悔やみ
「ねぇ、兄さん。あそこに居るよ? 私、怖いよ……」
「大丈夫だから。ほら、手繋いで行こ? 怖いなら目を瞑ってれば良いよ。僕が連れてってあげる」
「うん……ありがとう、兄さん」
懐かしい夢を見ている。あれは、眞代と家族になってちょっと後のことだった。学校以外、外に出たがらない眞代が出かけたいと言ったのだ。しかし、幽霊が居て怖いから僕に付いてきて欲しいと、確かそういう経緯だった。
道中、眞代は虚空に何かが居ると、何度も歩みを止めた。事前に、眞代には虚言癖があると知らされていたが、僕には彼女が嘘をついているようには見えなかった。だって、こんなにも泣きそうなのだ。僕の袖をギュッと掴んで、プルプルと震えているのだ。
だから、僕だけは……僕だけは、眞代のことを信じてあげないと。虚言だとしても、全力で眞代の味方で居てあげるのだ。曖昧模糊としていた心情は、その時確かに定まった。どんな時も眞代を信じて、守って、愛すのだと。
「ほら、もう幽霊は居ないでしょ?」
「わぁ……! 本当に居なくなっちゃった! ありがとう、兄さん!」
ニコニコと笑う眞代が可愛い。彼女によると、僕に幽霊は近寄ってこないらしい。それが、僕を繋ぎとめるための嘘だとしても、眞代なりの照れ隠しであっても、僕は受け入れる。
「ね、兄さん。明日も、一緒に居てくれる?」
「もちろんだよ。眞代が望むなら、ずっと一緒だよ」
「そうなんだ……ずっと、一緒……」
あの時の僕は、その言葉の重さを理解していなかった。眞代が僕にどれだけ依存していたのか、どれほど僕を精神的支柱にしていたのか……僕は、何一つ分かっていなかった。
「にい、さん? 今、なんて言いました?」
家を出て一人暮らしをすると言った時の、眞代の絶望しきった顔が未だに忘れられない。何度も何度も夢に見る。僕が今までしていたことの罪深さ。肯定し続けるだけの日々によって、眞代をああしてしまった僕の愚かさ。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。
今日もまた、幻想の眞代に向かって呟くのだ。彼女がそんなこと、一ミリも望んでいないことを知りながら。
「ご、めん……眞代」
「あん? 誰だ、そいつ」
「……え?」
鼓膜に、聞き覚えのある声が聞こえた。パッチリと目が覚め、条件反射で体を起こそうとしたのだが……
「あいたっ……!!!」
「おい、無理に動くなよ。しばらく安静にしてろって、死神のやつが言ってたぞ」
ジッとしているだけでも辛い。体がズキズキとして、少し動くだけでも激痛が走っている。酷い筋肉痛だ。身体を起こすのを諦めて、ベッドの上に倒れこむ。
「あ、もしかして詩歌さんが僕をここまで運んで?」
「白雪も手伝ったぞ。あ、そうだ。勝手にシャワー借りてるけど、それくらい良いよな?」
「全然良いで……」
ん? シャワーを、借りている? そういえば、洗面所のほうから水が流れる音がする。それに、詩歌さんの服装が少し変わっていた。シャツはシャツでも、何だかサイズが大きいような……
「ついでに、服もいくつか借りたぞ。これもお前のワイシャツだな。わざわざ新品のを選んだけど」
「構わないですけど……八尋も詩歌さんも、家に帰らなくて良いんですか?」
首を動かして時計を見ると、午前四時前を長針が示していた。八尋もああは言っていたけど、やはり心配だ。詩歌さんだって、こんな時間に男の家に上がり込むなんて、無防備にもほどがある。とはいえ、今の僕は動けないし、仮に襲えたとしても返り討ちに合いそうなのだが。
「あいつは家に帰りづらそうだったし、あたしはそもそも一人暮らしだ。外泊くらい、好きに出来んだよ。ま、男の家に泊まるなんて初めてだけどな」
「そうで……は!? 今、泊まるって言いました!? ちょ、聞いてないですよ!?」
「しょうがねぇだろ。あたしん家はこっから遠いし、白雪は帰りたがらねぇしよ。それに、お前のためでもあるんだぞ?」
「? どういうことですか?」
「死神の奴がな。さっき帰ってきてお前の安否を聞いた後、一言だけ残して行っちまったんだよ」
ウエンは、「用事があるから今日は帰れないわ。真尋をお願い」と言っていたらしい。そうなると、当てが外れる。雑事ならウエンにしてもらえばいいと思っていたのに、肝心のウエンが居ないのだ。確かに、この宿泊は僕の身を思ってのことだ。貞操観念がどうのこうのと、僕が騒ぎ立てる資格は無いのだった。
「まっ、そういうこった。観念して、今日一日は世話されてろ。それに、良かったじゃねぇか。女二人に甲斐甲斐しく世話されるなんて、中々あることじゃねぇんだからさ」
「それは有難いですけど……どうしてそこまでするんですか? 僕が筋肉痛で動けないのも、詩歌さんのせいじゃありません。むしろ、これくらいで済んだのは貴女のおかげなのに」
「だとしても、だ。あたしは一度手伝うって決めたら、最後までやりきりてぇんだよ。ついでに言えば、あたしの力を貸して欲しいって言ったのはお前だぜ、真尋?」
……色々言いたいことはあるけど、今の詩歌さんに水を差すのは良くないと思った。だって、こんなにも嬉しそうに、顔を綻ばせながら話しているのだ。威圧感など皆無で、そこには純粋な優しさだけが備わっている。だが、唐突にその顔は曇り始めていった。
「……なぁ、真尋。お前は、あたしが怖いか?」
ジッと、仰向けで天井を見上げる僕を、不安に揺れる視線で見つめる詩歌さん。そこには昔、何度も見た諦観に近い眼差しがあった。どうせ、こいつも同じなのだと言う諦めと、でも、もしかしたらという期待が混じったそれは、僕には辛いリバイバルだ。
安易にそれを慰めれば、僕はまた同じ過ちを犯すことになる。僕にその権利はあるのか? 大切な家族一人の責任すら、僕は取れなかったのだ。詩歌さんも、同じ結末を辿ることになるだけじゃないのか? グルグル目が回って、感情がグチャグチャになっていく。だから、その時出た言葉は取り繕うことを忘れた、脊髄反射の言葉だった。
「怖い訳、無いじゃないですか。他の誰が何て言おうと、僕は詩歌さんを怖がったりしないです」
「……本当に、か?」
「はい、本当です」
僕はまた、同じことをした。目の前の誰かが泣きそうなのが耐えられなくて、無責任な肯定の言葉を発してしまった。それによって、どうなったのかを知っている癖に。
けれど、自覚なく行うのと、自覚して行うのとでは差があると思う。自らの行動が間違っているかもしれないということが分かっていれば、きっと結果は違ってくる。少なくとも、無責任な肯定と甘やかしが、優しさだと思っていた昔の僕に比べればマシなのではないだろうか。
「なら、約束しろ。真尋はこれから、あたしを拒絶するな。目を逸らすな。あたしが嫌いでもいいから……お前だけは、あたしを化物扱いしないでくれ……」
あぁ……僕は何も変わっていない。いつまでたっても偽善者で、誰かが悲しむのを無責任に助けようとする。誰かの人生の責任を取れるはずもないのに、僕の行動はいつだって欺瞞に満ちている。
「約束します。僕は詩歌さんを、そんな風に扱ったりしません。貴女は何処にでもいる、普通の女の子ですよ」
「……っ!」
いつだって、僕は僕を嫌いになりたくないのだ。自分は優しい人間だと思いたいから、それによって救われる人がいるのならそれでいいじゃないかと、開き直っているのだ。そして救えないことに、そうやって開き直る自分を嫌悪している。そんな自分が、矛盾だらけの俗物が、誰よりも嫌いだ。
「そっか……ありがとな、真尋。こんなあたしを拒まないでくれて。例えそこに他意があっても、あたしはそれが何より嬉しいんだ」
「辞めてください……それ以上言われると、自己嫌悪でおかしくなりそうです」
「あたしは助かったって言ってるのに、どうして真尋が気に病む必要があるんだ? お前がしたことは、一般的には良いことだろ? 少なくとも、あたしはそう思ったよ」
そんなの、綺麗事だ。世の中の同類が真実を直視したくなくて、まるでその行いを美談のように語っているだけの、世迷言に過ぎない。僕も腐ったバイアスに影響された一人だから、偽善がどれほど醜い行為か知っている。あれは、人間の欲望の中でもっとも汚らわしい欲求だ。
「僕のは優しさや正しさじゃなくて、生存戦略って言うんです。生き残るために、自分の命が惜しいから、詩歌さんを誑かして利用している。東寄橋で声をかけたのだって、元を辿れば僕が死にたくないからです。打算だらけのリスクヘッジが混じった、愚かしくて卑しい行為なんですよ、僕のこれは」
「……なーんか良く分かんねぇけど、よ!」
「なっ……! 詩歌さん!? なにして……!」
くだらない言葉遊びをしていると、詩歌さんが僕の上に馬乗りになってきた。僕は前述したように、体の一切がほとんど動かせない状態だ。そんな中で、マウントポジションを取られるとどうなるのか。当然のように、無理やり動くことすら出来なくなる。
「うだうだあーだこーだ、うるせぇんだよ。あたしはお前の、真尋のおかげでちょっといい気分になってんだ。それなのに、肝心のお前がそんな顔してちゃ、何かモヤモヤすんだろ」
僕の言葉は、僕が思っている以上に詩歌さんを変えたようだ。つい数秒前の彼女はとっくに消失して、新しい神道詩歌が誕生していたのだから。その眼には一転の陰りもなく、迷いもなく、ただ自分が正しいと思えることを成さんとしていた。
短絡的に、僕はそれが羨ましいと思った。例え、僕の行いが偽善的で紛い物だとしても、詩歌さんみたいに一蹴してしまえたら、どんなに良いだろう。またしても無責任な羨望だらけだ。反射的に、僕は詩歌さんから目を背けた。
「おい、こっち見ろ」
「っ……」
詩歌さんの頭が僕の顔に近づき、そこから垂れた金色のベールが僕と彼女を包み込む。そこは外界から隔絶され、僕と詩歌さんの二人だけしかいないように感じられる空間だった。そんな空間で、僕は両手で頭を掴まれ、最後の自由すらも剥奪された。
「約束、しただろ? 真尋が何を考えて、何に悩んでるのかは分かんねぇけど、この約束だけは絶対に破るな。それで、お前がさらに悩むことになっても、真尋はあたしから目を背けるな。分かったか?」
「そ、れは……」
「駄目だ。もう、取り消しは効かねぇぞ? あたしは、お前を絶対に逃さない。どれほど嫌でも、どれほど不快でも、どれほど迷惑でも……真尋は、あたしを見続けるんだ」
脳に響き渡る明瞭な声は、僕の心にすんなりと浸透していった。先ほどまでの鈍重な心は何処へやら、重りが外れたように僕の心は軽くなっていた。しかし、詩歌さんはやっぱり優しい人だ。
敵わないなと少し笑うと、詩歌さんは困惑した様な顔をした。どうしてそんな顔をするのだろう?
「それ、僕にとって利点ばっかりじゃないか。そんな条件で良いなんて、やっぱり詩歌さんは優しいね」
「なっ……!? おい、それ本当に言ってんのか?」
「へ? 何か変なこと言った?」
「今のあたし、結構無茶苦茶なことを言ったつもりだったんだが……どんだけ受けに特化してんだよ」
僕はてっきり、詩歌さんが僕の心労を減らそうと一芝居打ったのだと思ったのだが。もしかして、意外と本気だったのだろうか? それはそれで、僕としては複雑な気持ちである。
だって、詩歌さんの約束は、どこまでも僕の心を軽くするものだ。あまりにも救われてしまう。僕にはもっと、凄惨で辛酸をなめるような、相応しい罰を受けなければならない。僕には愚かな破滅願望が奥底に備わっているのだった。
「しかしまぁ、真尋がそれでも良いってんなら……あたしもちょっとだけ、マジになっ」
「お風呂あがりましたぁ~! いやぁー、汗をかいた後のシャワーは気持ちが良いでっ!?!? は? え? これはどうい、え?」
「あ、白雪忘れてた」
不味い。絵面だけ見れば、詩歌さんが僕の腹の上に乗っかって、顔を近づけているというものだ。何も知らない八尋にしてみれば、そういう現場に見えてしまっても仕方ないだろう。
「ま、真尋さんっ!? 一人暮らしだからって、そういうのはいけないと思いますよ!? あれ? でも、体制的には詩歌さんが上で……はっ!? し、しししし詩歌さんっっっ!? 流石に大胆すぎじゃあ……!」
「おい、落ち着けムッツリ」
「ムッツリじゃないですけど!? だ、だってだって! じゃあ何してたんですか! 明らかにそういう現場だったでしょう!? 私、こういうのネットで見たことありますよ!?」
暴走を始めた思春期は止まらない。風呂上りも相まってホカホカの姿で混乱する姿は、ある層には需要がありそうだ。すると、僕の邪な考えを察知したかのように、八尋が僕の首元を掴んだ。
「真尋さんはロリコンだと思ってたのに、やっぱり詩歌さんみたいなナイスバデーが良いんですかぁ!? いや、私はロリじゃないですけど、なんか子ども扱いされてるみたいでやけにムカつくんですよ!」
「なんで怒ってんだよ……というか、お前は純然たる子供だろ。今更す」
「これからっ……! 成長するんですよぉ! 胸も背もいい感じに、ウエンさんや詩歌さんみたいなモデル体型になるんですっっっ! 私は大器晩成型ですからぁ!」
「痛たたたたっっっ!!! バカ、辞めろ!?」
「私はバカなんかじゃないですー! バカって言うほうがバカなんですよバーカ!」
あと数十分もすれば、空が少しづつ青くなっていくだろう。夜明け前の一番暗い時間に、僕と八尋の元気な声が壁を貫通する。この部屋でこんなにも騒がしいのは、入居してから初めてのことであった。
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