールを呼びかけているのだ。眞代とはまた別種の、変わった甘え方だった。
「白雪……ほら、これでいいだろ?」
「うふふっ……もう一回、です。全然聞こえなかったですよ?」
「白雪白雪白雪っ! おら、流石に聞こえただろ!」
「聞こえませーん! ほら、もっと白雪って呼んでくださいよ!」
「やっぱ聞こえてんだろ、お前」
「聞こえてません」
随分楽しそうだ。名前を呼ばせると言う行為の何が楽しいのか分からないが、白雪がそれでいいなら、分からないままでいいだろう。今はただ、この時間がたまらなく愛おしい。しばらくそうして、ずっと彼女の名前を呼んでいたのだが、不意にポツリ、白雪がこう言った。
「ほんとに、真尋さんがおにぃちゃんなら良かったのに……」
分かっていた。いくら変わっている子だといえ、家に帰りたくないのは何か理由があるのだと。しかし、僕がそこに踏み込んで良いのだろうか? 白雪は眞代にどこか似ている。詩歌さん以上に、その感覚が僕に二の足を踏ませるのだった。
「真尋さんは、家族が好きですか? 愛していますか?」
「……昔は断言出来たけど、今はよく分からない」
「あはは……私も同じです。両親には養って貰ってますし、私が普通に生きていられるのは、二人の保護下にあるからです。でも、だからって絶対、親を好きでいないといけないんですかね? まるで義務みたいで、気持ち悪いです」
それは僕にも分からない。手放しで家族を愛していると言えるほどの歳でもなくなってしまったし、否定するほどの理由も無い。だから、僕が白雪に出来ることは安易な諭しでは無いはずだ。
白雪がベッドに頭を乗せて、僕と同じ位置に視線を持ってくる。これが白雪にどんな影響をもたらすのかは予測できない。けれど、彼女には大切なものを腐らせてしまうような、そんな真似はして欲しくないのだ。
「……僕は昔、家族のことで失敗した。自分がしてほしいことが、相手もしてほしいことだと思って、とんでもないやらかしをしてしまった。今でも、その問題は解決してないんだ」
白雪は黙って聞いている。反面教師は僕一人で十分だ。彼女まで、似たような過ちを犯す必要は無い。これは、僕が一生背負うべき罪科で良いのだ。
「そんなんだから、白雪の悩みを解決してやることも、違う在り方を示してやることも出来ない。それでも……一緒に悩んでやることは出来る」
「その結果、失敗したら? 解決出来なかったら、どうしたら良いんですか? 壊れて取り返しがつかなくなるなら、このまま不確定にした方がマシじゃないですか?」
彼女の闇は蓄積され、暗澹としている。生きづらくて、息がしづらくて、苦しくて……その気持ちは、痛いほど分かる。でもきっと、まだやり直せる。人はどうにもならなくなった時、初めて後悔するのだ。白雪には、そんな風に後悔して欲しくない。
「何もせずに……何も出来ずに流されて迎える結末は、決していいもんじゃないよ。それは経験したから分かる。だから、白雪には酷なことを言うけど、どうか恐れずに進んでくれ。それでもし、怖くて進めないなら……」
壊れた筋肉を無理矢理動かす。痛みはまだまだ残っているが、多少は動ける程度にまで回復していた。そのまま体を起こして、白雪の頭の上に手を乗せる。
「僕のところまで逃げてくれば良い。怖くて進めないなら、失敗してどこにも居場所がなくなったなら、ここに来れば良い。その時は、僕が責任をとって見せるから」
これは誓いだ。決して安易で、独善的な自己満足じゃ無い。最後まで責任を取るつもりで、僕は白雪と向き合うのだ。それは、僕が出来る唯一の解法だから。僕が救われるための、たった一つの道だから。
「……ぁ、いや……意外と、真尋さんって重いんですね。そういうの、ちょっと好きですよ」
……言い切ってから、ちょっとだけ羞恥心が湧いてきた。まぁでも……白雪の顔が柔らかくなったし、それは良かったかな。変わらず自己嫌悪ばかりで嫌になるが、少しは僕も成長したのだろうか。
「いつかは、私のことも話しますね。真尋さんが一緒なら、乗り越えられそうな気がします。でも、今は幽霊退治をしましょう。私の方は、それからで良いですから」
「そっか……ありがとうな。白雪のおかげで、おばりよんにも勝てたんだ。これからも頼りにしてるぞ?」
「えへへ……あっ!? こ、子供扱いしないで下さいー! ちょ、やめっ……頭撫でないで……!」
白雪を眞代に重ねているのは事実だ。歳が近くて、彼女のような陰鬱さを持っていて、僕はそんな白雪を救うことで許されようとしている。欺瞞だらけの僕にお似合いの、無様な行為だ。
けど、僕はそれでいい。詩歌さんとの約束が、僕を少しだけ強くしてくれた。大嫌いな自分を、変えずにそのまま貫く。きっと、永遠に苦しいだろう。偽善だと知りながら、それを行うのは。それが僕の贖罪となるのだ。
「おーい、もうすぐ飯が出来んぞ。皿出すの手伝ってくれ」
「あ、はーい! ほら、真尋さんも寝てばっかじゃ治るものも治りませんよ! 手伝って下さい!」
「あいあい……いたたっ」
狭いテーブルの上で、詩歌さんが作ってくれた素麺を啜る。この時期に食べるこれは、手間が少ない割に風情を感じられるので、とても気に入っている。
「冷蔵庫の中、空っぽすぎんだろ。乾麺とインスタントばっかとか、マジでありえねぇ」
「男性の一人暮らしなんてそんなものですよ。真尋さん、料理とかしなさそうですし」
「最初はしてたよ。でも、その内労力と釣り合ってないと思ったから辞めた。乾麺はコスパ最強で美味いし、栄養はサプリで取れるでしょ?」
サプリメントは値段がそれなりに高い。だが、現代で必要な栄養を全て取れている人は何人居るのだろうか? そう考えるとわりと野菜も食べて、その上サプリで栄養補助もしている僕は、健康志向が強いのではと思う。
「分かってねぇなぁ。最初はそう思うけど、結局は自分で作るのが一番コスパ良いんだよ。こういうのはたまに、怠い時とかに使うもんで常用はしねぇもんだ」
「面倒なら外食で済ませばいいのでは? 健康志向のお店もありますし、手間もかかりませんよ?」
「「金がもったいないだろ!!!」」
「は、ハモんないで下さいよぉ……」
こんな賑やかな食卓は久々だ。家族と食べる機会も減っていて、意外とホームシックになっていたのかもしれない。くだらないことで言い合って、麺をつつき合う。忘れていた温もりを、思い出せた気がする。
「ごちそうさま。用意してくれてありがとうございます」
「茹でて冷やしただけだ。そんなに手間はかかってねぇから気にすんな」
「欲を言えば天ぷらがあれば良かったんですけどねぇー。この炎天下の中、わざわざスーパーまで買いに行くのも面倒でしたし、単体でも美味しいですもんね」
食べ終わった後の緩慢とした空気を楽しみながら、ふとウエンのことを思った。そういえば、あいつの用事というのは何だったのだろう? 帰ってきたら教えて貰うことにしよう。僕は寝転んで昼寝をしようとしていた白雪の首根っこを掴んで、台所に運ぶ。
「洗い物は僕らでやっておきます」
「私も客なんですけど! それくらい真尋さんがやっといてくださいよぉ~」
「家出みたいなもんだろ。これくらい手伝えって」
「うぅー……真尋さんの意地悪ぅ」
うぐっ……その顔は僕に効く。ついつい、洗い物を免除してしまいそうになった。だが、ただ甘やかすだけでは駄目なことを僕は知っている。心を鬼にして、少し目を逸らしながら断固として意見を変えずにいると、観念したように白雪は手伝い始めた。
水が跳ねる音と、適当につけていたテレビの情報番組の音だけが静かに揺れている。遠くでは自動車の地を揺るがす衝撃と、健気に泣き続ける虫の大合唱が音を支配している。
そこに、甲高い機械音が響いた。ピンポーン、と鳴り響いたそれはインターホンのチャイムだ。
ちょうど洗い物も終わったところだったので、すぐに来客者を映すカメラを確認しに行く。少し画質の荒い画面に映っていたのは、今一番来て欲しくない人物だった。
「な……なんで急に、眞代がここに……?」
そこに居たのは、僕の後悔の源。妹である十川眞代だった。
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