第二章三

 惑乱する姫君を前に、夏木は主上への、胸が煮えるような激しい嫉妬と憤りを感じながら、何とか冷静さを保った。

 いつかは訪れる事態だと分かっていた。主上のご寵愛を思えば遅かったくらいだ。

「清様……今はお堪えになるときでございます。お子は父君の大臣にとって、かけがえのない宝となりましょう」

「夏木……」

「あと数年ご辛抱くださいませ……まだ早い……」

 あと数年。生むことになる赤子が男子ならば世継ぎの皇子となる。姫君を中宮にと推す話も進んでいる。まもなく父の左大臣は太政大臣に昇るだろう。そして外戚として栄華を極める。それは姫君の立場に安定をもたらす。

「お前は父のために堪えろと……?」

「いいえ、清様のおためでございます」

 姫君の鬱屈した疑念を払うように夏木が否定する。姫君は今、泥沼の中から清水に焦がれる状態で夏木を求めている。その心情に気づかない夏木ではない。

「お忘れにならずに……私は清様のものでございます。私の考えることは全て、清様のおためにだけ……」

 夏木が隠し持つ毒で堕胎することは容易だが、姫君に傷がつく。〝毒殺されそうになった〟女御への主上のご寵愛は「哀れ」と深まるかもしれないが、万が一の危険がある。

 ここは赤子を生みおとし、順当に中宮への道を歩んでいた方がいい。赤子が男子ならば尚更いい。主上の代わりになる。

「今宵は私がお傍におりましょう……主上には風邪を患っているとお伝え申し上げて」

「夏木が……いてくれるの?」

 寄る辺ない童子のごとき眼差しが夏木に向けられる。それを、しっかりと受けとめて夏木が手を伸ばした。毒の扱いには気をつけているので、もう爛れてはいない。

 左手で姫君の背をさすり、右手をまだ平らな腹に優しく添えて。

「清様には私がおります。決して独りにはいたしません。今宵は夜伽を勤めましょう……私は離れません」

 姫君の目から、まさに清水のような涙が一筋流れた。

「そうね……私にはお前がいる……」

 姫君の声は、渇れた土に水がしみこむのを、発した本人が実感するものだった。

 敵しかいない後宮で、それでも生きていられるのは夏木が傍にいてくれるからだ。

「清様、横におなりあそばして……二人きりで、ゆるりと眠りましょう……清様がお眠りになるまで、私はこうして抱きしめております」

「ありがとう……夏木。私にはお前だけよ……」

 二人は抱きあいながら束の間の安らぎを得た。互いのぬくもりが灯火となって、先の見えない暗闇を照らす。

 まもなくして、姫君の懐妊が主上と左大臣家に知らされた。

 双方共に喜んだのは言うまでもない。男御子ならば間違いなく春宮の誕生だ。後宮では更衣が産んだ親王ならば存在したが、女御によるものはまだいない。

 左大臣家では、さっそく安産のための祈祷が始まった。

 そして、姫君は中宮になることが決定し、それに合わせて左大臣は太政大臣へと身を昇せた。

 姫君は主上にとって愛するに相応しい女だった。しかし、主上は身分で姫君を寵愛したのではなかった。

 姫君の性質からくる危うさを感じさせる美しさ、従順に身を任せながらも媚びない気高さに惹かれていた。

 危ういのも媚びないのも当然だ。姫君は女御や中宮の位など疎ましいとしか思っていない。心には夏木しかいない。男御子を産むことなど望んでいない。己が置かれた立場に、嫌々従っているだけだ。

 それに気づくよしもない主上は、我が子を身に宿した姫君を一層愛するようになった。

 姫君は悪阻がひどいため、夜の御殿には無理をさせないために呼び寄せることはせず、代わりに主上が麗景殿に通った。

「今日も主上が来たわ……気分がすぐれないというのに……」

 うっとうしさをあらわに姫君が呟く。傍らにある夏木は、「ご寵愛もほどほどにして頂かなくては……清様のお体にも障りますね」と同調した。

 懐妊を相談してから、堰を切ったように姫君は夏木に本音をもらしていた。夏木は姫君が主上を厭がる言葉を発するたびに胸がすく思いをした。

 それは後ろ暗い喜びだった。夏木の大きな瞳が、鋼の鈍くも鋭い光をおびる。いつか少将が握った刀に似ている。刃の背と切っ先が夏木のなかで一体となっている。

「……この腹のなかには主上の胤が宿っているのね。夜の御殿だけでも苦痛だったものを……」

 ──どこまで苦しめばいいのか。男達の思惑に耐え忍めばいいのか。

 姫君は歯噛みして口を噤んだ。夏木が察して姫君の手をそっと包む。

 このところずっと、夏木は入内前のように姫君のもとから離れずにいた。

 季節は巡り、春も終わりにさしかかっている。数日前、主上は姫君と春の庭を楽しみたがったが、体の具合がよくないからと断った。そうして、夏木との時間をもっている。

 夏木は気慰めにと姫君に様々な花を運んできてくれた。いつか二人で蜜を味わった紫の花も。几帳の奥深く、久方ぶりに夏木と顔を合わせて蜜を吸った。それは悪阻の苦しさに、一服の清涼剤となった。滋養に富んだ薬湯が染み入るときの安らぎをもたらした。

 同時に、もうあの頃には戻れないのだと悲しくもあった。今の自分はどうだろう、父の野望によって後宮へ貢がれ、主上の欲望によって体はままならないと姫君は痛感した。

「清様、私は分かっております……私にだけは、ありのままの清様でよろしいのです」

「夏木……」

 そうだ、夏木だけは全てを許してくれる。

「夏木、私は……私を苛むものの結晶である腹の子が憎い……」

「それでもよろしいのです。産んでさえしまえば……」

「けれど……産めば主上は母となった私に……」

 あるいは国母ともなりうる姫君を、より寵愛することになる。現状では悪阻を理由にしてある程度遠ざけていられるが、産褥が済めばまた夜の御殿に通う日々が待っている。

「清様……私が早く成長すれば……主上のお目にかなうほどに」

 けれど、と夏木は内心で付け加えた。まだ時は至っていない。今、主上を害するわけにはいかない。姫君が春宮となる子を産み、その子が帝として即位できるように育つまでは待たなければ。

「ねえ、夏木……私はいっそのこと、子を産んだら出家したい……」

 か細い声で姫君が言うと、夏木は姫君に吐息が触れそうなほど近くまでにじり寄った。

「いけません、清様。今しばらくお待ちを……そういたしましたら、私が主上を……」

 姫君が、はっと夏木を見つめる。そうだ、主上を斥けるために夏木は現在も毒の苦痛に耐えている。──何かの苦痛に耐えているのは姫君だけではない。夏木の顔色は最初のうちよりは良くなってきているが、ただの女童として仕えていたときには程遠い。

「……そうね、待つわ……」

 他に言えることはなかった。うつむいた姫君を夏木が両腕で包み込み、大きく頷く。

「いつの日にか……必ず私が清様をご自由にいたします。必ず……」

 繰り返される夏木の声は、姫君のために、どのような祈祷より心を平らげるものだった。だが、主上にとっては悪霊の呪詛だ。夏木は姫君が自由を取り戻すためになら何でもする。現に、している。

「さあ、清様……少しお休みあそばしてくださいませ」

「お前が添い臥ししてくれるの……?」

「はい、清様のお休みは私が必ずお守りいたします」

 姫君がほっと息をついて表情を緩める。無邪気に母を求める子の、受けとめてもらえたときの喜びに近い。

 二人は一つの衾に寄り添いながら横たわった。

 まぐわえなくとも、心は重なっていると二人は信じていた。



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