第十八話 カッターナイフ
「すまんの。ここは冷えるでな」
「いえ、私こそさっきは取り乱してすいませんでした」
「気にするな。ほれ、タオルじゃ。後でシャワーも貸してやるでの」
どうにかこのみを落ち着かせ、儂は表に停めてあったイナズマをガレージへと運び込んだ。
「そして問題のイナズマじゃが……めくるぞ」
車体を隠す様にかけてあったカッパに手をかける。嫌な予感がする。
「こ、これは……」
「……グスッ」
つい一週間前、うちの店から走り去っていった車体とは到底信じられない有様じゃった。タンクはボコボコ、車体には大きな傷。ミラーは半分折れ、カズノブが丹念に調整したシートは見るも無残に切り裂かれておった。しかしそんな惨状より心をえぐるものがあった。
真っ白なバイクに所狭しと書かれた侮蔑と軽蔑の落書きの数々。女子高生らしい丸文字で、筆箱にあるようなサインペンで、ベタベタと悪口が書き記されておった。
死ね、陰キャ女。親父もキモい。イキるなカス←むしろ生きるな←上手い事言った! あたちバイク乗ったら強くなったでちゅ(笑)。パパに作ってもらいまちた(笑)ブス、デブ。死ね、死ね、死ね。学校くんな。
おぞましい。悪意でバイクがコーティングされているように儂には見えた。それにカズノブを揶揄するような書き込みも多々、儂は整備の日々を思い出してかぁっっと頭に血が上るのを何とか抑えながら、このみから話を聞いた。
*
新学期、バイク通学を始めたところ、数日はいじめっ子たちが手を出すことはなかった。しかしやはり面白くなかったのじゃろう、今日、帰宅しようとしたところを駐輪場で待ち構えられ、殴られ、蹴られ、そしてバイクを滅茶苦茶にされた。さらには儂のYouTubeまで見つけていたらしく父親の事を汚い言葉でなじられたと。
「私このバイク、どうしてもお父さんに見てほしくない。絶対にショックを受けるから」
「確かにの、学校に乗り込みかねん」
「ううん、お父さん、そんなに強い人じゃない……きっとお母さんが死んだ時みたいにふさぎ込んじゃう。だから七生さん。お父さんに見られる前にこのバイク元の状態に修理してください」
「ああ、是非もない。しかしお主は……お主は大丈夫なのかえ?」
「私は……」
そこでこのみはふっと不安げな表情を見せたが、気丈にもすぐに笑って言った。
「私は大丈夫です。相変わらず七生さん優しいですね」
*
「制服は乾燥機にかけたから少し待て、それから帰りじゃが、儂が車で送ろう」
「ああー、ありがとうございます」
「シャワーを浴びたら修理期間の相談くらいはするが大したことは無い。ゆっくりと湯に浸かれ」
店の奥の住居スペースの一角。建てる時に迷ったが風呂場をつけておいて本当に良かったと今、思う。
「はーい! ありがとうございます!」
すりガラス越しに聞こえてくる声は存外元気で儂はほっと胸をなでおろした。
「いやぁ、七生さん本当に優しいですね。ありがとうございます。だからって私の裸覗かないで下さいよ」
「当たり前じゃ」
「あはは、あーあ七生さんがお母さんだったらよかったのに」
「なんじゃそれは。そうなると儂の旦那はカズノブか? ぞっとする話ではないか」
「あはは、でも本当に今までありがとうございました。私、七生さんの事大好きです」
「どうした急に」
「それにお父さんの事も大好き。男手一つで私を何不自由なく育ててくれてバイクも買ってくれて」
「このみ? 大丈夫か?」
「この前のツーリングも本当に楽しかった! SAで食べたご飯も全部美味しくて! 人生で一番楽しかったなぁ」
何かがおかしい。そもそもさっきの気丈な笑顔からしておかしいんじゃ。今、こんなに明るく振舞えるはずが無かろう!
「だからお父さんに伝えてください。愛してます本当にありがとうって」
「お主一体何を言っておる!」
勢いよく風呂場のドアを開ける。そこには浴槽に半身をつけたまま、大柄なカッターナイフの刃を手首に深く食い込ませ、今にも引き切ろうとしておるこのみがおった。
「こ、このみ?」
「な、七生さん……? あれ? ドアは開けないって……」
「あ、あんな様子のおかしい事を言っていれば誰でも開けるじゃろ……」
「あ、ああそっか。でも私もう死ぬからせめてお父さんと七生さんには感謝を伝えようと思って……」
「そうか、り、律義じゃな。そ、それはともかくそのカッターナイフを一旦置くのじゃ」
「カッター……ナイフ? あ、そうだ私死にたくて……そうだあんな学校……行くくらいなら……早く死ななきゃ……」
不味い、地雷を踏んだ。儂の突入でテンパっていたこのみの目が再び自殺を見据えてしもうた。慌てて近づくがもうこのみはカッターナイフを持った片手を勢いよく引くだけ。間に合わぬ。押し込んだカッターの刃先から流れる血が見えた。
ええいままよ! 儂は相変わらずの情けないボンという音を立てて変化を解き、尻尾を一本、全速力で伸ばし、このみを突き飛ばし、カッターナイフを弾き飛ばした。ざくりという感触で儂の尻尾に大きな傷が入ったのが分かるが今はこのみじゃ。ギリギリの精神じゃったんじゃろう、尻尾に突き飛ばされた衝撃で意識を失い、湯船に沈んでいくこのみを抱きかかえる。その手首には一筋、赤い傷跡が走っておった。
「まったく儂は……儂という奴は……一体何をやっておるんじゃ!」
行き場の無い悔しさと怒りが、涙となってこぼれた。
*
「よいか、絶対に目を離してはならぬぞ! 絶対じゃ!」
儂はその後カズノブの仕事が終わるまでこのみを仙術を使って寝かせ、呼びつけたカズノブに全てを話した。そして家まであやつの車で送るように頼んだ。
「分かりました。七生さん。すいませんうちの娘が……」
「いや、謝るのは儂じゃ。儂がしっかりしていなかったせいで……」
「とにかく、今日はこのみとよく喋ってみようと思います。ありがとうございました」
そういってカズノブはあのクジラクラウンに乗ってこのみを連れて出て行った。数週間前に見送った時とはえらい違いじゃと、儂はそんな皮肉を噛み締めながら店外にある灰皿で一息、煙草に火を点けた。
――『そうやって全部分かった様な振りしてると、そのうち痛い目見るわよ』
全く持ってその通りじゃ。バイクなんぞでこのみを救えると考え、レストア動画なんぞを上げていじめっ子たちに口実まで作り、意外と元気そうだなどという見当違いでギリギリの精神状態じゃったこのみを一人にした。さっきのカッターナイフだって儂のガレージに転がっておったものじゃ。
自分の甘さに反吐が出る。その結果が手首の消えない傷跡じゃ。
畜生、ああ畜生。儂はなぜ学校指導員でもここは家庭相談所でも駆け込み寺でもなくただの中古バイク屋なんじゃ! 目の前で絶対に守りたい家族が不条理にも酷い攻撃を受けておるというのに、何一つできないではないか。
「なーんか大変そうでしゅね」
ぐつぐつに煮える儂の脳みそに背後から苛立つ声が突き刺さった。ああ腹の立つ、儂と亜希の仲を引き裂こうとしておるクソ猫の声じゃった。
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