第8話
わたしが持つグラスを、エイダが手際よく取り上げ、軽く背を押す。
エイダは小声で「緊急事態なんだから、いまは退避」と告げる。
ここで表情豊かな令嬢なら嬉しそうに笑顔で伯爵の手を取るだろう。
もしくは困惑と躊躇いを覗かせるところだ。
なのにわたしときたら「緊急事態退避!」だよ。
久々の夜会で――これまでなかったイケメンからのダンスの申し入れに、ドキドキやキュンキュンやㇳゥンクとか、そんな気持ちがあってもいいのに、それを感じるヒマがないとはどういうことだ!
こっちにくる元婚約者が一体わたしに何の用なのか、絶対いやな予感しかない!
もちろん、元婚約者に対して、ドキドキやキュンキュンやトゥンクとか、まったくない。
気分は沈む船から救命ボートに乗り移る乗客の気持ちだ。
溺れる者は藁をも掴む。
せめてそう見えないように子爵家当主然とした態度で、伯爵様の手を取った。
そんな覚悟のわたしとは違い、伯爵様は優雅な笑顔を浮かべて、ワルツの輪にいざなう。
ふぁー場慣れしてるなー。
わたしの手を取って、ホールドに入る流れに淀みがない。
よかった……ジェシカのダンスの練習に付き合っておいて。
これでダンス踊れなかったら、逃げられなかったところだよ!
わたしをワルツに連れ出した伯爵様は、愉快そうな表情だ。
「私の方が早かったね」
視線を元婚約者に向けて、伯爵様はそう言った。
ターンをしてわたしの視界に元婚約者が入るように向ける。
さすがにここ数年、ご令嬢方の人気上位の伯爵様と踊り出した私を見て、元婚約者は舌打ちをしそうな表情で踵を返したところだった。
助かったー。
まるでテリトリー争いに負けた犬がしっぽを巻いて逃げる様を連想させる。
相手がこの人物ならばそれも仕方がないか。
犬が格上のオオカミ――いや、獅子に勝てるわけがない。
高位貴族の気品と優雅さの中に見え隠れする覇気は、彼が軍に在籍しているからだろう。
ダンスに興じる優男に見せておいて、絶対この人、物理的に強いわ。
「もし、恋人か何かだったら悪いコトをしたかな?」
「いいえ。助けていただき、ありがとうございます。ロックウェル伯爵」
わたしの言葉を聞いた彼は、器用にそして上品に、片眉だけをあげた。
こういうかっこいい仕草は前世の洋画で見たことあるよ!
わたしと違って表情が豊かな人だな。
これは令嬢達も夢中になりますわ。
「名乗ったかな? 私は」
「ワルツを誘う時に、決まった言葉を仰ることで有名です」
「はは、そうか。では改めて、挨拶を。ヴィンセント・ロックウェルだ」
「グレース・ウィルコックスと申します」
この会場に出席している令嬢達が、誰もが一度は口にしているだろう名前を彼は名乗り、綺麗な深く紫の瞳を細めて笑う。
これは確かに若い女の子が騒ぐのも無理はないわ。
不覚にも一瞬ドキリとしちゃったよ。
でも、クールビューティー系の顔がここでも役に立った。
よし、このまま滅しろ、表情筋。
子爵家当主とはいえ、やはり女だ、顔が良くて爵位のある男に弱いとか、そんな噂を流されてしまったら、数多の貴族令嬢から突き上げをくらってしまう!
噂の伯爵とのワルツで浮足立っているという見方は避けたい。
本当はわたしだって、遠くから眺めて「キャー素敵ー!」とかはしゃいでみたい!
しかし立場がそれを許さない。
若い女(?)とはいえ子爵家当主だ。
わたしの領地――わたしが学生時代から手掛け市場を独占しているプチアラクネと魔羊毛そしてホーンラビットの毛皮は、お嬢様たちのファッションを彩る素材なのだ。
あの女が手掛けた素材なんて嫌! とか思われたくない!!
それとなく視線を配って、ジェシカ達を探さないと!
「探しているのはあの二人かな?」
伯爵様が視線を向けた先にいるのはジェシカとパーシバルだった。
二人はワルツを踊りながら、わたしの方に視線を向けている。
そこにいたか! よかった! この曲終わったら合流するわよ!
「はい。実は探しておりました。あの二人は私の妹と、妹の婚約者です」
「妹さんとその婚約者……なるほど……ウィルコックスは――……アカデミーの方にもいたな。女性ながらも、非常に優秀な魔導士だ」
「はい、姉が在籍しています。アビゲイル・ウィルコックスは私達姉妹の誇りです」
「なるほど。先日、ウィルコックス魔導伯爵と偶然お会いしたが、あまり似ておられない。だが、一つ共通するところがある」
共通……うちの姉妹に共通点などあっただろうか。
顔立ちも雰囲気もそれぞれ異なる。
パトリシアお姉様は貴族の令嬢らしく、華やかさがあり社交も上手い。
アビゲイルお姉様は、まあチートですよね。
そして末っ子のジェシカは幼さが抜けきらないがその無邪気さが愛らしい。
髪の色も4人とも異なるし、瞳の色も僅かに違う。共通点があるようには思えない。
「仲がとてもいい」
そうだよ! 仲良し四姉妹ですよ!
ていうか、アビゲイルお姉様もすみにおけないなー。
この伯爵様と知己だとは。
やっぱり魔導伯爵って伊達じゃないのね。
王都の高位貴族に名前を覚えてもらえているとか。
魔法使いはこの国では希少だから。
もしかして伯爵様はアビゲイルお姉様の事……やだ、絵になる! 絵になるよ! ちょっと迫力美人が二人並ぶ感じを想像したわ。いい! すごくいい!
一曲終わるまで、顔は表情を変えずに、脳内ではお姉様と伯爵様のツーショットを思い浮かべてニヤニヤしてしまった。
よし、そろそろ曲も終わるね。
さ、カーテシーをし、妹達の方へ合流しよう――そう思ったら、伯爵様から握手を求めるように手を差し伸べられたので、「噂の伯爵様と踊れて光栄だった」という意味で求めた手を取った瞬間――……。
「はい⁉」
二曲目の前奏が開始されてそのまま手をグリップされ、ホールドされた。
「は、伯爵様⁉」
「ヴィンセントと呼んでくれ」
驚き動揺しているのに、表情にでない自分、あっぱれ。よかったよ。この顔面で。
伯爵様……これにはちょっと動揺しているんですが。
なんでもないような表情作ってますけれど、これ、生まれ変わった時の顔面効果なだけですからね!
そんな心の声なんか、多分聞こえてない。
うん知ってた。
伯爵様はそのままステップを踏み出した。
「まあまあ、こうでもしないと、私が煩わしい思いをするので、今度は私を助けると思って付き合ってほしい」
「煩わしい――……ですか?」
「このあと、あの三文芝居みたいなセリフを期待する令嬢達をやり過ごしたい」
ご本人にも自覚あったのかあのセリフ。三文芝居に出てくるセリフっぽいって。
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