第34話 作品内における、作者自らの身体経験の有無 1
自らの経験、ここはあえて「身体経験」と表現しますが、その有無は、否応なくその「物語」の質を左右します。量についても、実はそれは情報量などにおいて、読むものや観る者が見たらわかるレベルで、当然、連動して左右してきますね。
さて、昨2021年に放映されたトロピカル~ジュプリキュアのキュアパパイアこと一之瀬みのり、まあその、私の娘(=隠し子)のみのりん、ってことになっておりますけれども(苦笑)、彼女は、「マーメイド物語」という小説を書いて文芸部の会誌に出したのね。で、それはいいけど、周囲はすごいと言ってくれれいるのに、とある先輩(わしにいわせりゃどっちもどっちや)に、いろいろ駄目だしされたのね。
その中のひとつのポイントが、これ。
自らの経験が作品に反映されていない。
そんな小娘(親馬鹿の言葉として、許してちょんまげ)程度でもわかるようなら、わしらが見たら一発、なんだろうなと。
・・・ ・・・ ・・・・・・・
ところで、そんなうちの馬鹿娘の駄作(謙遜だぜ夜露死苦!)と、その父親?の同級生とはいえ映画監督としてしっかりとした作品を作られた方を同列で論ずるという世にもとんだ親馬鹿の極みのわしではあるが、あえて、論じてみるね。
かの映画、別に黒崎博という人間の一部を知っていなくたって、当然楽しめるし、観ていろいろ読み取れることはあります。その作品だけをきちんと読み取るには、むしろそのほうが、いいでしょう。
ただ、その作品を生み出した、しかも映画監督として携わった彼が、その作品全体はもとより、個々のシーンの個々の登場人物の心境や言動全般を観ていれば、それがあいつだという「バイアス」がかかった見方をしてしまうのは、確かにあります。
とはいえそれは、必ずしも悪いわけではない。
映画監督・黒崎博氏として彼とこのところ人的接触があるわけではないと言ってもですな、かつて、同じ小学校の、しかも同じクラスにいた黒崎博君という人物を知っている私という人間が見たとき、どんなふうに、その映像が読み取られるか?
そういう視点で分析してみると、また、違った見方が見えてくるはず。
黒崎博という人物がどのような「身体経験」を重ねてきたかが、肌身でわかる。
そういう「アドバンテージ」が、こちらには、あるわけや。
あいつなら、この経験、人生のどのあたりでしただろうな、ってね。
~ いずれ(ひょっとすでに)彼が私の作品を読んだら、恐らく、同じことが起きるであろうな(苦笑)。
・・・ ・・・ ・・・・・・・
ちょっと長くなってしまって収拾をつけ切れないから、何度かに分けて、論じていきますね。
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