第二十九話 「待ちましぇん」
女は泣き疲れて眠った後、驚く事に朝七時には目を覚ました。さっとシャワーを浴びて、見事な化粧で傷跡や青たんを隠し、八時には出勤していった。
気丈に振舞うのは意地なのか、でもそんな無理は長く続かない。今日職場で倒れたっておかしくない。仕事なんて休めばいいのに、家で一日寝ていればいいのに。そこまでして普通の生活という物は守る価値があるのだろうか。ボクには理解できないが、それが女にとってはとても大事な物なのだろう。
ならばそれを守るためにも一刻も早く胡桃沢を排除しなければ。ボクは夜のうちにたまったなけなしの妖力で人型に変化し、さらに多くの妖力を貯めるために冷蔵庫にあるものを片っ端から食べながらそう誓った。
ボクの立てた作戦は簡単だ。いくらボクが木っ端妖怪といえど、普通の人間に遅れをとる程じゃない。更に妖力を極限まで高めて、真の姿になればどれだけ喧嘩自慢な人間でも、爪の先でちょいだ。それでもって胡桃沢を排除する。武力行使だ。
「げっぷ」
腹が満たされたら次は睡眠だ。十分な睡眠は妖力の回復を格段に速くする。惰眠をむさぼればそれは更に倍だ。だからボクは決して自堕落なクズではない。景気づけに入れた酒のせいで若干酩酊しながらも変化を解いて猫に戻り、ふらつきながら寝床に戻る。見てろよ胡桃沢、ぶっ殺してやるからな。ボクは落ちてくる瞼に身を任せながら闘志を燃やした。
*
「……かよ……! 冷蔵庫……! ねーじゃん……!」
浅い眠りの向こう側から癪に障るしゃがれた声が響いてくる。この声は……ボクがぶっ殺すと誓ったあの胡桃沢だ。
「お、猫っ! 寝てんのか? 猫っ!」
うわ近づいてきた、おかげで半覚醒から完全に目覚めてしまう。とりあえず毛を逆立ててフシャーと威嚇。
「おう猫っ。元気いいな!」
全く意に介さず、抱き上げて来る。ふざけんな。お前元いじめられっ子だろ、もうちょっと空気読めよ、だからいじめられるんだぞ。ムカついたボクは胡桃沢が羽織っているワイシャツ(多分これもあの女の私物)に思いっきり爪を立てた。変な方向に力が入ったせいか、元々前開きで来ていたシャツがめくれ、胡桃沢の左の胸から肩口にかけての素肌が露になる。
いかにもヤンキーが好みそうなカルバンクラインのスポブラ。しかしそれよりも目を惹いたのは、肩口から胸と腕にかけて彫られているモノクロの和彫り。更にその中で一つだけ極彩色で彩られた花札の刺青だった。
(なんでしゅかこれ。藤の札?)
その花札は一見、四月の二十点札、藤にホトトギスの絵柄に見えた。
(でも絵が違いましゅね。ホトトギスの代わりに飛んでるこれは……鳩? しかもやけに小さくてバランスが悪い。なんでまたこんな珍妙な絵を……)
藤に鳩という奇妙な花札に少し見とれていたボクに気づいたのか、胡桃沢は嬉しそうな声を上げた。
「お、気づいたかー。いいだろこれ。これはなぁ……アタシの心なんだ」
興味ねーよの感情をこめて「フシャー」。でも胡桃沢は構わずに話し続ける。どうして人間は猫の声に耳を傾けないんだ!
「どれだけ理不尽な目に遭っても、どれだけ間違ったことをやっても、自分の心に嘘はつけない。逃げられない。この花札はそんな心を彫りつけた、あーしの恋人。絶対に手に入らない恋人なんだ」
もはや僕を見てすらいない。その理由は明白だ。さっきはだけたシャツのせいで見えた紫に変色してケロイド状になっている肘から前腕部にかけての注射痕。こいつ、覚せい剤までやってんのか。ラリってんじゃねーよ。ボクは拘束の緩くなった胡桃沢の腕からするりと抜け出し、距離をとるともう一度威嚇した。
「あらら、やっぱご主人をいじめる奴とは仲良くなれねぇってか。うーんあーしは仲良くなりたいんだけどなぁ。ま、自業自得か」
こっちはそんなもの迷惑だ。そう思うボクの顔を真っすぐに見て、胡桃沢は口を開いた。
「あの女のせいであーしは学校に通えなくなった。そのせいで体を売った。悪い客にシャブを打たれて中毒になった。その心労で親は死んだ。あーしはあの女を許しちゃいけないんだ」
何を言うかと思ったら。そんな物、一人一人に真実がある。悪いがボクの真実は昨夜、あの女が見せた慟哭だ。ボクは踵を返して寝床に戻る。胡桃沢もそれ以上何も言わずにソファに座ってスプーンで覚せい剤をあぶり始めた。目を閉じ、まどろみがボクを包むころ、少しだけの違和感がむくりと鎌首をもたげた。胡桃沢の最後の言葉、アレはボクに向けて話してるんじゃなかったような……まるで……そうまるで自分に向かって言い訳をしているような……。そこまで考えたところで眠気の渦に足を掴まれ、深い眠りの淵に引き摺りこまれた。まぁいい……どうせ何も意味のない事だ……。
*
「やめて……やめて!」
眠りの浅瀬を漂うボクに届く緊急アラーム。瞬間、瞼がバッチリと開き、飛び起きた猫の体は反射的に警戒態勢をとる。見れば胡桃沢があの女に昨日の続きをお見舞しようとしているところだった。仕事帰りなのだろう、女のオフィスカジュアルは無残にも破かれ、所々下着や、肌が露になっている。対する胡桃沢は優越感の表現か、日中あんなにラフな格好の癖にきっちりと服を着こんでいる。
「うるっせぇよ! バーカ!」
ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべながら胡桃沢が女の顔面を二三度殴った後、なおも抵抗を止めない女の首元にナイフをあてる。「ヒュッ」っという悲鳴の鳴りそこないが女の口元から漏れる。ナイフの刃が赤黒く汚れて見えるのはあれで池袋の半グレを刺した獲物だからか、全く持って暴力だ。
「大人しくしてりゃいーんだよ」
そう言って馬乗りになる胡桃沢、あのクソ女、常に自分が優位に立っていると思い込んでいるんだろう、昨日まではそうだった。だが今日は違う、傍観するだけのクズはもういない。今ここにいるのは獰猛な妖怪だ。
ボクは満腹と熟睡で貯めに貯めた妖力を一気に開放して本来の自分の姿を取り戻した。この世の物とは思えない、朱色の炎に足元を包まれた巨大な黒猫。
親兄弟仲間の死体を食い散らかして生き延びたボクに神様は化け猫なんて優しい姿は用意してくれなかった。死体を食い散らかす妖怪〝火車〟。それがボクの本当の姿だ。
急に増大した体積に耐え切れず、今までいたボクの寝床がはじけ飛ぶ。それにぎょっとして動きを止める胡桃沢と女。いい獲物だ。ボクは電光石火で後ろ足を蹴り、そのまま女の上に乗る胡桃沢に頭突きを食らわせ、女の上からどける。
「なんだこの化物っ!」
胡桃沢が狼狽えながらナイフを構える。足元震えてんじゃん。ボクはそんな胡桃沢を更に威圧するように口から炎を吐き、瞳孔が縦に切れ上がった獣の瞳で睨みつけた。ついでに胡桃沢から守ろうと女の体に足をかける。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
突如狂ったような声を上げながらこちらに駆けだしてくる胡桃沢。さっきまで震えていたのに、ヤク中はこれだから。ボクはそんな胡桃沢に向かって全力で前足をぶつけた。くらえ、妖怪火車の全力猫パンチだ。
あまりの衝撃に窓を突き破り、ベランダまで吹き飛ばされる胡桃沢。いい気味だ、暴力で戦う奴はさらに大きい暴力に潰される。自然の摂理。なんてことを思っていると、傍らから声にならないような声が聞こえてきた。見るとあの女だ。
「心配しないでくだしゃい。胡桃沢はもう……」
事情を説明しようと口を開くと女は腰が抜けたまま逃げ出そうとした。助けたのに何で!……ってこの姿じゃ当たり前か、その上に日本語を喋るんじゃ猶更だ。仕方ないので僕は人型に変化して女の後を追った。
「待って! 待ってくだしゃい! ボクでしゅ! 黒丸でしゅ!」
「く……黒丸なの?」
「そうでしゅ。騙してて……ごめんでしゅ。さっき見た通り、ボクはただの猫じゃない。妖怪なんでしゅ」
「なんで……助けてくれたの……?」
「……一宿一飯の恩義でしゅ」
我ながら酷い嘘だと思った。この部屋に来てから一宿一飯どころではないし、それに恩義は感じていない。この女を助けたかった。それ以外に理由なんてない。どうやらボクのクズはどこかへ消え失せたらしい。そう思いながら再びベランダで気絶している胡桃沢に視線を向ける。
「胡桃沢を……殺すの?」
「もちろん」
「やめて」
「どうしてでしゅか? はたから見てましゅたが、殺されてしょうがない女でしゅよ」
「確かに私もそう思う。これだけやられて、過去の贖罪も責任感もどっか行っちゃった。でも殺さないで」
「だったらどうして!」
思わず語気が荒くなる。だって胡桃沢は生きてさえいればずっとこの女に付きまとい、災厄を笑顔で運んでくるだろう。いうならばキングボンビーだ。殺す以外にない。
「黒丸は今も黒丸でしょ、ちょっと燃えててデカかったり、人間になれたりするだけで。だから私は、黒丸に私なんかの為に人殺しになってほしくない」
「ボクは……火車という妖怪でしゅ。死人を食い荒らすのが仕事でしゅ。胡桃沢はもう半分死人。殺したとしてもボクは何も変わりましぇんよ」
「関係ない。私が嫌。だから殺さないで」
やれやれ、言葉が通じても、猫じゃなくなっても、ボクの言う事なんか誰も聞いてくれないらしい。ボクは苦笑しながら口を開いた。
「わかりましゅた。だからと言ってこのままにはしておけましぇん。実は胡桃沢には追っ手がかかってるんでしゅ。捕まれば間違いなく殺されるような追手が。そいつらに引き渡しましゅがそれでもいいでしゅか?」
「それはおっけー。黒丸が手を汚さないで、知らない人間がやるならそんなこと知ったこっちゃないわ。胡桃沢が報いを受けるのも同じ。私そういうのは結構ドライなの」
「現代人は怖いでしゅね。それじゃ、お別れでしゅ。正体を見られた以上ここにはいられましぇんから」
「え、なに、そんなルールあるの⁉」
「いや、別にないでしゅけど、お約束じゃないでしゅか」
「お約束なんか関係ない! 今まで通り一緒に住めばいいじゃない!」
「ふひっ。残念でしゅけどボクは気楽な猫でいたいんでしゅ。正体を知っている、しかも人間との同棲なんて御免こうむりましゅ。それじゃ」
そう言うとボクはリビングの大きな窓の前に立った。胡桃沢が突き破ったので窓ガラスは吹き飛んでいる。カーテンがビル風に煽られ一瞬大きくはためいた。それが収まるころにはボクの姿は再び炎にまみれた巨大な猫に変化していた。そのままベランダに出て、気を失っている胡桃沢を咥える。
「あ、そういえば。職場の振り向いてくれない同僚への恋愛。応援してましゅよ。知り合いに全く同じような状況で歯ぎしりしてる狐がいましゅから」
「待って!」
「待ちましぇん」
最後にそう言うと、ボクは悲しそうに追いすがる女を一人部屋に残し調布の夜空へ駆け出して行った。
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