第7話 ドキュメンタリーとフィクションの境界 2

 前話の続きを参りましょう。


 さてさて、とある家族のドキュメンタリーを作成していた黒崎氏が感じたものと、小説を書き始めて私が感じたものとは、一言で評して、コインの裏表のようなものであると言えましょう。


 実話をもとに、起きたこと、ひょっと、現在進行形で起きつつあることを切取って人に紹介するドキュメンタリーというか、まさにリアルなノンフィクションを作っていた黒崎氏が感じたのは、こんなところかと思われる。

 全体として「嘘」であってはいけないが、個々のエピソードやそのつながりという点において、そこに微塵の嘘も入れずに自らの「作品」を築き上げるということは無理だというところに思い至ったのではなかろうか、と。

 一方の私は、さすがにもはやノンフィクションの「半生記」を書いているわけではないということくらい頭ではわかっていて、だからこそ、小説にしようということになって動き出したが、自らの人生をそのままトレースすればよいわけではないし、そんなことをしたらかえって話が持たなくなってしまうことに気付かされた。

 その背景としては、すでにそれより十数年前に自身の父親に絡めて「半生記」とも「旅行記」ともつかぬ作品を、本名名義で出していたというのも、あります。


 自らの肉体をもって見聞き、その肌身で経験したことと、何かの表現媒体に託してある部分を切取ってひとまとまりのストーリーにしていくことの間には、こちらが意図するとしないにかかわらず、そこには初めからすんなりと運ばない「宿命」と言っても過言ではない要素があるのでしょう。

 

 ドキュメンタリーとフィクションの境目は、どちらから入っていったとしても、必ずどこかで出くわすものである。


 そのことに気付けば、あとは、もう、調整の段階と言ってもいいかな、実社会風に申せば。その「調整」というものをしつつ、文章という形で、あるいは映像という形でひとまとまりのものを仕上げていくのが、私らの仕事ってわけですよ。


 そこから見るに、映画「太陽の子」で彼が描いた時代とその世界は、同時に、今現実に生きている我々の世界をも、同時に描いているということになるわけです。

 その象徴的なシーンについて、次話でお話したい。


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