くちなしの姫君と銀白の龍その一
時は平安。夜の闇のなか、今様(いまよう)を歌う少女の声が聞こえる。
「春のやよいの あけぼのに 四方(よも)の山べを 見わたせば 花盛りかも しら雲の かからぬ峰こそ なかりけれ……」
その歌声は鈴を鳴らしたようで、庭の草木も静まりかえって耳を澄ませているようだ。
「花たちばなも 匂うなり 軒のあやめも 薫るなり 夕暮さまの さみだれに 山ほととぎす 名乗るなり……」
歌と共に、少女から芳しい香りがのぼる。屋敷の寝所が百花繚乱の花畑に変わるかと思われるほどに。
「秋の初めに なりぬれば ことしも半ばは 過ぎにけり わがよ更けゆく 月影の かたぶく見るこそ あわれなれ……」
少女の声に、切々とした響きが混ざる。それに呼応して庭の篝火が細くなってゆく。
「冬の夜寒の 朝ぼらけ ちぎりし山路は 雪ふかし 心のあとは つかねども 思いやるこそ あわれなれ……」
少女の顔に、憂いが浮かぶ。聞き入っていた庭の草木が、あやしくざわめき始める。
「長生殿の うちにこそ ちとせの春あき とゝめたれ ふうもんおしたて つれば としはゆけとも おひもせず……」
歌い終えると、少女は深く息をついた。庭では篝火が消え、真の闇が訪れる。
少女は左大臣家の大君だった。歳は十四、咲き誇る桜のように美しく儚げな容貌をしている。
「……私が大君でなければ……」
少女──姫君がぽつりと呟く。姫君は裳着を済ませた後、十八歳の帝がおわします後宮に入内することが決まっていた。妹もいるが、二の君は九歳、三の君は六歳だった。
これが自分の宿命だと思えば、諦めるしかない。生まれは選べない。
しかし、後宮では既にあまたの女御更衣がひしめきあって帝の寵愛を競っているという。それが、姫君の心に影を落としていた。
「……ただ一人……一人だけを互いに想いあえるのなら……」
姫君が溜め息をつく。寝静まった屋敷に、庭の草木が騒ぐ音が次第に大きくなってきた。今日は一日天気に恵まれ、今も月明かりが煌々としている。
「……嵐……ではないわね……」
それにしても不思議だ。庭がこれほど音を立てているのに、女房達の誰もが目を醒まさない。
姫君は不安になり、寝所からそっと抜け出した。御簾をくぐり、渡殿に立つ。満月がおぼろに照らす庭の花は幻想的に映えながら、風もないのに打ち震えていた。
「どうして……嵐でもないのに……」
早く几帳の奥に戻らなければ、はしたないと叱られてしまう。けれど、次の瞬間に庭の草木を騒がせる源が出現して、姫君は息を呑んだ。
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