第35話 作品内における、作者自らの身体経験の有無 2

 同じものをみんなが一様に見ている。

 その対象が、まさに彼のかの作品であるとしましょう。

 映像としては、誰に対しても、平等に同じものが目の前に現れます。

 目の前の画面は、特定の誰かに対して作為をしたりはしません。


 さて、観るほうは、どうか。

 客観的には、確かに、同じものを観ていると言えよう。

 同じような性質の人間が同じものを観れば、同じような感想になる。

 それはおおむね、あたっていないわけでもない。


 だけどね、本当にそうだろうか、ってお話や。


 私はいわゆる「ラノベ」なるものは書かないし、基本的に読みもせん。

 土下座されても書く気は、ねえよ。

 そちらの世界では、やれ異世界が云々と、そんなのが流行っとるらしいな。

 確かに、異世界にすれば、今私らが生きているこの世界での身体経験のかわりに、別の身体経験をすることになるようにも、思われる。

 だが、それは表面的な見立てに過ぎん。

 そういう世界を書くにしても、あるいはこれが時代劇であっても、それこそアメリカの西部劇であっても(それらもある意味「異世界」だろ?)、やはり、我々と同じく、生身の身体で(そうでないパターンもあるらしいけどな、それとて、同じことなのよね、結局は)個々の体験をしていくという構図は、決して、変わらないのよ。


 となれば、目の前に展開している映画に登場する人物のそれぞれの動きを観ていれば、こういうことが言えような。

 目の前の個々の体験はその人物がしていることになるのは確かだが、それと同等以上の体験を、実は、それを観ている誰もが形を変えて体験し、それが、その人の身体経験として根付いているってことに気づかされるのですよ。

 逆に言えば、それを描いている人間さえも、その身体経験を確実にしているってことであり、もししていないとすれば、その作品は作れない(書けない、描けない)ということになりましょうがな。


 ちょっと、抽象的というかわかりにくくなってもうた。

 また、回を改めて脳みそをまとめなおして、書きます。

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