第三十話 美味しいとんかつ
「ほうほうそれで? 胡桃沢はどう処理したんじゃ?」
割烹着姿で台所に立つ七生が話の続きを催促してくる。
「どうもこうも無いでしゅ。ボクは火車でしゅから空も走れましゅ。十五分くらい走って吉祥寺まで行って、法子……〝外道〟が根城にしているビルの四階に叩き込んでやりましゅたよ。外道は間違いなく池袋の奴等に胡桃沢を売り飛ばしたでしょうから、今頃奥多摩の山奥か、東京湾の底を選ぶ自由があれば最後に運が残ってたってとこでしゅね」
あの夜から数日、力を使い果たしたボクは丸一日吉祥寺の路上で眠りこけ、何とか体力を回復させ、えっちらおっちら歩いて調布へ一日以上かけて帰ってきた。電車なら三十分の距離だ。自分の貧弱さが嫌になる。
「なる程の、それで行く当てがなくなり亜希のアパートに戻ってきた訳か」
「そうでしゅよ。青息吐息でたどり着いたら亜希は絶賛残業中で、阿保狐が馬鹿みたいな恰好をしてかいがいしく通い妻をしているのを見て爆笑して今に至るというわけでしゅ」
「他人の! 恋愛を! 馬鹿に! するな! クズは辞めたと言うておったろうが」
「おっとそうでしゅた。やっぱりボクのような純粋な心を持ったピュアな妖怪はクズになり切ることなんかできなかったんでしゅねぇ」
「自分で言うとりゃ世話無いわ。しかし、今の話、少し気になる部分があるのう」
「なんでしゅか?」
「いやなに、その胡桃沢とかいう女はお主の飼い主殿をレイプしたんじゃろ? 普通レズビアンでもなければ同性と性的接触を持つなんぞとんでもない拒否感じゃが、なぜそんな手段を選んだのじゃろうと思っての。受けたいじめをそのまま返すという趣旨にも外れておるし」
確かにそうだ。胡桃沢は当時言われたセリフすら再現するほどに昔のいじめにこだわっていたのに。
「それにレズビアンとて嫌うとる相手、いや好いておらん相手とのまぐわいなぞ気持ち悪いことこの上ない。真に愛する相手としか体を合わせたくないものなんじゃがのう」
「さあ? あのいかれ女の心情なんて知りたくもないでしゅ」
「確かに。今ここで考えても詮無きことじゃ。唯一真相を知る女は土の中か海の底じゃしの」
「ただいまー」
そうこう言っている間に亜希が帰ってきた。胡桃沢の違和感なんて棚上げだ。そして一生下ろさなくていい。
「おう亜希よ! お帰り! 喜べ、千里が帰ってきたぞ」
「ほんとに⁉ うりゃうりゃ千里ー。どこ行ってたのよー、心配したんだからー!」
体力回復のために全裸で寝転がっていたボクの頭を千里が遠慮なしにわしゃわしゃしてくる。疲れてるんだっての!
「なによーアタシだって疲れてんのよ? 正規雇用だなんて威張ってた友達がさぁ、最近様子おかしくて。殴られた痣を沢山付けてやってきて。明らかにDVよDV! しかも飼ってた猫に逃げられたとかで落ち込んで全然仕事できなくなっちゃってさぁ。アタシが全部その分フォローしてあげた訳! 残業して! 偉くない⁉ 公務員残業代出ないのに!」
「そうかそうか大変じゃったのう。そんな亜希と、帰ってきた千里をねぎらうために今日はとんかつじゃ!」
「やーりぃ! 七生愛してる!」
「おほ、おほ、そ、そうかえ? 嬉しいのう!」
七生が食卓にとんかつとみそ汁、キャベツの千切りと箸とお茶を手際よく並べる。どんだけ通ったのやら。
「じゃ、いただきます」
「「いただきます」」
「それでさぁ、さっきの友達。職場で唯一の喫煙仲間だからさ、煙草吸いながらまぁ元気づけた訳よ。DV彼氏とは別れろ、猫はまた飼えばいいって。そしたらそいつ、やけにすっきりした顔で言うのよ」
――『DV彼氏はいなくなりました。それと猫は必ず見つけます。だって私、あの猫に恋しちゃってますから。だから霧島サァーン。フラれてご愁傷様でした!』
「なんて言うワケ! なんでアタシがフラれたとか言われなきゃいけないの⁉」
憤慨する亜希をしり目に七生がこっそりと耳打ちしてくる。
「カカカ、どうやらお主、惚れられたみたいじゃぞ。家出ついでにえらいもんを拾ってしまったのう……。素晴らしき女同士の世界へようこそじゃ」
あまりに下卑た仙狐の物言いに心底げんなりする。もしかしてボクの方が上品じゃないのか。
「ほんとムカつくわー! あの藤堂小鳩の奴! 変なマウントしちゃってさぁ!」
「……今なんて言ったんでしゅか?」
「へ?」
「その友人の名前でしゅ!」
「藤堂……小鳩……」
「漢字は⁉」
「藤の花の藤にお堂の堂、小っちゃい鳩で小鳩」
ボクの脳裏に胡桃沢の肩に彫られた極彩色のタトゥーがフラッシュバックする。藤の後ろを飛ぶやけに小さな鳩。あの刺青を胡桃沢はなんと言っていた?
――『どれだけ理不尽な目に遭っても、どれだけ間違ったことをやっても、自分の心に嘘はつけない。逃げられない。この花札はそんな心を彫りつけた、あーしの恋人。絶対に手に入らない恋人なんだ』
それにさっき、七生が言っていた言葉……。
――『それにレズビアンとて嫌うとる相手、いや好いておらん相手とのまぐわいなぞ気持ち悪いことこの上ない。真に愛する相手としか体を合わせたくないものなんじゃ』
まさか、まさか、本当に愛してたと? 自分をいじめていた相手をなぜ……そんな事、胡桃沢本人にしかわからない。でも、だとしたらなんであんな陰湿な復讐を?
――『あの女のせいであーしは学校に通えなくなった。そのせいで体を売った。悪い客にシャブを打たれて中毒になった。その心労で親は死んだ。あーしはあの女を許しちゃいけないんだ』
クソックソッ。そうか、あの時の違和感の正体はこれか、本当に自分に言い訳をしてたのか。小鳩を好きだという本心から逃げられないことを分かっていながら、それと同時に燃え上がる、人生を滅茶苦茶にされた怒りでその身を焦がしていたのか。それを覚せい剤でぐちゃぐちゃにしてしまって。
ああ畜生、あの時ボクは確かに思った。一人一人に真実がある。ボクや小鳩の真実では、胡桃沢という女は間違いなく最低最悪の破壊者だった。今でも、同情する余地なんてないと思っている。それでも、それでも、胡桃沢の……胡桃沢が見ていた真実は……ああ駄目だ、考えるな。誰を、どんな地獄に叩き落としたって美味しくご飯を食べるのがボクの持つクズって武器……。
――それでも、胡桃沢が見ていた真実は少しばかり哀れじゃないか?
あー畜生。やっぱりクズじゃないと、こういう時に困るんだよなぁ。ボクは勝手に流れ出る涙をうっとおしく感じながら不味くなってしまったとんかつを口に運んだ。
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