第4話 たかが遅刻、されど遅刻

「間に合った……!」


 時刻は八時五十九分。カナメは自転車を酷使して十二分で大学に辿り着き、ドイツ語の教室の前に立っていた。中からはすでに到着した同じ学年の生徒たちの声が聞こえる。


 スライド式のドアを開けると席はすでに大分埋まっていた。大学は席が自由なのでいい席からなくなる。具体的には後ろの席ほど早く埋まる。だからカナメはさっさと最前列の椅子に腰掛けた。


 その時ちょうど九時になる。チャイムの音にガッツポーズをとった。


(やったーーー!)


 カナメの頭の中でファンファーレがなる。たかが遅刻回避、されど遅刻回避。気が散って時間を浪費しやすく、余計なことに集中して夜ふかししがちな特性持ちにはクリアが困難なミッションだ。もっと志の高い人もいるだろうがカナメはとにかく「授業に間に合う」ということを授業の目標にしていた。


「不動さん、おはよう。今日もギリギリだね」

「えっ? あ、咲森さん」


 視野が狭くなって完全に見えていなかった。


 ショートヘアの小柄な女の子に話しかけられる。同じ学部で同じ学科の咲森ミサキだ。同じ学科で同じドイツ語なので何度か話している。友達と顔見知りの中間くらいの関係だ。それでも現在の関係は良好でこれからの四年、仲良しになれる予感がする。


「おはよう。偶然だね、席が隣だなんて」

「ふふ、不動さん、いつもドアのすぐそばの一番前の席に座るから来るかなって」

「あはは、行動バレちゃったかー。……まだ、先生来ないね?」

「この授業の先生、時々五分くらい遅れるから。大変だね、一人暮らしは。朝ご飯とか大変でしょう?」

「まあ、うん」


 カナメとミサキは全く違うエリアの高校の出身だ。だからまだ距離感が掴めない。


 非常プランやウィダインゼリーの話をするほどにはまだ親しくない。いや、親しいとしても黙っていてもいい話題かもしれない。その辺の人間関係の線引きはカナメには難しく模索中だ。マイノリティだから卑屈になる必要はないが慎重なのは悪くないはずだ。


「あ、先生きた」


 誰かがそういうと自然と静かになった。初老の男性が厚い教科書と冊子を持って教室に入ってくる。そのドイツ語の講師(確か何かの教授だったと思う)が壇上に立つまでの間に慌ててカバンから教科書とノートを取り出す。


 よし、ちゃんとドイツ語の教科書とノートが出てきた。今日は満点。


「ご、ごめん……シャーペン借りていい?」


 だがペンケースを忘れていた。無念。ミサキは笑顔でシャープペンと消しゴムを貸してくれた。後で生協で買おう。こうして一人暮らしのなのに無駄な出費が増えていく。壇上の講師が少し不快そうな目線を投げかけたがすぐ正面を見る。


(ここまでで九時七分、よし。色々あったけど今日の出だしはバッチリ……)


「すみません! 遅れました!」


 わざわざ宣言して教室に入ってきたのは桜庭スズだった。


(そうだ、すっかり忘れてた。桜庭さんも同じドイツ語だった)


 全力疾走したのだろう。ハアハアと息が切れて、せっかくの美人の顔が真っ赤に染まっている。ストレートの黒髪もボサボサでパリッとしていたであろう白いブラウスと紺色のスカートもシワがひどい。


 スズは怯えたように講師を見た。


「あ、あの……」

「いいから早く座りなさい」


(えー!?)


 講師がそう言って指差したのはカナメの隣の席だった。確かに他には空いている席がほとんどない。カナメが戸惑っているとスズはこちらに気付いていない。というか周囲に全く目が入っていないようだ。さっさと座ってカバンから教科書とノートを取り出す。


「あ、あの……げっ」


 小声で気弱そうにこちらを伺うスズ。ようやくこちらに気付いたらしい。


 どうやらカナメと同じくペンケースを忘れたらしい。それにしても「げっ」とはなんだ「げっ」とは。


「えっと、その……わ、私、忘れて……か、書くやつ貸して欲しくて」

「……」


 意地悪ではなくカナメは真面目に悩んだ。自分のものならそれくらい貸すがこれはミサキのものだ。勝手に貸すわけにはいかないし、自分が書くものがなくなってしまう。


「なんで黙ってるの……お、怒ってるの?」

「いや、そうじゃなくて……」

「不動さん、貸してあげて」


 そう言って咲森ミサキは二つ目のシャープペンをカナメに差し出した。なんというスムーズな察し能力の高さ。これが定型発達者の能力か? いや性格か? 自分にない能力を持つ人たちのことはやはりよく分からない。


 無言でシャープペンをパスするとスズはホッとした顔をした。ペコと軽く頭を下げる。その時カナメは初めてスズの笑顔を見た。


「桜庭さ……」

「ゴホン」


 講師が「いい加減にしろ」と咳払いをしたので慌てて三人は教科書のテキストに集中した。

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