第二章四
*
姫君は中宮となり、住まう殿舎は最も格の高い弘徽殿に移った。
今は産褥の退出を目前にして、主上が足繁く弘徽殿にお渡りになっている。政をおろそかにしかねない頻度で通い、なかには国を傾けた昔の美姫になぞらえて眉をひそめるものもあったが、相手は栄華を極める太政大臣の大君であり中宮だ。表立っては誰一人として文句のつけようがなかった。
姫君は全ての女の頂点にいながら、滅多に笑みを見せなかった。しかし、周囲はそれを都合よく中宮としての風格だと囃し立てた。
姫君の心は塞ぎ込むばかりだった。胎内で赤子がうごめくようになってからは、自分の体が別個の人格に侵される恐怖を感じだした。
──この身を糧に、赤子は育ってゆく。
それは、自分というものが喰らわれてゆくことかと思われた。胎児は姫君の養分を吸いとって成長する。心まで吸い尽くすかの勢いに姫君は怯えた。
けれど、赤子がそうして育つのを周りは微笑ましく見ているのだ。姫君はさながら異形に囲まれているようなものだった。
「おお、今動いた。まろを分かっているとみえる」
ある日のこと、主上が姫君の大きくなった腹に耳をあてて声を弾ませる。女房達は揃って笑みをこぼした。
「きっと主上によく似られた利発なお子様なのでございましょうね」
「早く顔が見たいものだ。玉のような子だろう。男子だらば、まろも安心できるのだが」
「まあ……主上はまだお若くあらせられますわ」
「はは、世継ぎはやはり欲しいものだよ」
女房達と和やかに談笑している主上に、姫君が控え目に声をかけた。
「主上……」
「どうした?」
「申し訳ございませぬ……苦しくて……」
「それはいけない。まろは政に戻ろう。そなたは休むといい」
「はい……お心遣いをありがとうございます……」
心にもないことを口にしながら、姫君は苛立ちを隠して頭を垂れた。
腹が重く、座っていなければならないのが辛かった。それを思いやることもなく主上が幸せそうに笑っているのを見ていると、憎しみはいやまさる。
「……清様、横におなりくださいませ」
重い体を引きずるようにして几帳の奥に戻ると、夏木がそっと促した。その声は女童の頃より落ち着きが出て、柔らかく、もの静かになっていた。二人きりのときだけの特別な声。
「夏木、お前は変わったわ……けれどお前の声を聞くと心がやわらぐのは変わらない」
「嬉しゅうございます……私の心が変わらないからでございましょう」
「私の心は弱く変わったわ……今はお前に頼る気持ちばかりね」
「今はお辛いときでございます。どうぞお頼りになってくださいませ」
皮肉気に口許だけで笑う姫君の自嘲へ向けて、夏木は真心を籠めて応えた。姫君に頼られること、姫君が頼りにできるのが自分だけだということは夏木の強い芯になっていた。
進んで女房達と話すようになった今でも、姫君が夏木を特別扱いすることを妬んで嫌味を言うものはいる。
夏木は、それは構わないが、そのことには一応留意している。大事なのは姫君の傍にいられることだ。だからこそ注意をはらいながら、つまらない女房達とうち語らい、ときには笑いあい、協調する術を身につけた。突出しすぎてはいけない。特にこの後宮では。
女房は飾りであり、潤滑剤だ。殿舎を華やかにし、主と主上の仲がより良くなるように働く。それができない女房は不要だ。
夏木はもう、人の申し付けることに従うだけの女童ではない。中宮の女房の一人として立ち振る舞う。「このようなものが中宮様のお傍近くに」と後ろ指をさされないために、常に考えている。
「……夏木……」
苦しげに息をつきながら横向きに寝た姫君が声をかけてくる。
姫君は後宮に上がってから明らかに弱った。
思い通りにできないなかで自我を保つことの難しさに疲れている。言い寄る全ての男達を黙殺してきたものが、主上という男の心に仕える。姫君に夢中になって更に更にと求めるばかりの主上を目の当たりにして、主上とて生身の男にすぎないと思い知らされた。
「はい……清様」
「足を揉んで……何やら、怠いわ」
「はい……後で薬湯ももたせましょう」
いざり寄って、姫君の細い足を揉む。入内前より痩せた足に、夏木はいたわしく思った。
「お加減はいかがでしょうか?」
「いいわ……ねえ、夏木」
「はい……」
「お前の手を見せて」
「……清様?」
夏木は足を揉む手を止めて姫君を見た。姫君は肘をついて半身を起こす。
言われるまま夏木が手を差し出すと、姫君は宝物を捧げ持つ仕草を感じさせる所作で夏木の手をとり、じっと見つめた。
「……綺麗な手ね……」
姫君の指が夏木の手をなぞる。指先のところでとまった。
「もう、爛れてはいない……痛くはない?」
「清様……!」
夏木が目を見張る。姫君は唇を寄せて夏木の指先に口づけた。
「痛く……ございません。どこも……」
震えそうな声を押し出す。すると、姫君が「よかった……」と、とろけるように安らいだ笑みを浮かべた。
その笑みを受けて、夏木は初めて感じる思いに満たされた。嬉しいのに泣きたくなる。嬉しいはずなのに、胸が切なく痛む。
「夏木、今日はこのまま一緒にすごしましょう?」
「はい……はい、清様」
夏木の答える声が詰まる。姫君は片手を離して夏木の頬にあてた。
「……泣いているの?」
姫君が、夏木の流せずにいる涙の跡を確かめる。かつて産毛立っていた頬は手入れが行き届き、毒の影響は及んでいない。
「いいえ……ただ、私はどれだけ幸せかと……」
「幸せ?」
「はい……清様が笑みを見せてくださる……こうしてお触れになってくださる……幸せなのです」
夏木が、あるだけの想いを言葉にすると、姫君は笑みを深めて目を細め、小さく笑い声をもらした。その澄んだ声は、もうずっと聞くことができずにいたものだった。
「お前が……お前だけが愛おしいからよ。何度も言ってきたでしょう?」
「はい、私も……清様だけでございます……私が想うのは清様のことだけでございます」
「ええ、分かっているわ……」
今にも泣きだしそうな夏木を見つめながら、姫君は夏木の奥深くに流れているであろう涙に倦んだ気持ちを洗われる心地になった。
それは何よりも清らかで尊いものだ。
赤子に吸い尽くされて渇れそうな姫君の心に、希望の潤いが宿った。
*
季節は冬に入り、神無月のはじめに、姫君は出産のため後宮から退出することとなった。
主上から輦車の宣旨を受ける。身重の姫君は起きていることさえ辛そうにしている。
主上はしばしの別れを惜しみ、弘徽殿にお渡りになって姫君の肩を抱いている。
「気を確かに持ちなさい。そなたならば無事に産める」
「……はい……」
姫君があるかなきかの声で返事をする。そのさまは今にも消え入りそうで、主上はたまらぬ思いをあらわにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます