第二章五
「しかし、まろはもどかしい。そなたがこんなにも苦しんでいるというのに、宮中で待つことしかできない」
姫君は無言だった。腹の子が活発に動いて気をとられ、思考が乱れる。
「まろは離れがたい。心は常にそなたと共にある。そうであろう?」
反応を返さない姫君を主上が抱きしめる。産褥を間近に控えてなお、姫君からは特有の芳しい香りがした。
「この香りも、しばらくは聞けない……」
主上が名残を慕いながら体を離せずにいると、女房が申し訳なさそうに声をかけた。
「退出のお時間でございます……何とぞ」
「いや、あと少し……まろは心苦しい。これからは中宮一人で産褥に立ち向かわなくてはならぬ」
女房達が顔を見合わせて困惑する。夏木が、つと進み出た。
「ですが、太政大事のもとではすでに支度が整っております……中宮様もお苦しみになっておいでですが……中宮様のお気持ちをお信じあそばしてくださいませ。必ずや無事にご出産のことを成し遂げられますでしょう」
姫君が苦しんでいるのは、身重と主上の過剰な御寵のせいだ。だが、主上は夏木の皮肉に気づかずに渋々ながら体を離した。
心は常に共にある? 思い上がりもはなはだしい。夏木の胸に怒りがくすぶり、どす黒い煙が充満する。それは姫君も同じだった。
姫君にとっては夏木だけだ。夏木にとっても姫君だけだ。二人の絆に知らず割って入ろうとする主上の厚かましさが疎ましく腹立たしい。
だが、それは二人だけが共有する秘密だ。誰にも悟られてはならない。引き裂かれないためにも。主上の不興をかわないためにも。
何しろ、腹が大きくなるまで里下がりを許そうとしなかった主上のことだ。
安産祈祷の寺社への祈祷祈願は懐妊が分かってからすぐに太政大臣が執り行わせていたが、「初めての出産でございます。娘はまだ若く、大変な仕事になりましょうほどに」と何度も里下がりを申し出ていたものを主上は聞き入れず、執着をみせて傍に置きたがった。
しかし、神聖なる宮中で産褥が許されるわけがない。こればかりは主上のわがままも通らない。
姫君は主上の手から逃れ、輦車に乗って後宮をあとにした。
そして、長く帰ることのかなわなかった屋敷に、やっと里下がりすることができた。
屋敷の匂いや佇まいは変わっていなかった。姫君は懐かしさに気が緩むのを感じた。夏木と出逢った大切な場でもある。
「夏木、こうしていると昔に戻ったようね。私の体はこの有り様だけれど……」
「はい、清様と二人きり……」
望まない懐妊だったが、そのおかげで屋敷に里下がりをして几帳の奥深くで夏木とすごせる。後宮での忍耐から解放されて気持ちが楽になってゆくのを姫君は実感していた。
「もっと近くに……ここには誰もいないわ」
「はい……」
姫君が手招き、夏木は笑みをたたえて近寄った。衣擦れの音が秘やかに響く。姫君のえもいわれぬ香りに同調して、二人だけの世界を構築してゆく。
「これからは昼夜問わず一緒よ……いつ心が壊れるかと思ったわ……」
「よくご辛抱なさいました。さぞやご懊悩なされましたでしょうに」
「お前もよ、夏木。私のために毒の苦痛に苛まれてきたでしょうに……」
「清様、もう私は何ともございません。だいぶ馴染んでまいりました」
伏せ目がちに話した姫君に、夏木は何事もないように返した。姫君が平然としている夏木の血色を窺い見る。女童の頃には及ばないが、だいぶ良くなってきていた。
手を伸ばして、その頬に触れる。夏木が動きに合わせて身を屈めた。より近くなる。姫君の吐息がかかり、夏木の胸にときめきと幸福がわき起こる。
「……このまま、時が止まればいいのに……」
全てをなかったことにして。
叶わないのは分かっている。それでも今は、せめて今だけは、この平穏に身を委ねていたい。
ごく自然に二人の唇が重なる。触れあうだけの優しい口づけだった。ついばむように繰り返す。しばらくして顔を離すと、夏木がそっと姫君の腹に手のひらをあてた。胎児は眠っているのだろうか、このひとときを遮ることなく、おとなしくしている。
姫君の呼吸と脈動が伝わってくる。安らかな心持ちが湧き水のごとく、こんこんと溢れてきた。触れられている姫君のうちにも、夏木の心からのぬくもりが満ちてゆく。
「主上に触れられていたときは気持ち悪くて不快でしかなかったのに……お前だと何故これほど心地よいのかしら」
「清様……」
「きっと、私がお前を望んでいるからね」
「もったいのうございます……私も望んでおります」
「ならば、心は共にあるのね。主上が思い上がっていたけれど片腹痛い……私と常に共にあるのはお前だわ」
姫君が艶やかに微笑む。押さえ込まれていた自我を自由にして。
「清様……私も、ずっと清様と共にいさせて頂けるのでしたら……」
「何でもする? そうね、お前は本当に何でもしてきてくれているわ……見てきたわ」
「誓いました。清様もご存知でございましょう? 私が清様のものであると」
「ええ……お前は私だけの……かけがえのないもの」
語りあううち、姫君に後宮で溜まっていた疲労が和やかな眠気と変わって押し寄せてくる。瞼がとろりと重くなってきた。
「お休みになられますか?」
「そうね……ねえ、お前も一緒に眠ってちょうだい」
「はい……清様」
一つの衾に二人抱きあって包まれ、眠りの夢さえ分かちあう。
互いに、束の間の幸せを余すことなく味わおうと浸かりきって。
だが、後日、すぐに安産祈祷の修法が始まった。
姫君の住まう寝殿のうちに修法の土壇を築き、護摩木の煙と祈祷の声は一日中絶やされることなく続けられた。
途端に騒がしくなったなかで夏木は居場所に困ったが、姫君が父母に通じて頼みこみ、夏木を傍近くに置くことに成功した。
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