第一章七
夏木が咄嗟に身を起こし、姫君を庇う。刺されたのは腕だった。痛みが熱い。どくどくと脈打ち、血があふれて流れる。
「誰か! 誰かある!」
姫君が叫ぶ。応える足音が近づいてくる。
「う……うわあ……っ!」
少将は頭のなかが真っ白になり、血脂に濡れた刀で自らの首をかき切った。
血飛沫が、ざっと凄まじく飛び散り、姫君と夏木にもかかる。少将の体が芯をなくし、地響きのような音を立てて倒れた。
「大……君……私は……あなたを……」
少将の目が、狂った輝きを失う。
──あなたが欲しかった。全てを壊しても、あなたを手に入れることができるのなら、惜しくはないと今になって心から願った。
それが少将の最期になった。
「夏木、夏木……!」
夏木が貧血を起こして姫君にもたれかかる。姫君は無我夢中になって呼びかけた。
「夏木、お前……目を開けて、夏木!」
「清様……お怪我は……」
「なんてことを……!」
「よかった……清様、ご無事で……」
夏木が安堵した表情を浮かべ、意識を失う。駆けつけてきたもの達は局の凄惨な状況に驚き戸惑っていた。姫君が典医を呼ばせる。
夏木の腕の刺し傷は深かった。それでも急所ははずしていたので一命はとりとめたが、熱を出して数日間にわたって朦朧とした状態が続いた。
姫君は無理を通して自分の寝所に夏木を寝かせて付き添った。熱に喘ぐ夏木に、何度も声をかけて手を握った。
京の都は少将の暴挙についての噂で騒ぎたてていた。父の大納言は屋敷に閉じ籠もり、姉の更衣も後宮から退出して父と共にあるという。主上は即位後すぐから仕えてきた更衣に思いやりのあるお言葉をおくったが、もう後宮には戻れないだろう。
「夏木……目を覚まして……」
夏木の意識が戻ったのは、殴られた頬の色が落ち着いた頃だった。明け方の静けさのなか、まんじりともせず夏木を見つめていた姫君の姿が真っ先に見えた。美しい肌は荒れ、目の下にはくまができていた。
「……清様……」
「夏木!」
姫君が弾かれたように夏木と向かい合う。
「あの男は……」
「……死んだわ。夏木、痛くはない? 苦しいところは?」
矢継ぎ早に問いかける。夏木はどこか遠い目をして語りだした。
「夢を……見ておりました……清様のもとに初めて上がらせて頂いたときの……」
その声は消え入りそうに弱く、姫君は夏木の口許に耳を寄せた。熱い息が触れる。生きている証だ。姫君の心は痛ましさと歓喜に震えた。
「ええ、私も覚えているわ。お前は本当にいじらしいことを言ってくれて……」
「幸せでした。でも……」
そこで、夏木は一度言葉を途切れさせた。息をつき、ゆっくりとまばたきをする。
「お傍に置いて頂けるなかで、もっと幸せになっていって……怖いほど……」
「これからもお前は傍にいるのよ。身も心も、魂も私に捧げると誓ってくれたでしょう?」
「はい……だから、あの男から清様をお守りできて嬉しかった……」
夏木の顔に満ち足りた色が浮かぶ。姫君はたまらず、覆い被さるように夏木を抱きしめた。頬ずりをして、両手で夏木のまだ青白い頬を包む。
「このように、汚れた私でも……まだ、清様のお傍にいてもいいのでしょうか……」
「お前は綺麗よ。汚れてなどいない」
強く言い切ると、夏木が犯された心の苦痛に顔を歪めた。
「ですけれど、私はあの男に……」
夏木の目から、つっと涙が流れてゆく。姫君はその目蓋に口づけた。
「それが何だというの……お前のこころざしは汚れはしていないわ。私を守ってくれたお前は美しかった」
「清様っ……」
夏木がためらいながら腕を上げ、自分の頬を包む姫君の手に触れる。自分を愛してくれる手。眼差し。心。全て変わらない。
「……さあ、薬湯をもたせるわ。飲んで、また休みなさい。大丈夫よ、私は離れない」
「清様……清様……っ」
慈愛に満ちた姫君の声が夏木の心を潤す。幸せが胸に収まりきれないくらいに。
二人は二人きりの世界で愛しあい、心を通わせる喜びを知り、幸せだった。絆はどこまでも深まり、いつか繋ぎ目も分からないほど一つになってゆく。
夏木はその後、順調に回復した。
屋敷のなかは、あの事件から、しだいに姫君の入内の支度に向けて慌ただしくなっていった。
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