第一章五
主上のもとに上がるとき。それは、姫君が主上から御寵を受けるときだ。
そこに付き添うというのは、目の前で愛する人が別の人と交わりをもつのを、微笑ましく見守らなければならないということ。
「お前には残酷な頼みよ……でも、私はどうしてもお前と離れたくないの」
姫君が狂おしく夏木をかき抱く。すがりつくように。
「宿命は変えられなくとも……いえ、だからこそ、お前がいなくては耐えられない……」
「清様……!」
そうだ、姫君はどのようなときも夏木にしか心を開かない。
──私しかいないのだ。
夏木がいなければ、姫君は完全に孤独になってしまう。
愛する人の寂しさは甘い誘惑だ。
そして、愛する人の孤独は、たとえ危うい罠だとしても、底のない沼だとしても、はまらずにはいられない必至の覚悟をもたらす。
夏木は姫君の背にか細い腕を回し、がむしゃらに抱き返した。
「私……おります。何がありましても、清様のお傍に」
「夏木……っ」
そのとき、夏木は自分以外の何にも心を動かさない姫君の、初めての涙を見た。慟哭を、初めて聞いた。
「不安なのよ……自分がどうなるのか分からない……私は、主上のために変えられてしまうの?」
「いいえ……いいえ、清様」
夏木は姫君の涙に濡れた頬を両手で包み、まっすぐに向き合った。竜巻のすぎた後の心は、不穏に静まり返り、新たに生まれた感情で強く固まっていた。
「清様のお心は、私がお守りいたします。お変わりになりたくないのでしたら、私が清様のありたいお姿をお守りいたします」
「夏木……いいの?」
──我が儘な願いをきいてくれるというのか。自分のありようを許してくれるのか。
姫君は夏木を見つめた。夏木が頷く。
「全ては清様のお心のままに……どうぞ、ご自由なお心の清様でいらしてくださいませ。そのために私は清様にお仕えいたします」
姫君がまた涙をこぼす。夏木はそれを、たどたどしく唇でぬぐった。涙の味は命の海のようだと思った。塩辛く、飲めば喉の渇きがいやまさるのに無数の命を育み、恵みをもたらす。
姫君の涙は、夏木の心に愛を育ませたのだ。
見つめあった二人は、永年の果てに再会した恋人同士のように夢中になって唇を重ねた。
それから、熱い奔流のままに愛しあった。衣を散らして、深い闇のなかで二人きり、一つの衾に抱きあいながらくるまる。
互いの鼓動を、耳をあてて確かめてから体を重ねて混じりあわせる。体と体の境界がなくなって、快楽の後の眠気とともに優しくとろけてゆく。
「この体が誰に貢がれようと、心はお前だけを欲するわ……愛おしいのはお前だけ……」
姫君は、左大臣家に大君として生まれた自分のさだめを分かっている。その上で、自分の心に逆らわず生き抜く術を探すことを選んだ。心だけは奪わせないと。
ならば、夏木はどこまでも寄り添えるように力を尽くすだけだ。
「大丈夫です……私は清様のものです。身も心も……魂ごと清様に捧げます」
はっきりと言いきり、隙間なく体を寄せる。姫君は泣きながら笑った。
二人、確かに満たされていた。心と体はしっかりと繋がり、離れることはないと誓った。
しかし、二人を包む闇の向こうに、くちなわが迫っていた。毒牙を持つくちなわが。
*
「では、またすぐに参ります」
「ええ……でも急がなくていいわ。昨夜の宴で疲れているでしょう。ゆっくりお休み」
二人で朝を迎え、夏木は着替えて身だしなみを整えるために一度局に下がることにした。姫君の寝乱れた髪は夏木が丁寧にとかした。姫君は嬉しそうに世話をやかせていた。
夏木は晴れ晴れとした表情で「お気遣いをありがとうございます。ですけれど、清様と離れているのが惜しいのです」とはにかんだ。
姫君は顔をほころばせて「なら、待っているわ」と夏木を見送った。
寝所から出て、局に向かう。途中で女房と行き合った。たまに用事を言いつけられる程度の関係だが、このときは珍しく親しげに話しかけられた。その笑顔は機嫌がよさそうだが、どこか厚かましさを感じさせた。
「これから局に下がるところ?」
「……はい」
「大君様のご寵愛もたいしたものね……けれど度が過ぎるとお前の母が心配していてよ」
「母が……?」
そうよ、と頷く女房は、少将が夏木の局を知るために関係をもったものだった。彼女は少将の言葉を鵜呑みにしていた。
「……ご指導ありがとうございます」
とりあえず、素直に返しておく。女房は、「たまには宿下がりをなさい。それも親孝行よ」と言って立ち去った。
遠ざかるその背をしばし眺めてから、気持ちを入れ換えるように長く息を吐いて足早に歩き出す。いつの間にか息を詰めていたのだ。
そして、局に入った夏木は驚愕に固まった。
「……ようやく戻ってきたか」
見知らぬ男が局の中にいる。
「何者……誰か……!」
声を上げようとすると、男が大股で近づいて素早く夏木の口を塞いだ。壁に体を押しつけられて身動きも封じられる。
「──この文に見覚えはあるな?」
体を使って夏木を押さえながら、片手に持った料紙を見せつけてくる。それは夏木が母から頼まれながらも握り潰した文だった。思い出すと同時に、男の正体を悟る。
──母が乳母として仕える少将だ。
「道理で大君から返事がないわけだ……これはお前の母を裏切る行為だ。分かるな?」
少将は一睡もせず血走った目で夏木をねめつけている。憤りと憎しみに満ちあふれた姿は鬼のようで、夏木は恐怖で膝から力が抜けそうになりながらも、気丈に少将を睨み返した。
「裏切りというのなら、このような文を大君様にお見せすることこそが大君様に対する裏切りでしょう」
「言うに事欠いて……!」
瞬間、夏木は頬がはぜるような衝撃を受けた。ばしん、と音を耳だけでなく痛みで聞く。殴られたのだと音が去った後に気づいた。
少将は夏木の体が傾いだとき、女童には不似合いな香りを嗅いだ。
「……大君の香りか?」
姫君には香を焚き染めずとも芳しい香りがあると噂でさんざん聞かされていた。これは移り香だとすぐに察した。
「……何を……!」
荒れ狂う衝動に任せて夏木を床に引き倒す。その香りを奪おうとするかのごとく、強引に衣を剥いだ。
「やめっ……!」
──これが。これが大君の香り。
少将は狂った獣と化して夏木の肌をまさぐった。その愚行の果てに何が待ち受けているかを考える理性など、潰された文を見つけたときに失っている。
「……はっ……」
半刻後、少将は息を荒らげながら夏木から身を離し、ふらりと立ち上がった。
足許には暴力に蹂躙されて転がされたままの夏木がある。剥がされた衣は臓腑を広げたかと見えるほど無残だった。
少将はその惨状を見て我に返った。
──この女童が、されたことを大君に話したりすれば。
憎まれるだけでは済まないだろう。屋敷の奥に忍び込み、大君を狙い、挙げ句に──。
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