第6話 ドキュメンタリーとフィクションの境界 1

 まったく別の世界を描くとか、はたまた、時代物を作りでもすれば少しは話も違ってくるのかもしれませんが(実はそうでもないかもよ)、現代ドラマを書いていく、あるいは映画などの映像作品を仕上げていくともなれば、いい悪いでもなく、多かれ少なかれ、確実にぶつかるのが、この論点です。


ドキュメンタリー(ノンフィクション)と、フィクション(虚構)の境界


 私の場合は、小説を書き始めてすぐ、そのことに気付きました。

 自分の「影」を使って作品を書いているのですから、そりゃあ、余計に、嫌と言うほど感じた。で、自分の経験通りか、それに近いあたりでお茶を濁して書けるかと言うと、それすら無理でしたね。

 その状況というのは、こんな感じや。


 まず、私(実在の人物)のモデルの「影」が、ある映画のヒロイン役の影と初対面するところから。

 なぜまた、大学に入学した後者の女子大生が、鉄道研究会のビラを撒いている中学生の私とぶつかるのかというのは、その後の物語のある意味すべての始まりと言ってもいいところなのでして、それは書籍にも2冊目で掲載しました。

 ところがこの時点で、私は岡山市内の養護施設に居まして、そのままそれで書いていくと、早晩、話が持たなくなるなということを痛感した次第。

 そこで、私の「影」は、養護施設を小6の5月時点で「退所」している設定にしました。実は生まれてきていないが、そのくらいの年齢の「叔父」が父方にいるという設定を作って、そこは「突破」したのね。

 それからあとは、結構、書き進められました、ってことで。


 さて、かの黒崎博氏の方はどうかと言うと、NHK在局時代の若い頃、とある家族のドキュメンタリーを作ったそうな。

 これは明らかに、「ノンフィクション」の性質の高い仕事ですわな。

 下手に、事実に反することは描けませんよね。

 マジ、やばいことにもなりかねん。

 そこで彼が感じたことというのが、私とほぼ同じことだった、って話。

                                 (つづく)

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