第二十四話 高い飯は脳で食う

 ――半日後

「はひっはひっ……もう無理でしゅ。足が痛いし、お腹もすいた……」


 時刻は夕方から夜に変わる時間帯。初夏の殺人的な陽気に丸一日晒されたボクはもう死にかけていた。


「何が悲しくてこんなつらい目に……ウプッ……」


 普段の不健康で怠惰な生活のツケがたたったのか道の隅に少し戻してしまう。喉がひりついて涙がにじむ。もう限界だ。


「か、帰ろう……クーラーが効いていて黙ってれば飯とレッドブルが出てくるあの家へ。なんでしゅか七生しゃん。自分探しィ? 見つけた見つけた。調布駅前に落ちてましゅた。探しものなんか普段の生活圏内で見つかるに決まってるんでしゅ。旅とか意味わかんないじゃないでしゅか」


 頭に霞がかかったような感覚。正直口は動いているが何を言っているかもう自分でもはっきりとしない。まずい、これじゃあ家までの距離を歩いて帰れる気もしない、絶対に途中で死んでしまう。何か方法は……。


「そうだ! 亜希しゃん! 仕事行くって言ってましゅた。幸い職場の図書館はすぐ近く! 絶対に喫煙所で一服してから帰るはず! そこを突撃してバイクに乗せて帰ってもらえばいいんでしゅ!」


 ボクは震える足を引きずり何とかその喫煙所を目指して歩き始めた。ちなみに駅から例の喫煙所までは約五百メートル。生きるか死ぬか五分五分の距離だった。


 *


「つ、着いた……って亜希しゃんいないし!」


 這う這うの体でたどり着いた喫煙所には人っ子一人いなかった。力尽きてその場に倒れ伏すボク。なんでいないんだ……この時間……絶対亜希はここにいるはずなのに……。ぜえぜえと肺に引っかかったような息が舌がだらりと垂れた口から飛んでいく。もうどうにでもなぁれ。

 そう思った瞬間、ボクの体がひょいっと持ち上げられた。


「あー! 猫ちゃん! かわいいでちゅねぇ! どちたの? どちたの?」


 かすむ目をこすってボクを抱き上げた人間を見る。ガーリーな服装とあまり高くない身長、髪は茶色のショート、軽くパーマがかかっていてなんだか優し気な人に見えた。


「随分疲れ果てちゃってまぁー。可哀そうねぇ……おなかすきまちたか?」


(も、もう限界でしゅ。この人間なら優しくしてくれる……気がする。この喫煙所に来るって事は公務員だろうし)


 そう考えたボクはその女の人の腕の中で一言「にゃあ」と鳴いて意識を手放した。


 *


 爪が滑る十五畳のフローリングのリビング。デカいテレビに観葉植物。ローテーブルに足つきソファ。目を覚ましたボクの目に飛び込んできたのはこんな感じのザ・金持ちハイセンスマンションだった。


(な、なんでしゅかこれ……昼のワイドショーに映されては亜希がケツを掻きながら文句をいうタイプの物件じゃないでしゅか……)


「あ、猫ちゃん起きたー? ほんとに疲れてたんだねぇ。お風呂入れてる間一回も起きなかったもんねぇ」


 この体を包む甘ったるい匂いとやけに艶が出た毛並みはそう言う事か。


「お医者さんにも見てもらったけど特に異常はないみたいで本当によかったぁ。あ、お腹空いてるんだよね? ご飯にしましょうねぇ」


 そう言って女は英語で何か書いてある高そうな缶詰を気前良く開ける。あ、ああ……早くそいつを寄越せ!


「ちょーっとまってねぇ」


 二本足で前のめりになって爪を立てるボクを軽くいなして女は缶詰の中身をこれまた高そうな皿に開ける。ああ、そんなことしなくても缶からそのまま行くのに! 気取るなメスブタ!


「ふんふーん」


 内心罵倒されていることなど露しらず女は鼻歌を歌いながら冷蔵庫を開けるとパックに入った何かを皿にもったキャットフードに混ぜ始めた。あ、あ、あれは……マグロのぶつ切り! 嘘だろ⁉ ボク今からあれ食べて良いの⁉


「はーい、おまたせ。どうぞ」


 地面に置かれた皿にボクは一心不乱に顔を突っ込む。丸一日何も食べずに調布を彷徨っていたからか、こんな高いものを今まで食ったことが無かったからか、ボクの舌はその役割を果たさず、ただただ脳みそが幸せだという情報を身体中に発信し続けていた。初めて知った。高い飯は脳で食うんだぁ。


 *


 三日が経った。部屋には全自動水飲み器と餌やり器、全自動トイレ(汚物が自動で消える!)そしてふかふかで丈夫なキャットタワーが備え付けられ、現在ボクはその最上段で仕事に行った女の帰りを待っている。そう言うとなんだかボクが殊勝な猫みたいだけど何のことはない。女が返ってくればまたあの豪華な餌にありつけると言うだけ。ボクの心は100対0で餌を待っていた。

 日がな一日、空調の聞いたこの部屋でテレビを眺めつつ、ぼーっとしている。

 いやはや、最高だね。いや、最高なのはこの生活環境がじゃない。これだけのものを与えられていながらボクはあの女に一欠けらの感謝だの、愛情だの、執着を持っていないという事が最高なんだ。現に一緒に暮らすようになってもう三日、ボクはあの女の名前すら覚えていない。これこそボクが求めていたクズメンタルの復活だ


「もし仮に今晩、強盗が押し入ってあの女が殺されたとしてもボクはなぁんにも感じずに、次の寄生先を探しに出かけるだけでしゅ」


 今までそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていける。亜希や七生には、少し愛着がわきすぎた。今度は間違えないようにしよう。そんなことを考えて、ボクはとろんとしたまどろみの中へ意識を投げ出した。


 *


「ただいまー! 黒丸っ! 元気にしてたー?」


 午後六時半、この部屋の主が帰宅早々大きな声を出す。黒丸。何ともまぁ気の抜けた名前。まるでわいせつ物を隠すときのモザイクじゃないか。そんな不満を込めて「にゃあ」と鳴く。


「はいはーい。ご飯ね。ちょっと待っててねー」


 ここ数日で分かった事が二つある。この女は結構な金持ちだ。女の一人暮らしの比較対象が亜希しかいないのがいささか心もとないが、少なくとも亜希よりは数段上だ。

 その証拠に初日に出てきたマグロのぶつが入った豪勢飯が毎食出てきている。猫の餌に毎食千円弱を余分に支出することに何の抵抗もない程度には金に余裕がある事の証明だ。


「よしよし、美味しいかぁーくろまるー。ねぇ聞いてよー」


 二つ目はこの女の恋路についてだ。もうこの三日間隙あらばずーっと片恋相手の事を話しかけてくる。


「今日はねぇ、最初結構いい感じだったの! 喫煙所で二人になってさぁ。楽しくおしゃべりして。向こうも割と満更じゃないって感じで! だから軽くカマかけてみたんだけどさぁ……」


 まぁ食わせてもらっている礼としてこの手の寂しい独身OLの話し相手になってやることはやぶさかではないが。話を聞く限り、この女の恋路は険しいだろうなというのがボクの感想だ。理由は簡単。


「やっぱり駄目だった。自分にそっちのケは無いって一蹴されちゃった」


 この女がレズビアンだからだ。


「はぁ……顔がよくて性格もいい、高身長美人! もうぞっこんなんだけど! でもずっと友達止まりなのはやっぱ堪えるよなぁ……まだ携帯の番号すら教えてもらってないし! どう思う? 黒丸ぅ」


 ボクは特に何も思わない。いばらの道を勝手にどうぞという気持ちを込めて「にゃあ」。


「努力ぅ? わたしなりに努力はしてるよぉ。素の私じゃあ好きになってもらえなさそうだから、ギャルっぽくしてみたりとかさ。ねえ黒丸ぅ、この恋実るかなぁ」


 結局この女はボクを使って寂しさや不安を紛らわせているだけなのだ。僕がどう思っていようと関係ない。まさに愛玩動物だ。そんな皮肉を込めて「にゃあ」。


「そうかそうかぁ。黒丸はいい子だなぁ!」


 女はボクをワシワシとなでつけ、ついでに思いっきり抱きしめる。苦しい。


「うりうりうり、黒丸ぅ。黒丸ぅ。もふもふぅ。んー猫吸い気持ちいい!」


 ボクの体を好き放題に扱う女。憂鬱なのは今日が金曜日だという事。明日からこの家に来て初めての土日だ。平日ですらこの有様。一日中一緒に居たら最早何をされるかわからない。最悪バター犬ならぬバター猫扱いされてもおかしくない。ボク女なのに! そう言う意味の猫じゃないのに!


「黒丸、可愛いなぁ。大好き! 私のところに来てくれてありがとね!」


 とてもいい笑顔、ボクはありったけの憂鬱を肺に込めて一言「にゃあ」。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る