番外編その一
時は平安時代の末期。香を焚き染めずとも芳しい香りを放つと評判の姫がいた。左大臣家の大君だった。
「……夏木、いるの?」
几帳を張り巡らせた、その最奥で大君は夏木を呼んだ。
「はい……わたしはこちらに」
答える声はまだ幼さを残す少女のものだった。
「清様、いかがあそばしましたか?」
「大したことはないのよ……けれど、そうね……この雨のなか、あの桜が咲いているのかと思うと」
「見事に咲いてございます……細い雨に、より色濃く美しく」
「そう……」
あの桜、は大君と夏木を出逢わせたゆかりの花だった。 まだ左大臣家に女童として宮仕えに上がって間もない夏木が、花散らしの雨に惜しんで桜を一枝折り取って大君のもとへ運ぼうとしたのだ。常に几帳の奥深くにいて、庭を楽しむ事もない大君が、この見事な桜を見られないのは悲しい事だから、と。
「ご覧になりますか?」
「そうね……でも、またお前が叱りを受けてしまわないかしら?」
「あの時は……転んでしまって衣が汚れてしまったので……大丈夫でございます。もう転びません」
そう、あの時、夏木は枝を取るために無理に背伸びをして雨のなか転んでしまい、その姿のまま大君のもとへ急いで乳母に見咎められたのだ。
「お前と共に愛でられるのなら見たいわ。その代わり、気をつけておいで? 転んで怪我をしたらわたくしが悲しむことを忘れないで」
ひんやりとした手で、夏木の手を取る。もてあそぶように指を絡め、滑らかで小さな手を楽しんだ。 夏木ははにかんで俯いている。
「はい……気をつけてまいります」
「なら、行っておいで。……二人で楽しみましょう」
夏木の指先に小さな唇を寄せる。ぴくり、と夏木の手が反応した。 名残惜しさを感じながら手を離す。夏木は愛撫を受けた手を宝物のように胸元で押し包み、喜びをあらわに頷いた。
「はい、しばしお待ちくださいませ」
そう答えて、立ち上がる。健やかな足は軽やかに庭へと向かう。いざることをしない足音さえ愛らしい。
「楽しみだわ……夏木」
大君は呟いて、昨年の春を思い返していた。 夏木と出逢った春を。
……あの時は朝から冷ややかな雨が降っていて、女房達は口々に「まったく、花散らしの雨だこと。もっとささやかに降れば桜はより色濃く美しくなりましょうものを、これでは散ってしまいますわ」と御簾の影から庭を眺めて話していた。 そんななか、夏木は一人で庭に出たのだ。 それを、大君は乳母が差し出した桜の枝で知った。
「……これは?」
「新参ものの女童が、庭から折り取ってまいりましたのですよ。泥だらけの格好で大君様のもとへ向かおうとするのを見咎めましたの。聞けば、桜が美しいうちにご覧じられたいと。この美しい桜をご覧になれずに散らせてしまうのは悲しい事だからと」
「……そう。分かりました、もうお下がり」
大君は乳母にさえよそよそしく接していた。大人の女は囀ずるばかりで煩わしかった。 乳母も、その態度には不満を抱きつつも慣れていた。「では、失礼いたします」とこうべを垂れて几帳の前から遠ざかった。
大君は薄暗がりのなか、桜の花に触れてみた。雨の滴で手が濡れたが、不思議と鬱陶しさは感じなかった。雨の降りそぼるなか、精一杯背伸びする少女の姿が脳裡に浮かんだ。 桜の枝は見事だった。わざわざ選んで折ったのだろう事は容易に見てとれた。
* * *
それから、大君は桜の女童を探して几帳の向こう側に意識を向けるようになった。 多分、彼女だろうという女童はすぐに分かった。
女房達の申しつける雑用に、僅かな緊張をもって「はい、かしこまりました」と答える声は甲高くはなく、かといって口ごもってもおらず、心地よく耳を刺激した。
どんな些細な雑用でも必死にこなそうとする、その有りようは好ましかった。女房達のように無駄口に時を費やさないのもよかった。
彼女は噂話には参加する事がなかった。 だから、御髮洗いの徒然に彼女を呼びつけた。湯を含んだ重い髮が乾くまで、何かと話しかけてくる女房達に扇がせながら座っていなければならないのが辛かったが、彼女とまみえる事ができるかと思えば楽しみだった。
「……失礼いたします……」
女房達の雑用ばかりだったのを、いきなり女主に呼び出された女童は緊張に身を固くして上がった。厚かましい女房達と違うのも新鮮で愛らしい。
「もっと近くに。顔を見せて」
「……! はい……」
そうして、促して距離を詰めて──。
「……こんなに、お美しいお方だなんて……」
女童が、呆然と呟いた。
「美しい?」
大君の、身の丈より三尺余る烏の濡れ羽色の髪は、小さなおつむりにどう収まっているのか不思議なほど豊かで、真珠のような肌に、小さく紅をはいたような唇、黒く深い瞳の神秘的な輝き。すらりと伸びた細い首と手足。女童が釘付けになるのも道理だった。 それを、あえてからかうように問い返す。
女童は夢見心地のまま「はい……」と声を漏らした。
「母から、お前は尊いお方にお仕えするのだから真剣に働きなさいと言われてまいりました。ですけれど、……わたしは、真実このように素晴らしいお方にお仕えできているのですね」
そう言う女童は、幸福そうだった。大君は目を見張った。
──この女童は、これだけで既に満たされているのだ。わたくしという存在だけで、既に幸せなのだ。更にと求める事もなく。 人というものは貪欲なものだと知りぬいていた大君にとって、女童の心は衝撃的だった。
* * *
「いいですね、くれぐれも礼を失する事のないように」
「は……はい」
大君からの伝令を伝え、噛んで含めるように注意する乳母に縮こまって頷く女童を見下ろして、乳母はわざとらしく溜め息をついた。
「まったく……大君様も何をお考えなのか。このようなもの慣れない粗忽者をご寝所にお呼びになるなどと」
「それは……」
違う。大君様を貶めるような事は言わないでください。──そう言いそうになり、けれど乳母に「何ですか?」と冷たく訊かれて「……いいえ……」と口をつぐむ。
自分が粗忽者だという自覚は女童にもあった。 それにしても、御髮洗いの時といい、今宵といい、大君様は何故お呼びになってくださったのか。もの慣れない自分が目新しいのだろうかと思い、女童はまだ膨らみのない薄い胸があやしく高鳴るのに切なく苦しんだ。
「──では、下がるよう言われたら、すぐに静かに下がりなさい。いいですね?」
「はい……」
ふん、と息を鳴らして乳母が去ってゆく。女童は紙燭に照らされた寝所に、「失礼いたします……」と言いながら恐る恐る入った。
「待ちかねたわ……」
鈴を転がすような声が聞こえる。
「あ……申し訳ございません……」
「謝らなくていいのよ。どうせ乳母がくどくどと言っていたのでしょう」
待たされたと言っているのに、声には楽しそうな響きが含まれている。
女童は大君の機嫌の良さに安堵しながら、「ほら、わたくしの傍までいらっしゃい」と言われて、躊躇いながらいざり寄った。
「もっと近くよ。これでは内緒話ができないわ」
「は、はい……あの、お話とおっしゃるのは……」
間近で見る大君は、吸い込まれそうに美しかった。淡い、どこか悪戯めいた笑みが女童の心をわし掴みにする。この笑顔に逆らえる者などいないだろうと思わせる。女童は、宮仕えに来て初めて大君の笑顔に触れた。
「お前は可愛いから、贈り物をあげる」
「贈り物……そんな、わたしは……」
「自分を卑下することは、わたくしの意を無にすることよ? わたくしの想いを踏みにじるの?」
「いえ……! 滅相もございません、わたしは……!」
女童は身を乗り出して言い募った。大君はそれを見て、扇で口元を隠してくすくすと笑った。
「そう、ならいいのよ……本当にお前は可愛い……夏木」
「なつき……?」
おうむ返しに問いかける女童に、大君は女童の耳元へ口を寄せて、密やかに囁いた。
「そうよ、夏木。……お前は可愛いから、名をあげる。よく懐くように、夏木。……気に入って?」
「そんな……こんなにもお側近くにお呼び頂けただけでも身に余る喜びですのに……」
女童──夏木は、感極まった様子で言葉に詰まっている。大君は夏木を見つめた。熟れた桃のような産毛立った頬が、そのままうぶな心を表している。大きな瞳は潤んで零れそうだった。
「……では、夏木。これからはわたくしの傍でわたくしの為にだけ仕えなさい。他の女房どもの事になど時を使わないで」
「はい……はい、大君様……わたしは既に懐いております。大君様に全てを捧げさせて頂きます……」
大君は夢中で頷く夏木を見て、扇を置いて手を伸ばした。柔らかい頬に触れて、感触を楽しむ。
夏木は突然に与えられた幸福で、他にはもう何も考えられなかった。美しい大君様。そのお方に、お求めになって頂けた。全てを捧げていいのだ。お仕えしていいのだ。
「……まあ、もう一つあるのだけれど、名を与えただけでこんなに喜ぶのだもの。……大丈夫かしら?」
「……もう一つ……?」
夏木の胸が期待と畏れ多さでいっぱいになる。大君は唇を夏木の耳にあてて、そっと口にした。
「二人きりの時は、わたくしの名を呼ばせてあげる。清子──清(さや)、よ。」
案の定、夏木は恐縮しきって胸元で両手を合わせた。見開いた目には大君の顔が映っているのが大君の目に見えて、そうして、そのまま自分だけが映っていればいいと大君に思わせる。
「そのような……! わたし如きに尊く大切なお名を……!」
「お前だからよ。お前に呼ばれるのは、きっと心地よい……それとも、わたくしの望みに沿ってはくれないの?」
「いえ……いえ、わたしは……!」
「ならば、呼んで?……ほら」
夏木の唇が躊躇うように閉じ、開き、閉じる。微かに震えてさえいる。下働きの女童にすぎない身が、雲の上の存在である女主の真名を呼ぶのが許されるなど、本来ならばありえない。だが、主に応えるために、やがて、消え入りそうな声で夏木が大君の名を呼ばった。
「清、様……」
「ええ、夏木」
「清様……」
「なあに? 夏木」
睦言のように交わす。夏木はふと俯き、それから顔を上げて大君を真っ直ぐに見つめた。眼差しが絡み合い、離せなくなる。誰かと向かい合って、このように視線を絡めるのは大君にとっては初めての事だった。胸が騒ぐのを大君は感じた。
「清様……は、いつも人をお避けになって……端近でお庭をお楽しみになられる事もなく、ひっそりとお過ごしあそばして……できる事なら、わたしが清様のお目になって美しいものや楽しいものを清様に味わって頂きたいです……清様に、わたしの全てで」
「夏木、お前……ずっと見てきていたの?」
「素晴らしいお方にお仕えするのだから、と言われてまいりましたのもございますけれど……ほんのたまさか拝見する清様はいつもお楽しくなさそうで……おこがましいと知りながらも、気になっておりました」
大君は夏木の目の確かさに内心で驚いていた。夏木の立場なら、大君を見る機会はほとんどなかったはずだ。 かまびすしい女房達に辟易しながら、そのような者に心を許せるはずもなく本心は隠してきた。たおやかな様を装って、穏やかに見せてきていたものを。 「夏木……やはり、お前は特別だわ。わたくしの秘密を知る……共犯者ね」
だから、離さない。──熱く湿った息を夏木の耳に吹き込むように囁きかける。
「……清様……わたしは……」
「嫌?」
訊ねると、夏木がふるふると首を振った。夏木の髮が大君の顔に触れる。清らかな匂いがした。
「いえ……わたしに許されるのでしたら……」
「何を言うの? わたくしが許すのよ」
「はい、清様……嬉しゅうございます……」
ふと夏木が俯いた。はたりと涙が夏木の瞳から落ちる。きらめきながら。
「ほんに、お前は心に染みる……」
大君はあやすように夏木を抱いて背中をさすってやった。夏木は目元をぬぐって大君の胸に顔を寄せた。例えようのない芳香に目眩がする。聞いた事もない香りなのに、待ち焦がれていたように懐かしい。
──今、これほどの幸せが味わえたのならば、この先何が襲いかかってきても乗り切る事ができる。 夏木はそう思った。心に誓う。大君がくださった幸福に、幸福で返そうと。
「……清様、わたしは、必ず……」
顔を上げて、息が触れるほど近くで見つめ合う。
清様を幸せにいたします。──可愛い事を言う唇からのその一言は、大君の唇に吸い込まれていった。
* * *
「──お待たせいたしました」
大君が追憶に耽っていると、夏木が帰ってきた。
急いできたのだろう、息を切らして、頬を上気させている。
「……まあ、美しいこと」
大君はそれを見て顔をほころばせた。
「特に美しい枝を選んでまいりました。……お気に召しましたか?」
「ええ。……桜もお前も美しい……」
「清様……そのような……」
言葉とは裏腹に、その表情は悦んでいる。 大君は雨に濡れた桜を摘まみ、懐かしそうに囁きかけた。
「覚えているわね?……これが全てのはじまりだった」───
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