第9話 履修届、それは発達障害の鬼門



 スズは涙を滲ませてカナメの後についてきた。さっき言われたことが余程ショックだったのだろう。


「ごめんなさい、ごめんなさい。私が悪かったです。だから友達でいてください」


 感情が極端すぎる。かつての自分も他人から見るとこうなんだろうかとカナメは内心複雑だった。


「いや、そういうのじゃないから。そういうのも含めて話をしたいって言ってるんだよ。もしも……本当に友達になるなら」

「どうすればいいか本当に分からない……いつもこうなの、なんでみんな怒るのかどうしても分からないの」

「だからこそ話をするんだって。言葉はコミュニケーションの基本だよ……ほら、そこで話そ?」


 二人で程よい間隔で植えられたケヤキの間を進む。サラサラと小風が葉をなびかせる音が心地よい。六月の夏の日差しもここならスズにも大丈夫だろう。


 カナメが進んだ先には大学でも人気のない、ケヤキの木の下のベンチだった。ベージュのペンキが塗られたベンチにカナメは座ると自分の横をぽんぽんと叩いてスズを手招きした。


「……怒ってない?」

「怒ってない、怒ってない。いや、本当は怒ってたけどさっき怒鳴って消えた」

「……よかった」

「ところでさっきまでのですます口調とさん付けはなんだったの?」

「だって丁寧にした方が好きになってもらえると思って……い、いやだったの?」

「いやっていうか変だったかな。違和感がすごかったかな。いきなり下の名前で呼ばれたのも驚いたし」

「だって友達だから……お、怒った?」

「だから怒ってないよ」


 信じたのだろう。スズはホッとした表情を浮かべてベンチの隣に座った。


「……友達でいてくれるの?」

「いや、まだなってない。なってないからなるところから始めよう」

「もう友達でしょ?」

「いやいや、私はオーケーしてないでしょ?」


 スズは首を傾げた。友達とは自分がそうなりたいと思った時から友達ではないのだろうか。相手の了解がいるとは考えていなかった。


「まずは自己紹介しよ。私は不動カナメ。文学部哲学科一年生、出身は神戸。好きなのはニーチェとフーコーとカントと……」

「コント?」

「あ、いや、最後のは哲学科向けの自己紹介だったから忘れて」

「……もう言ったけど、私は桜庭スズ。理学部数学科一年生、ずっと京都で暮らしてる」

「数学科なんだ。なんかお互いに発達障害らしいとこにいるねえ」

「そ、そんなの関係ないでしょ?」

「まあ、我ながら偏見に満ちた見解ではあるね」

「それに私は障害者なんかじゃ……何?」


 目を丸くしたスズの前にずいっとカナメのスマートフォンが現れる。真っ赤なゴム製のカバーが付いていて目を引く。


「友達になるには順序が必要なんだよ。自己紹介はしたから、まず連絡先交換しよ。ラインやってる?」

「順序? ……ラインはお母さんとお兄ちゃんがやってるからやってる」


 家庭的には大丈夫そうかなとカナメは内心ほっとした。あくまで自分の知る範囲だが家庭的にうまくいっていない発達障害者は結構多い。スズはしどろもどろだったが自分の剥き出しのスマートフォンを取り出す。二人でQRコードをかざしてあって無事電子上で繋がる。


 スズは友達一覧の画面に「不動カナメ」が追加されてホッとした。


「よかった……ずっと悩んでたの。どうやったらもう一度会えるのかって。名前だけ分かっても見つけられなかった。大学って変なところ。高校までは名前が分かれば見つけられたのに」

「大学生って大変だよね。同じ学科じゃないと連絡先交換しないと顔や名前を知ってても再会もろくにできない」

「そうなの!」


 スズは突然を目を輝かせてペラペラと喋り出した。


「大学って本当に変なところ、高校までと全然違う! 座る場所は決まってないし、授業もみんなバラバラで……それになんなのあれ!? 履修届って意味がわからない! 私……私大学なんて大嫌い! だって今までと何もかも違うんだもの! カナメもそう思うでしょ!?」


 いつの間にかさんがとれて呼び捨てになっている。カナメはどこから突っ込むべきかしばし空を見た。発達障害、特にASD傾向がある人は環境の変化が大きなストレスになるというが、そのちょっと前が引っかかった。


「履修届で何かあったの?」

「そ、それは……」


 今度は半泣きになり、下唇を噛んで俯く。スズはポツリポツリと話し始めた。かなり回りくどい話し方だったが、要はこう言うことだった。


 スズは大学に入ってすぐオリエンテーションを受けた。そこで期日までに授業を選択して必要数の単位をとるように言われた。ところがスズは高校の授業までと同じように「あらかじめ決まった授業をいつも同じ場所で指示通りに受ける」ものだと思い込んでおり、説明された話がちっとも頭に入らない。


 それに重要な価値があるのだとちっとも感じられなかった。意味が分からないことにはどうしても手をつけられなかった。


 だから履修届を出さず、なんとなくよく知る顔のいる授業を受けている内に期日が過ぎてしまった。もらった履修届のプリントもとっくに無くしていた。


 そしてスズはある日必修の授業を受けていると教務課の職員の呼び止められた。


「それで事務室まで行ったら「このままじゃ卒業できませんよ」なんて言われて……意味不明じゃない!?」

「あー、発達障害の大学生の最初の難関って言われてるよね、履修届。私も対策した」

「それは関係ないでしょ! そしたら私の様子がおかしいって……大学がお母さんに電話して」


 そして呼び出された母にたしなめられた。「分からないならどうして聞かないの?」。だってこれまではそれでうまくいったのだ。どうしてそんなことをしなければならないのだと反論した。最後の頃は怒鳴りながら泣いていたと思う。


 スズがあまりに泣くので、母と教務課の事務員は少し離れた場所でしばらくひそひそと話をした。そしてスズの母は本人の代わりに履修届を出した。確か四月の末の話だった。


「そしたら……何日か経ってお母さんが病院に行きましょうって言い出して。私は別にいい、おかしいのは大学って言ったけど、あんまり必死だからじゃあ少しくらいいいかなって……どうせ何もないし」


 そしてゴールデンウィークが明けた日に。

 スズは発達障害と診断されたのだ。



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