第8話 終戦直前なのに、なぜか、今の京都大学正門が

 この作品中、学徒出陣する京都帝大の学生が描かれております。

 そのシーンでありますが、なんと、当時の正門のCGやセットなどではなく、今の国立京都大学、厳密にいえば、国立大学法人京都大学ってことになるのですが、その正門前で撮影されておるのです。

 しかも「京都大学」の文字が横書で、英語表記もその下にある状態ね。


 1943~45年8月頃までに見られた光景ということになりましょうけど、当然当時は、旧制の「京都帝国大学」であることは、言うまでもありません。


 さて、これを見て、普通はどんな反応があるか?

「時代考証が不十分を通り越しているではないか!」

「大ポカ、ボーンヘッドの極みや!」

 そんな意見が多々出てくることくらい、素人のわしでも十分予想がつきます。

 もちろんそれに対して、「そんなところに目くじら立てるなよ」という意見とも擁護とも、はたまた何じゃらホイなことを言う人もいるでしょう。


 後者のようなご意見は、この手の話になれば必ず出てくるものですな。

 私はどちらかと言うと、結構、この手の話には目くじら立てるほうですから、当然、そんな意見にくみすることはありません。

 では、前者のような意見をそのままトレースした位置にいるのかというと、実はそんなこともないのね。これは別に、監督が旧知の人物だからと言って「弁護」しようとか(わしなんかに弁護されては彼も迷惑だろうな~苦笑)、大目に見ろとか、そんなことを言うわけではないからね。


 で、わし、このシーンを見て、むしろ、これでよかったのではないかと、そんなことをふと思ったのね。多分20歳若ければ、そんなところすぐに目くじら立てていた口だよ。ましてや鉄道がらみのシーンともなれば、ね(苦笑)。


 別に今の社会情勢や世界情勢を、この場にて云々するつもりはない。

 それにかこつけて、何かためにするようなことを言うつもりもない。


 たまたま今回は京都大学という大学が舞台になっているが、これが東京大学をはじめ他の大学であっても、同じことや。

 このシーンを入れることで、私はむしろ、黒崎氏の意図と思いを読み取れたね。


 このシーンをあえて、今の京都大学正門という実在の「セット」で撮影していることの意図や、いかん。

 この物語に出てきた、歴史上の事実のひとつである「学徒出陣」、すなわち学生が学業をとめて戦地に行くような時代を、絶対に来させてはいけない。

 これは確かに過去の物語であろうが、決して、他人事(ひとごとというよりむしろここは「たにんごと」と読んだ方がいいかもしれんね)ではないのである。

 そのことを視聴者に認識させるのは、やはり、このシーンは必要不可欠なものではなかったろうかと、そんなことを考えさせられた次第です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る