第9話 所詮は、日常の延長に発生する出来事の羅列

 物語というものは、いくら異世界としようが、過去としようが未来としようが、はたまたどんな特殊環境としようが(それには私がかつていた「養護施設」も含まれます)、所詮は、日常の延長において発生する出来事の羅列なのです。


 いくら激辛カレーの好きな私でも、毎日激辛カレーを食べているわけじゃない。

 酒にしても、飲まない日、あるよ。


 飲食において、少し例えを出してみました。

 ここで一つ、私が激辛カレーを食べ歩く観察映画を撮影するとしましょう。

 そればかり見ていると、私がいかにもカレーしか食べない人間みたいに見えてしまいますよね。

 だけど実際は、オムライスも食べるし、昨日はハヤシライスを食べたっけ、あ、酒はいつも通りのんだな・・・(苦笑)。

 でも、激辛カレーの観察映画は、私のイメージを一気にそこへとクローズアップさせてしまうのね。

 これが、物語の怖いところでもあると同時に、醍醐味のようなものでもあるのね。


 さて、映画「太陽の子」の全編において言えることであるが、一言で申しまして、日常と非日常のバランスが、すこぶる、よいです。


 一見「非日常」な会話が展開しているが、それは実は、日常の会話の中で行われていることである。

 京都に原爆が落とされる可能性がある。それなら、それを比叡山に登って見届けようとする研究者見習の大学生。主人公やけどな。

 言うとることはマジ、「狂気」や。

 でも、その狂気というものをいかにもな場所でいかにもな風体で表現してしまったあかつきには、むしろ、一発ギャグの出来損ないにしかならん。

 一見、日常の母子の会話といった場面で出してこそ、その「狂気」というのは特質がはっきりと浮かび上がるものなのです。


 で、ちょっとオマケちゃん。

 かの青年の母親、田中裕子さんが演じておられるが、その母親の名前がなんと、なんと、「フミ」さん。

 実は、わしの母上様も、「文子」と申すのです。


 まさか、あいつ・・・


ってことはないかもしれんが、なんかね、そのシーン観ていて、わし、自分が母親に説教食らっているような気がしてならなんだわ(汗汗)。

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