第一章四

 もしかしたらと姫君からの返事を期待していた少将は、何の音沙汰もないことに気を揉んでいた。せめて夏木から反応がないかとも期待していたが、それもない。

 そして、内裏に参内するたびに宰相の中将から「随分と高嶺の花に手を伸ばしたものだね」と嘲笑されはしないかと内心ですくみ上がっていたが、宰相の中将は相変わらずで、すっかり肩透かしをくらっていた。

 文を贈れば何らかの手応えを得られると嵩をくくっていた少将は、まさかの無反応にだんだんと焦りを覚えるようになった。

 今日も、敢えていけ好かない宰相の中将と宿直所で控えているが、彼は他のものと、噂に名高い美姫や女房の話でのどかに談笑しているだけだ。左大臣家の姫君の話題は出てこない。

 少将の乳母は、確かに夏木へと文を渡してくれたはずなのに。

 それは、乳母の性格上、ただ一度きりの機会だった。再び文を頼むことは決して叶わないだろう。自分自身、ただ一度きりと口にした。想いを伝えたいだけだと。それを果たした今、これ以上の深入りは乳母なら断る。

 ──何か、姫君の気持ちを知る方法はないか。

 思いつく伝手は夏木だけだった。しかし、彼女は常に姫君の傍近くに仕えて宿下がりもないという。

 それでも何とかして夏木に近づきたいと少将は考えた。手頃な女房を懐柔して、夏木の局が屋敷のどこにあるかを聞き出す。問題は左大臣家の屋敷に行く理由だ。

 ──何か、何かないか。

「──おい、少将。聞いているのか?」

「え? あ……すまない」

 どうやら、一人で深く考え込んでいたうちに話題が変わったらしかった。近衛の中将が少将の肩をたたき、「仕方ないな。誰かに懸想でもしているのか?」と軽い口調で問いかけるのに応えて、少将は「いえ、最近私のお気に入りの女房が体調を崩しているようなので、生薬と文でも贈ってやろうかと考えていたのですよ」と、冷や汗をかきそうになりながらごまかした。

 近衛の中将は疑う様子も興味をもつ様子もみせず、少将に改めて聞かせてくれた。

「左大臣家で催される藤の宴さ。少将も行くだろう?」

「藤の宴……」

「今年はとりわけ見事に咲いているそうだ。見目のいい女房も多いから、たいそう華やかな宴になるだろうな」

「私も参ってよいのですか?」

 思わず身を乗り出すと、宰相の中将はゆったりと扇を使いながら「構わないさ」と頷いた。

 これで、屋敷の内部に入る口実ができた。少将は面に出さず快哉に沸いた。

 その宴の夜、特別念入りに衣を整えて左大臣家に向かった。ほの暗い牛車のなかで、誰に目星をつけようか考えた。権勢では劣っても大納言家のものだ。言い寄られて悪い気のする女房はいない。

 その思惑は見事に当たった。

 左大臣家自慢の藤棚は見応えのあるものだった。薄紫の花がたわわに垂れ下がり、松明の明かりに照らし出される。少将の目にも明かりがうつり、ぎらりと輝いていた。

 そこでは、各々が得意な舞を踊り、歌い、楽器を奏じた。屋敷の奥深くにいるであろう姫君に届けといわんばかりに、少将も横笛を吹いた。

 宴もたけなわになり、少将は「ああ、ひどく酔ってしまった」と端近に寄り、それを見てくすくすと笑う女房の手を握った。

 女房は振りほどかず、笑みを深めた。

「大納言の少将様は酔われるお姿も悩ましいこと……」

「これはあなただけに晒す姿ですよ、お笑いなさい」

「まあ……周りには他のものもおりますのに……」

「さあ、どうだか。私には、あなたしか見えていませんからね」

 女房の手を握る指に、力を籠める。女房はあしらわずに指を絡めてきた。

「今夜はあなたの局で休みたいな。この美しい藤の花を一夜の夢にしたくない」

 御簾に顔を近づけて囁く。女房が絡めた手を自らの胸にいざなった。

 それで目的は半ば達成されたようなものだった。

 少将はその女房を抱き、寝物語に夏木のことを出した。怪しまれないように、細心の注意を払って。

「そういえば、ここには私の乳母の娘が宮仕えに出ているんだ。ただ、一度も宿下がりをしていないものだから乳母はひどく心配をしていてね」

「ああ……夏木のことでしょう。大君様が離しませんの。はしたないことだと私どもは憂いておりますのよ」

「そのものに、直接会って乳母の言葉を伝えたいのだけど……それほどまでに重用されているのなら無理だろうか」

 女房の長い髪を手に巻きつけて口づける。すると、女房の方から唇をねだってきた。

 ──落とせた。

 そう確信し、事実、女房は夏木の局が屋敷のどこにあるのかを少将に教えた。

「あなたから離れがたいな……そうやすやすと通えはしないもの」

「お待ちしておりますわ……女は待つことで情を深めますのよ」

 少将は今すぐにでも夏木の局に向かいたいのを抑えながら、女房との難しい逢瀬を嘆いてみせた。

「あなたの言葉を信じてもいいの?……ようやく出逢えたのに、夜が明けてしまうのは早すぎるね。せめて冬なら、互いを温めあいながら長い夜をすごせたものを」

「信じれば、それが真実ですわ……私はこの短い夜を忘れません」

「そうだね、あなたほど愛おしいことを言う人を私は他に知らないよ」

 ──そして、夜の明ける前に後朝の別れをして、息をひそめながら夏木の局に入り込んだ。夏木は姫君のもとにいるのだろう、局にはいなかった。

 どうせ明るくなれば出られない。少将は局で夏木の帰りを待つことにした。

 局は女童のものとは思えないほど調度品がととのえられていた。これだけでも、いかに寵愛されているかが分かる。

 文机の脇に座り、辺りを見回す。ふと、何かが視界に映った。違和感とも直感ともいえる。

 文机の向こうに、屑籠がある。その中にある料紙には見覚えがあった。

 少将は弾かれたように立ち上がり、屑籠から料紙を拾い上げた。固く丸められて、皺のついたそれを広げる。

 間違いない。少将が姫君に宛てて贈った文だった。



 *



 その頃、夏木は夜伽をつとめるために、姫君のもとにいた。

「今宵は騒がしかったこと……おかげでお前とすごせなかったわ」

 夏木には藤の宴で女童としての仕事があり、朝から駆り出されていた。宴は夜更けまで続き、姫君のもとに上がれたのは丑の刻になろうというときだった。

「清様はいかがおすごしだろうと、そればかりを思っておりました……」

「お前のことばかりを思っていたわ。きっとせわしいのだろうと……宴など厭わしいわ。男どもが騒ぐばかりで」

 姫君は低く言葉をもらすと、向き合った夏木に手を伸ばして頬に触れた。柔らかい肌はしっとりとして、産毛が心地よく手のひらを刺激した。

「もう朝まで一緒よ。離さない……」

「はい……どうか、このお手を離さないでくださいませ」

 夏木の手が、頬を包む姫君の手に重なる。夏木の手は温かく、心までぬくもりに包まれるようだ。その心地よさに姫君は笑みを浮かべ、もう片方の手で夏木の髪をすいた。広げた扇のように豊かな髪は、よほど忙しかったのだろう、いつものように整えられておらず、指が引っ掛かった。おそらく、役目を終えてすぐに駆けつけたのか。

 それを想像すると、夏木のいじらしさに姫君の胸は甘く切ない蜜があふれてくるようだった。けれど──。

「……夏木」

「はい……」

「ねえ、夏木」

「……はい、清様」

「私は後宮に入内するのね」

 夏木が息を呑んだ。

 それは秋に控えている決定事項だと頭では分かっていたが、姫君の口からは一言も聞いたことがなかった。

 ──主上のもとに上がったときにまで傍近く控えさせておくことはできないのだから。

 中納言に言われたことが夏木の脳裡に渦を巻く。竜巻のように激しく回り、吹き荒れて呼吸までできなくなりそうだ。

 姫君は静かに夏木を見つめている。さながら台風の目か。

「夏木、私は後宮でもお前を離さない」

「……清、様……?」

「お前も連れてゆくわ。主上のもとに上がるときにも」

「清様、それは……」

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