第36話 作品内における、作者自らの身体経験の有無 3

 言葉がブレると難なので、「身体経験」という言葉で統一してこれまで論じてきておりますが、まさに、この「身体経験」というものを、形を変えて、登場人物を変えて、そして舞台を変えて、時代を変えて・・・、

その上で、創作として表現していくことが、何よりその作品にリアリティをかもし出してくれるというわけです。


 かの「太陽の子」を観るとなっても、結局は一緒です。

 かの作品を観ていれば、必ず、自分自身がどこかで経験したようなことが、登場人物やシチュエーションを変えて、出てきているはずです。

 それがない状態でのフィクションというのもあるのでしょうが、理論的にはね、ただ、そんなもののように見えても、結局はどこかで経験していることが形を変えて表現されているだけなのよね。


 戦時中の勤労動員されている女学生のおねえさんが、早く結婚して沢山子どもを産んでお国のために云々というところがありますが、じゃあ、時代も環境も違う私には同じような身体体験がないかというと、そんなこと、ないのよね。

 ああいう極限化された状況下において、あんな質問に対しての答えというのは、場所などが変わっても、結局、同じような形で出てくるものなのよ。

 私もね、思い出したよ、養護施設にいた頃のことを・・・。

 彼女のあの「回答」の本質というのは、実は、私が養護施設という、言うなら特殊な環境にいたときに体験したことの中に、いくらも、あったなと思うのよ。


 まあ、正直、クソの役にも立たん・・・(以下自主規制。罵倒にしかならんから、大人気~だいにんき、じゃなくて、オトナゲさえないのでね)。

 その養護施設時代というおぞましくも虫唾の走る経験の積み重ねを押し付けられた時代を差し引いて、大学合格後の私の人生においても、同じようなシチュエーションはたくさんあったわな。


 あのシーンやが、わしが思うに、それはひょっと、彼女の「本音」かもしれない。

 だが、あれはある意味その社会状況における「熱狂のようなもの」によって酔わされた(刑事法講学上の「心神耗弱」状態とも言えようね)上での言葉であるという側面が、実に強いなと感じたよ。


 わしはまあともかくとしてもね、かの黒崎博君にしても、同じような経験は人生のあちこちで、必ず、しているはずだぜ。

 いずれ会えたら、ぜひ、尋ねてみたいと思っておるところよ。

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