オカルト少女 八尋白雪

 日が昇り、うだるような暑さが辺りを支配する真夏の午前10時。とあるマンションの一角で、少女は退屈そうに足を揺らしていた。一メートルほどの柵を乗り越え、僅かな隙間に腰を下ろす様子は、危険極まりないだろう。だが、彼女にそんな当たり前のことを注意する人間はほぼ存在しない。何故なら彼女、ウエンは死神だからだ。


 「人間は脆いわねぇ……ちょっと幽霊と出会ったからって、帰ってきてすぐ倒れるなんて弱すぎよ」


 厳密には疲労だけで無く、睡眠という生物として取らなければならないものを疎かにした結果なのだが、まだ人間をよく知らない彼女にはそれが分からなかった。だから、異常なことが起こっても、彼女はそれを異常だと察知できないのである。


 「すみません。ここで死なれると困るので、自殺なら余所でしてくれませんか?」


 「……ん? それ、私に言ってるの?」


 「貴女以外に誰がいるのです。とにかく、ここを死に場所にしないで下さい。それ以外の場所でしたら、どうぞご自由に」


 長い黒髪に、赤いリボンが特徴的な紺色のセーラー服を着た少女。それが、見ることの出来ないはずの死神を視認している。明らかな異常事態であった。だが、当のウエンは驚いた様子も無く平然と返答をした。


 「自殺する気なんて無いわ。私はただ、観察対象が回復するまで待っているだけよ」


 通常通りのウエンなら、その違和感に気づけたかもしれない。しかし、この時の彼女は酷く混乱していた。真尋は自分のせいで倒れたのでは無いか、自分の我が儘にただ付き合わせているだけなのではと、自問自答を繰り返していた。


 「そうですか。では、私はこれで」


 だから、間が悪かったのだろう。もし、この時ウエンがどこかに行っていたら。もし、真尋が倒れていなかったら……しかし、それは起こってしまったのだった。


 「ん? 真尋に何か用があるの?」


 「……は?」


 ウエンは何の悪気も無く、ただぽつりとそう言った。だって、少女がインターホンを鳴らそうとしたそこは真尋の部屋だ。現在進行形で、疲労と寝不足のダブルパンチで眠っている、観察対象の部屋である。黙っていればそれまでだったのに、死神は天性の気質で、思ったことを言葉にしてしまった。


 「貴女は……兄さんの、お知り合いなのですか?」


 少女の顔は、酷く無機質だった。作り物のように固まった表情筋と、溢れ出る威圧感が、彼女が不機嫌であるということを如実に物語っている。しかし、それを感じ取れるほどウエンは人心に詳しくない。少女のことを、ただ無表情な女の子くらいにしか思っていないのだった。


 「知り合いというかなんというか……そうね、一心同体って奴かしらね。というか、もしかして十川眞代? 真尋の義妹の」


 「っ……兄さんが、それを話したのですか?」


 「いいえ? 私が自分で調べ――」


 瞬間、彼女が腰掛けていた人工物が破砕された。風化に弱くとも、単純な硬度で言えばかなりのものであるコンクリートが、鉄筋が、爆発でもしたかのように弾け飛んだのだった。もちろん、そこに腰掛けていたウエンは空に投げ出される。彼女は驚きつつも、ひらひらと空を舞い、地面へと音も無く着地した。


 「やはり貴女、人間じゃありませんね」


 「真尋もびっくり人間だったけど、貴女はそれ以上みたいね、眞代ちゃん」


 普通、人間が空に投げ出されたなら、その末路はトマトペースト一択である。ウエンは死神である故、その体も衣服も無事なのはごく当たり前だろう。そんな人外ならではの行動を、このセーラー服の少女、十川眞代は驚きもしなかった。それどころか、この少女は先ほどの不自然なコンクリートの破壊を意図的に起こしていたようにも思える。


 「兄さんが私の連絡を無視するだなんて、おかしいと思ったんです。貴女が、兄さんに何かしたんでしょ?」


 「ちょ、ちょっと待って! 私は少し、真尋を殺そうとしただけで、あ、いや今はそんなつもりは無いんだけど――」


 ここに来ても、ウエンは間違えた。彼女がもう少し状況の説明を上手くすることが出来れば、または今の彼女に何を言っても無駄だと、この場をどう切り抜けるかにリソースを割くかのどちらかが出来ていれば、こうはならなかっただろう。


 「……え?」


 「兄さんを脅かす存在は、何者であろうと消えなさい。兄さんは、私のモノだ」


 ズレる。体の自由が効かなくて、景色がだんだんと沈んでいく。ズレる。気づいたときには、視界が歪んでいて、狭まっていた。ズレる。感触も感覚も無くなって、ただ近づく地面を僅かな隙間から眺めることしか出来ない。


 ズレる。地面が目の前に来てようやく分かった。景色が沈んでいるのでは無い、私が落ちているんだ。視界が歪んでいるのでは無い、私がバラバラになっているんだ。だから、何も感じなくなってるんだ。


 偽物の体、本来触れることの出来ないはずの霊体。その体が、一瞬の間に切り刻まれた。あり得ない。人間が、仮にも死神である私をこんな風にするなど、あり得ない。赤色に染まる視界の中、まるでゴミを見るような目で私を見下ろす少女。その手には、太陽の光を浴びて輝く、氷の様に冷たい雰囲気を纏う刀があった。


 「……ぁ」


 「まだ、生きているんですか。これだから化物は嫌いなんです。いくら切っても、削いでも、潰しても生きてる。まぁ、そんな状態じゃもう動けないでしょうけどね」


 ふわりと、体が浮く。もはやそれは体では無く、切り落とされた頭の部分だけなのだが、少女はそれを髪を掴んで持ち上げたのだった。偽物の癖に、よく出来た体が黒い袋に乱雑に詰め込まれていく。どうしてこんな光景を見せるのか、疑問に感じていると、少女はすぐさま答えてくれた。


 「化物にも感情ってあるみたいなので、見せしめですよ。怖い、痛い、もう嫌だって、二度と兄さんに近づきたくなくなるように、今自分がどうなってるのか教えてあげるんです」


 動かない眼球では、少女の顔は見えない。だが、不思議と少女は笑っているような気がした。楽しそうに、喜びながら、本物そっくりの部位を袋に詰めていく。右足、左足、指、内臓、内臓、脳髄、頭…………


 「これで全部です。次、兄さんに接触したら、こんなのじゃ済みませんよ?」


 視界が真っ暗になる。バラバラになった体は、すっかりと黒い袋に押し込まれてしまった。端から見れば、空気が溜まっているだけのゴミ袋。それを携えた少女は、マンションの裏手の駐輪場に投げ捨てる。


 黒い袋は、誰の視線にも止まらない。止まっても、ただのゴミ袋としてしか記憶にも残らない。だって、それはただの黒い袋だ。ただ封がしてあるだけの、何の変哲も無いゴミ袋。


 しかしそれが、空気ではあり得ない動きをし始めたらどうだろう。まるで中に人が入っているかのように、黒い袋から今にも手が飛び出してきそうなほどに蠢いていたら……


 「えっ……なんでこれ、動いて……」


 ウエンは焦っていた。少し気を抜いた瞬間に体をバラバラにされ、挙げ句の果てにはゴミ袋に詰められて中からは出られないように封印までされていた。体は元に戻っても、袋から出ることが出来ずにいたのだ。


 だから、自分はここにいるとアピールするために、内側から袋を殴りつけていた。明らかに中に何かがいるそれは、端から見れば奇怪で異質でしかない。だから、そんなものを開けるのは自ずとそういう人物である。


 「中に幽霊とか呪物入ってないかなぁ……!」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 携帯電話の着信音で、目が覚めた。カーテンから差し込む光で、もう昼頃だと悟った。慌ててスマホを確認すると、妹の眞代からだった。


 「ぉぅ……どうした?」


 「……もしかして、今起きましたか?」


 「すまん……昨日は、少し疲れててな」


 「……やっぱり、そういうことですか」


 カーテンを開いて、日光を浴びる。そういえば、あの鬱陶しい死神がどこにもいない。ここを根城にすると息巻いていたのに、どこへ行ったのだろう。まぁ、後で良いか。


 「ん、なにが? 今日はどうしっ……」


 ……まずい、今思い出した。昨日、僕はウエンと一緒に心霊スポットに行っていたせいで、眞代に連絡が出来ていなかった。運の悪いことに、ちょうど充電を切らしていたせいで。さらに言えば、幽霊のインパクトが強すぎてその事実すら忘れていた。


 眞代は約束事を重要視している。例えそれが口約束であろうと、それがどんなに些細なものであろうと不履行は許さない。だから、今の僕は大罪人である。彼女が楽しみにしていた通話の機械を奪ったという、許されざる行為。どんなことを対価として要求されるか分からない。


 ならば、ここは追求されるより先に謝ることが大切っ!!! そのままなぁなぁにして、流してしまえば良いのだ。


 「眞代ごめんっ!!! 昨日の電話出れなくて本当に悪いと思ってるんだ! そのための埋め合わせなら何でもするからとりあえず今日のところはこれでご勘弁をっ……!」


 「……ふ、ふふっ……そんなに焦らなくても、私は怒ってませんよ、兄さん」


 「……へ?」


 変だ。眞代は、何か特別なことが無い限りは約束の不履行を許さない。だからこそ、今の返答は僕が連絡を出来なかった理由を知っているような感じだった。けれども、今はそんなことどうでもいい。今は、眞代の気が変わらない内に話を流してしまおう。


 「兄さんにも兄さんの事情があるのでしょう。それを、私が過干渉するのは良くありません。まぁ、それはそれとして埋め合わせは欲しいところですけどね」


 「あ、あぁ! それはもちろん、何でも言ってくれ」


 「……何でも、ですか?」


 何でも言うことを聞く、これは眞代に対しての最上位の償いを意味している。それは買い物に付き合うという些細なお願い事から、一日中昨日の甘ったるい言葉で眞代を褒めるというものまで多岐に渡る。


 「でしたら、お願い事を一つだけ。どうか、そのままの兄さんでいてください。私の大好きな、いつもの兄さんのままでいて」


 「? それは、どういう……」


 よく、意味が分からない。眞代は何を危惧しているんだ? それを聞こうと口を開いたところで、ドンドンとドアが唸りを上げた。どうせウエンの馬鹿だろう、近所迷惑にもほどがある。


 「……なんだか騒がしいですね」


 「あー……近くに住んでる人がちょっと騒々しい人でさ。ごめん、ちょっと出てくる」


 耳を離してドアの方に向かう。その際、通話を切り忘れていた。そのスピーカーからは、誰も聞いていない少女の呟きを最後に、終了を告げる音が鳴っていた。


 「……やっぱり、兄さんは私が守らないと……」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 例えばそう、すぐ近くにインターホンがあるのにも関わらず、ドアをボコボコと叩く人物をどう思うだろうか? 頭がおかしい? 気心が知れている? 傍若無人? 予想されるのはそんなところだろうか。


 僕はその人物に心当たりがあり、碌に外も確認せずドアを開けた。だから、そこにもう一人いるだなんて予想していなかったんだ。


 「ここが、死神ですらも触れることが憚られる聖域サンクチュアリ……か」


 「…………誰? この子」


 「さぁ? よく分からないわ」


 ドアを開けた先には二人の人物がいた。一人は見知った存在である、死神のウエンだ。よく分からないが、不機嫌そうな顔をしている。


 そしてもう一人。両の手をクロスさせ、顔の半分ほどを占領する丸眼鏡をクイッと持ち上げながら、意味不明な横文字を並べたブレザー姿の少女。今現在も、フフッ、ついに我が悲願が成就される時ッ……と一人でブツブツと何かを言っていた。


 「ちょっーっと、待ってて」


 「フフッ、この我に命令をするなど、貴様、中々のおおもn――」


 ウエンの首根っこを掴んで、玄関に引きずり込む。扉を閉め、未だにしかめっ面のままのウエンを問いただす。


 「あの子とはどういう関係だ? 何でおまえが見えてて、さらに言えばどうしてここに連れてきたんだよ……!」


 「私だって不本意だったのよ! でも、自分一人じゃどうにも出来なかったから、仕方なくあの子に封印を解いてもらったの! 何か文句あるっ!?」


 封印だとか解いてもらっただとか、相変わらずこいつの言うことはよく分からない。ただ一つだけ分かったのは、どうやらこの死神はまたしても厄介事を持ち込んでくれたようだ。


 「分かった、いや全然分からんが分かったことにしておく。とりあえず必要なことだけ教えろ。なんであの子はお前が見えてんだ? 日常的に幽体化とやらをしてるんじゃ無かったのかよ」


 ウエンの姿は見えない。それは、この前の秋花トンネルに向かう道中で散々思い知った。だが、あの子は確実にウエンを認識していて、しかもこいつが死神であることを知っていた。その経緯がどうであれ、こいつの姿も言葉も聞こえているということだ。


 「私の幽体化って、完全じゃないの。あんまり言いたくないけど、認識の部分が少し脆いから、私がそこにいると確信されると見えちゃうの。だから、あの子には私が見えてる」


 つまり、こいつは何かしらの出来事で自分がそこにいると確信されてしまい、誤魔化すことが出来なくなったということらしい。ここに連れてきたのは、僕にその後の後始末を押しつけるつもりのようだ。


 「お前が死神だとか言ったから、あんな変な子がついて来ちゃったんじゃないのか。あの子、真夏なのにブレザー着てたぞ。明らかにやべぇ奴じゃん」


 「もうっ、とにかくなんとか追い払って……! ずうっとついて来て、恐怖の大王がどうとか未確認飛行物体がどうのこうのとか、あの子怖いのよ!?」


 「おまっ……! こっちだってあんなの相手したくねぇって!? なんだよ聖域サンクチュアリって!? ここ普通の賃貸なんだけど!?」


 僕たちがぎゃいのぎゃいのと対応の押し付け合いをしていると、ドアがゆっくりと開き始めた。外からは蝉の喧しい音が聞こえるのに、ドアがギイィっと軋む音が、とても鮮明に耳を劈いた。


 ゴクリと、隣のウエンが唾を飲み込む音が聞こえる。僕も額から汗がたらりと垂れてきて、その感触がやけに気持ち悪く感じた。


 ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり……ドアが開いていく。太陽の光が差し込み、光が目を眩ませる。そして網膜は、次第にその光に慣れていった。


 「す……すいませっ……! みッ……ずを……み」


 そこには、倒れ伏した黒い何かがいた。ずるずると体を引きずりながら、ガラガラの声で何かを要求する、黒い何かがいた。真夏なのに黒いブレザーを着た黒髪の、黒だらけの少女がいた。というか、先ほどの変な少女だった。


 「ひぎゃああぁぁあああああああ!!!???」


 死神なのに、一番に悲鳴を上げたのはウエンであった。ウエンは目を白黒させながら、素早く僕を盾にして首を両手でロックした。世界で一番嬉しくないバックハグである。


 「お、落ち着けウエっ……ン……! ちょ、首締まってるって……!」


 「おおおおおちおち落ち着いてるわよわたたわたしわぁ……!」


 「な、ら……ッ! もう一回ッ……見ろって……!」


 「え……?」


 案外ビビりなウエンを必死に宥め、なんとか視線を少女に向ける。前髪が長いせいで不気味に見えるが、その姿はただの熱中症になりかけている女の子だ。


 「な、なんだぁ……私、てっきりあの刀持った女がまた襲ってきたのかとびっくりしちゃったわよ……」


 「た……助け、て……み、水を……」


 とりあえず、死にそうな彼女のために水を持ってこよう。いろいろ考えるのは、その後で良い。僕は考えるのを辞めて、ウエンに少女の介抱をするように頼んでから冷蔵庫に向かうのだった。


 これが、オカルト少女の八尋白雪やひろしらゆきとの初めての邂逅だった。僕はこの日のことを、これからも忘れることはきっと、無いに違いない。

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