第13話 「にぎりめし」の、白さ

 色はいろいろ、ってことで、この調子ですとしばらく色の話をすることになっていきそうな勢いになって参りました。

 まあええ。いくで。


 この映画のラストシーン、主人公の帝大生がにぎりめしなどをもって比叡山に登るところがあります。で、腰掛けてその握り飯をほおばるわけですが、そのにぎりめしの白さが、何とも、言えんのですわ。


 まあその、今どきのコンビニのおにぎりに至っては、海苔で巻かれてというよりむしろ完全に覆われておりますわな。で、袋から取り出しやすくする工夫さえなされておると来たものね。これは、手を汚さないようにという配慮もあろうと思われる。あるいは、手を満足に洗えない状況下であっても、片方のビニールを残しておけば、汚さずに食べられましょう。


 とはいえ、これは現代では、ない。

 この映画の舞台は1945年の夏。

 今とは衛生観念もかなり違うわな。

 それどころか、物資不足の時代や。

 その原因、解説の要などなかろう。


 いくらこの主人公界隈が当時の日本国内の都市部の生活者から見て、相対的にかなり恵まれていた人たちであるからと言っても、である。

 そんな折に、さすが、三角に握られた(成形された)おにぎりなんかが出てきたあかつきには、何じゃらほいの世界や。


 なんだかんだで、今の時代にあっても、実は、米、それも白米というのは、御馳走なのです。まして当時の情勢下では、なおのこと。

 そりゃあ、服にしても今のようにクリーニングにホイホイ出して、そうでなくても洗濯機でさっと洗えばきれいに気持ちよく、なんて時代じゃないからね。当時のことですからね、カッターシャツなんて、今の私らのようにきれいな状態で日々過ごせたわけでもなかろう。まして、山に登っていれば、汗もかくわ。当時の夏は今ほど暑くもなかったと言ってみても、ね。そうそう、京都は盆地やったな。夏は、暑いわ。


 さあ、そんな中にあっても、純白なものの象徴・・・。

 それこそが、おにぎり、もとい、「にぎりめし」ってこと。

 あのにぎりめしの白さこそが、あの映画の最大の「肝」かもしれんな。

 そこまで、黒崎氏が意図を巡らせていたかどうかはわからんですがね。

 もし映画監督・黒崎博がそこを意図していたとしたら、大したものだ。

 そうでなかったとしても、彼は無意識の中意識していたに違いないわ。

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