第3話 事の起こりと目的

さてさて、

今、目の前に起きていること。

又、昔から繰り返し繰り返しやってくること。


何かを悟らす為とは言え、なぜ悟らせる必要があるのだろう。


「これこれ、こういう理由があり、今私の目の前には〇〇な事が起きている。」

理由がわかったら、次はどうするのか?いや、どうにもならない事だってあるはずだ。


では、なぜ悟らせる、気づかせるのか?


✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣✣


やれやれ・・・

どうやら、作者は行き詰まったかな。


私はこの作品を書いてきた作者の内側にいる偶像だ。名もある。

名乗るならば、ジャンとしておこう。


では、私の考えを話すとしよう。


一言で言えば。

それは、「目的」があるという事。


目的ならば、起こる事は試練と捉えるかもしれない。


だが、私は「試練」とは捉えていない。

勿論、「試練」とも捉える事象もあるだろうが。全てにおいては「試練」とは言えないからだ。


では、その「目的」とは。

人は皆、生まれてきたからには、幸せになるべく歩いている。

幸せとは、人それぞれ価値観も違う、感性等も違う為、幸せの形すらもそれぞれと言えるだろう。


この「幸せ」を目的とするならば、その人に合わせたその「幸せ」が解るような道がご用意されるのではないだろうか。


「自分は、幸せだ。もう、解っている。」

と言うような人でさえ、私から見れば、幸せだと体感を得られているか。

と言う事なんだ。


つまり、思考で解るのと、感じるのとではまるで違うと言う事だ。


皆さんは、どちらが本当の幸せだと思うか。

頭で知っている、解っているのが幸せなのか?

それとも、それだけに留まらず、

「あぁ。。幸せだなぁ。」と感じる事ができる方がいいのか。


私の考える「幸せ」とは、体感こそだと考えている。

この体感を得る為に、日々何かに打ち込み、結果が達成されると、それは、喜びとなるだろう。


また、今起きている事が、良くない事、苦しい事、辛い事など。

自分自身にとっては、とてもとても幸せからは程遠い事ですら、私は目的である「幸せ」に辿り着ける道であると考えている。


ここで、例えるとしよう。

何か不便になったとする。

身体が一箇所動かない、無くす、

又は便利な文明が無くなる、例えば、今使っているパソコンや、スマホなどだ。


日常に当たり前にあるものがなくなったり、故障などすれば、不便となり、どう生活したらいいのか。となるかもしれない。


しかし、また再び回復し、元に戻ったり、身体が動くようになったりすれば、「嬉しい」とか、「安心」とか、

心は負の感情から解放され、正の感情、つまりプラスの感情へ転換されると言うわけだ。


もう、解る方には、お解りだろう。


自分自身に起こる事とは、その事柄を通じて、目的である事に向かっての、途中の段階だと言うわけだ。


大事なのは、その真っ只中である苦しみなどを悲観したり、不平ばかりだったり。そして、プラスへと戻った時に何も考えず、知ろうともしない場合は、また、違った事で目の前に現れるだろう。

それは、もう一度、解らせるためだ。

体感してもらう為に。


また、せっかく体感できても、人間とは、また忘れてしまう。

忘れたらまた、不平不満など、負の感情に陥りやすい。

そんな頃には、また再び思い出してもらう為にまた、目の前に何かしらの事の起こりがやってくる。


一生のうちに何度でも、苦しみや、悲しみなどを経験しながら、その先にある幸せな心を感じる経験が待っている。

これこそが、素晴らしい体感を得る為の事象ではないかと、私は考えている。


まずは、一人ひとり私達が、気づく事ができるか、どうか。


そして、起こっている事象をどう捉えるのか。

これにより、目的に近づけるのか。

はたまた、遠ざかるのかは、

自分の心1つだろう。。。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

出来事を悟り、捉えるとは。 中筒ユリナ @ariosu-siva

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ