第二十八話 爪と牙とクズ
時刻は宵闇が辺りを支配するころ。調布駅前でボクは今、ベンチで一人法子からもらった資料を読みこんでいた。
胡桃沢悠木二十四歳、四国の田舎の生まれ。あの派手なスプリットタンやらピアス、(確認はできなかったけど刺青もあるらしい)は高校中退時に出会った悪い仲間の影響。車上荒らし、大麻取締法違反、暴行etcで次は執行猶予無しの実刑判決間違いなし。兄弟はおらず、両親は一人娘がグレた心労がたたり、立て続けに死去。半年前に「どうしても探したい相手がいる」と上京。四国の半グレと唯一付き合いがあった池袋のグループの厄介になるも二週間前、金と少量の薬物を持って逃走。
「終わってましゅねー」
そんな独り言が漏れるくらい、胡桃沢悠木は死人だった。
「読み終わった事だし戻りましゅか、あの伏魔殿に」
テクテク歩いて約十分。駅周りの住宅街の中にどデカくそびえる高級マンションを見上げる。ボクは変化を解いて猫の姿へ。はー楽だ。今日は一日本当に疲れた。早いところ中に入れてもらってベッドで安らかに眠りたい。ここまで考えたところで胡桃沢のスプリットタンがちらつき、気分が地の底まで落ちる。ボクはあの女の気持ちが少し分かった様な気がして同情した。
猫の姿のままため息をついて、インターフォンに部屋番号を打ち込む。相手が出たと同時に「にゃあ」。慌てて通信が切られ、一分後、息を切らした女がボクを抱きかかえた。
「良かった……良かった黒丸っ! どこ行っちゃったのかとっ……!」
ぼろぼろとこぼれる涙で自慢の毛並みが濡れる。重い女。メンヘラかよ。しかし、振り返って女の顔をよく見るとさもありなんといった感じだった。
顔は醜くはれ上がり、鼻の下には血をぬぐった跡、目の周りには明らかに殴られたであろう青たんが綺麗にできていた。普段ならば絶対に着ないであろうスウェットの上下(多分胡桃沢の物だ)に遮られて体を見る事はできないが、おそらく風呂上がりに見たあのシミ一つない綺麗な体にも、痣と青たんが所狭しと花を咲かせているんだろう。
「にゃあ」
同情はしない。この女は昔のツケを今払っているだけなのだ。クズのボクはそんな事で心を動かされるわけにはいかないのだ。
「うん……うん……帰ろうね……ごめんね」
*
玄関を今度は女に抱えられてくぐると、部屋は見るも無残に様変わりしていた。独身OLのオアシスだった1LDKは空き缶が散らばり、煙草でけむり、女が一つ一つ選んだであろう調度品や食器は破壊されつくしていた。ボクのキャットタワーまで!
「なんだお前、血相変えて飛び出していきやがって。っておい、猫戻ってきたのかよ! 朝あんなに慌ててたもんなぁ!」
いきなり距離を詰めて来る胡桃沢。煙草と酒の混ざった最悪の臭いが抱きかかえられているボクの鼻にまで届く。
「やめて……黒丸には手を出さないで」
「アァ⁉ 出す訳ねーじゃん。あーし猫は好きだって言ったよね?」
胡桃沢が女の栗色の髪を掴んで引き寄せる。女の顔が苦悶に歪み、ボクを抱きかかえていた手が崩れ、半分放り投げられながらボクは地面に着地する。
「それに、アンタの事も大好きだって……さ!」
言い切りと同時に女の髪を自分の方にぐいと引っ張り、鳩尾に思いっきり膝を入れる。一瞬の喧嘩殺法。ただのOLがよけれる物じゃない。
「グェ! おブッ……グッ……うえぇぇ……」
「ギャハハ! ちょっと! お前吐いてんじゃん! きったねー! 動画撮ろ!」
場違いなほど明るいピコンッ♪という音を響かせ、ポケットから取り出した画面バキバキのスマホで撮影を始める胡桃沢。
「ほらほら、昔思い出してー。この後何されるか分かってるでしょー」
女は黙って胡桃沢に、恨めし気な、それでいて哀願をするような目を向けた。
「そんな目すると私達もっといじめたくなっちゃう~とか言ってたよなぁ。マジでありがと」
胡桃沢は女の頭を押さえつけると、床の吐瀉物に力任せに叩きつけた。鼻から鮮血。見てられない。
「えーとなんだっけ。あ、そうだ。『お前はモップなんだから全部舐めて綺麗にしろよ』だ。頑張れよー、頑張らないともっと酷いからな~」
そう言うとはいつくばって必死に舌を出す女をしり目に、冷蔵庫から缶チューハイを三本取り出すと寝室へと消えていった。ついでとばかりに大きな足でリビングの壁を蹴りぬいて大穴をあけてから。
ボクが部屋に入って約五分。胡桃沢の暴力の嵐は女と、この部屋の敷金を吹き飛ばしてひとまず落ち着いたようだった。
*
全く落ち着いてはいなかった。それを今、ボクは寝室のドアの前で痛感している。猫には絶対に届かない鍵のかかったドアノブ。人型に変化すればあるいはという距離であるが一日がかりのお出かけで妖力は全く残っていない。一晩しっかり休めば妖力は回復するが、裏を返せば今は何もできないという事でしかなかった。
ドアの向こうからは乱暴に女をなじる胡桃沢の心底楽しそうな怒号と、湿度高めの、肉と肉をぶつけ合う嫌な音。先程まで主旋律を奏でていた女の悲鳴と拒絶する言葉は、少し前からすすり泣きながら許しを請う声に変っていた。
ボクはクズだから……こんなもの子守歌代わりに爆睡できなけりゃいけない。そうでなきゃ、これから先、生きてなんか行けない。ボクはクズだから……。だけど何度その言葉を頭の中で繰り返そうと、ぐるぐる回るだけで、石みたいに固くなった四本の足と胸を覆いつくす気持ち悪さの前では役立たずでしかなかった。
人を傷つけ楽しんでしまったクズとその復讐するクズ、そして傍観するだけのクズ。今この部屋にはクズしかいない。クズが織りなす悲しいほど淫猥で、喜劇的で、狂気じみたセッションは深夜にまで及んだ。もちろん傍観するだけのクズはまんじりともせず、ドアの前から動けずにいたことは言うまでもない。
*
深夜三時過ぎ、明け方も近くなろうかという時間になって、寝室のドアは開いた。現れたのは乱れた衣服と、焦点の定まらない目をしたボロボロの女。目の前にいるボクにも気づかずにふらふらとリビングのソファへと向かうとあお向けに倒れ込んだ。その時になってようやくボクの足は石では無かったことを思い出し、倒れた女の元へ向かう。
「にゃあ」
「く……ろ……まる……?」
胸の上に乗ったボクをようやく見止める女。するといきなり、がしっとボクを抱きかかえた。
「う……う……うううううぅぅぅぅ!! ヴゥゥゥー! うううぅ! ううう!」
魂からの慟哭。ボクの体に顔を押し付けて声を殺しているのは胡桃沢を起こさないためか。そのみじめな姿のせいでより一層悲壮に聞こえる。
乱れた衣服の端々からは、胡桃沢が付けた歯型や、爪痕のせいで赤くなり、血がにじんだ痛々しい肌が見える。奇しくも女はボクが持つのとまったく同じ武器、爪と、牙と、クズによって傷つけられたんだ。でもボクはクズだからこんな姿を見たって心は動かない。動かない……ああもうやめだ。もうクズじゃなくていい。ボクの家出は大失敗でもいい。クズに戻れなくなって、ゆくゆくは野垂れ死んでもいい。胡桃沢が許せない。あんな奴と同じ武器を頼りに生きていくなんてまっぴらごめんだ。そして何より、この女を助けてやりたい。ボクは初めて自分の心に正直になった気がした。
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