第一章六
「……このことは他言するな」
何とか絞り出した声は微かに震えていた。少将は癇癪を起こした子供のようにまくしたてた。
「大君に知られるのはお前にとっても都合が悪いだろう? お前は未通女ではなかった。大君のお手つきだろう。なのに他のものに手を出すことを許してしまった。大君はさぞや、お前を汚れたものとして不快に思われるだろう。それに、お前の母は私の乳母だ。母の身を思うなら……黙っていろ」
少将は言うだけ言うと、床に落としていた、自分が懸想した証拠の文を拾って袂に隠した。
夏木は踏みにじられた絶望のなか、呆然と少将の言葉を反芻していた。
──清様をご不快にさせる……? 母のためを……?
少将の言い分は道理にかなっていない、支離滅裂な内容だ。
心を砕かれた被害者への刷り込みといっていい。
今や少将は逃げ出すことしか考えていなかった。犯した罪から、この場から。
そのときだった。
「夏木、いるのでしょう?」
局の外から女房らしき人物が声をかけてきた。
少将が焦りをあらわに夏木を見下ろす。壊れた人形のように放心している。とてもまともに返事ができる状態ではなかった。
かといって、何の返事もせずにいたら相手は不思議に思って局のなかを見てみようとするだろう。少将は狼狽しながら声音を努めて穏やかにして代わりに答えた。
「……夏木はここにはいない」
「え? どなたの声なの?」
「夏木の母から頼まれて来たものです。大君様のもとに向かってしまったのか、宛てがはずれてしまいました」
「まあ……どうしたものかしら」
局に入ってこられないかと内心で冷や汗をかいていたが、相手はそれなりに納得したらしい。「入れ違いかしら」とぼやきながら遠ざかっていった。
これで難を逃れたと少将は安堵したが、これこそが誤りだった。
夏木の局を訪れた女房は、姫君からの呼び出しを伝えるために来た女房だったのだ。
夏木を見送った後、姫君は思いついたことがあって、普段ならば黙殺している女房達のうち、夏木に悪意を抱いていないものを選んで声をかけた。その女房は物事を深く考えることはないが実直な点が取り柄だった。
「夏木が局にいない……?」
几帳の奥で姫君が呟く。手ぶらで戻ってきた女房は首を傾げながら話した。
「大君様のもとには、まだ着いておりませんのですか? 局では、どなたか存じませんが殿方が夏木を訪ねてきたのにいないと言っていましたのに」
「……殿方?」
「ええ、声だけでしたが若い方で」
訊くと、夏木の母からの使者らしい。それはおかしい、と姫君は思った。夏木の局は屋敷のもの達しか知らない。そこに直接訪れるのは外部のものならば不自然──。
「夏木……」
「あっ、大君様!?」
嫌な予感がした。直感といってもいいのかもしれない。見も知らぬ男が夏木の局にいる。
姫君は、夏木に下げ渡そうと手許に置いていたものを掴み、几帳から飛び出した。思いもよらぬ行動に慌てふためく女房を無視して夏木の局に向かう。主たるものが一介の女童の局に行くなど前代未聞だろうが構わなかった。
歩き慣れていない足がもどかしい。いっそ走りたい思いで姫君は夏木の局へと急いだ。
「──夏木、いるの?」
訊ねながら局に足を踏み入れる。
「夏木……!」
そこには、目を疑いたくなるような光景があった。
散らされた衣に、夏木が諸肌を晒して仰向けに倒れている。左の頬が腫れて変色していた。
突然の存在に、若い男が目をむいている。素性も分からないものに姿を見せたくはなかったが、今は夏木の異常なありさまをどうするかしか考えられなかった。
「夏木、しっかりなさい。私よ、夏木」
姫君の懸命な呼びかけに、何も映そうとしていなかった夏木の目がゆっくりと動く。
──清様……?
今のこの状態で、誰よりも会いたくて、けれどどのような顔をして会えばいいのか分からないひと。涸れていた夏木の目に、涙があふれ出す。
「夏木、私を見て。もう大丈夫よ」
「……さ、や、さま……」
「そうよ、私よ」
姫君が夏木の頭に両腕をまわし、胸に抱きしめる。力を失っていた夏木の腕が、震えながら姫君にすがりついた。
そして、次の瞬間、夏木がはっと体を離して叫んだ。
「清様、お逃げくださいませ! この男は清様に害をなそうとしております!」
「男……? では、この男がお前に無体をしたのね?」
そこで、初めて姫君が少将を見据えた。怒りに燃える眼差しは烈しく、少将は息を呑んで硬直した。
「お前のしたことは万死に値する……死になさい。人を呼んでお前を排斥することは容易いけれど、生かしておけない」
姫君が持ってきたものを見せる。それは、夏木に下げ渡そうとしていた守り刀だった。鞘から抜き放つと、刀身が鈍く輝いた。
「大君なのか……あなたが……」
醜く求めてきた姫君が目の前にいる。その美しさは今まで見たこともない。その人が殺意をあらわにして自分を見つめている。苛烈な瞳で。
「さあ、この刀で首を切りなさい」
有無を言わせぬ迫力で迫る。少将は操られるようにのろのろと刀を受け取った。
刀身が、くちなわの目のように光っている。
──これで死ぬ? それが自分の終わりなのか。
少将は刀を握る手に力を籠めた。姫君に向き合い、その身が放つ香りを感じる。こんなにも近く、伽羅にも勝る芳香に酔う。目眩がするほど。
──手に入らないのか。
これほどの姫君なら、破滅を覚悟で恋焦がれても惜しくはないと思えた。
そのとき、少将は初めて姫君に本気の恋をした。破れると同時の恋を。
──欲しい。たとえ……。
「あなたを……」
殺してでも。
「あなたを殺して、私も死ぬ……!」
「──清様!」
凶刃が姫君を襲う。それは長く短い一瞬だった。
「夏木……!」
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