第一章三
「相変わらず大君様はお前にご執心ね。ご寝所にまで入れるだなんて……雛遊びもほどほどにして頂かなくてはね。主上のもとに上がったときまで傍近く控えさせておくことはできないのだから」
「……」
言い返さずにいる夏木に、中納言は息を鳴らして「ああ、大君様は何をお考えになっていらっしゃるのかしら。秋には入内だというのに幼くていらっしゃること」と吐き捨てて去っていった。
──違う。清様は悪く言われる人じゃない。
夏木は唇を噛みしめた。唯一傍近くに仕えることが許されている自分への当てこすりや妬みならば構わない。しかし、姫君への中傷は我慢ならなかった。
女房達の大部分が今のありようをよく思っていないのは分かっている。姫君は外界に興味をもたず、女房達の存在すら「雀ども」と言って煩わしいと感じている。一部の女房が近づけるのは湯殿を使うときか御髪洗いのときだけだ。女房による徒然に任せた話を聞いたり、腰や足をさすらせたり、何かを所望することは全くない。
だから、姫君の本当の姿を知るものはいない。あの、しめやかで華やかな姿、笑みを。
ありのままの姫君の魅力を分かっている、そしてそれに触れられるのは夏木だけだ。
周りからどう思われても、自分だけは姫君の愛情深さ、艶やかさ、優しさを知っている。
だけど、それは自分だけなのだ。
姫君は自らを見せることも知らせることも、周りによる理解を得ることも望んではいない。
こんな時、夏木は歯がゆくなる。姫君の本来の素晴らしさを分かってもらいたいと思う。姫君自身が望まない以上は、叶わないことだから胸の内に収めておくしかないのだが。
「……それでも、私が分かっているのなら……」
姫君は独りではない。何があっても、そうはさせない。
誰も姫君の心を知らない。だから、今日届いたような不躾な文もある。
──世間の好奇の目から、眉をひそめるものから、自分は姫君をかばおう。
夏木は決意をあらたにして、姫君のもとへと歩き出した。
くちなしの花言葉は二つある。
一つは姫君をそのまま表すような「沈黙」。
そして、もう一つは──。
「夏木、遅かったわね」
寝所に横たわりながら、姫君は艶然と微笑みかけてくる。その表情に夏木を責める色はない。ただ、悦びだけがある。
「申し訳ありません……支度に手間取ってしまいました」
「私のために可愛くしてきてくれたの?」
姫君の冗談めいた言葉に、夏木は胸が甘く詰まる思いがした。
姫君はいつだってそうだ。甘やかして、仔猫にするように可愛がって、愛してくれる。そこには、全幅の信頼がある。
「清様の前では、一番いい私でいたいのです……」
「お前のその心が愛おしい……そこでは寒いでしょう、こちらにおいで」
──雛遊びもほどほどにして頂かなくてはね。
先ほどの中納言の嫌味が、決意の裏で棘のように心へ突き刺さる。
常識では分かっている。姫君が本来ならば多くの女房にかしずかれ囲まれて、世話を受ける身なのだということは。
「どうしたの、夏木?」
動けずにいる夏木に、姫君が訝しそうに声をかける。夏木ははっとして、知らずうつむいてしまっていた顔を上げた。
「申し訳ありません……先ほど女房の方に、お叱りを頂いて」
「お前が気にすることではないのよ、夏木。全ては私が望んでいることなのだから……それにしても周りはかまびすしいこと。煩わしいものばかりを運んでくる……」
姫君が夏木には優しいまま、苛立たしげに呟く。明かりが届くぎりぎりのところに、破られた料紙が見えた。
「お文ですか……?」
おずおずと夏木が訊ねると、姫君は忌々しそうに「兵部卿の宮は本当に面倒だわ……乳母をかき口説いて。いっそ乳母を遠ざけようかしら」と半ば本気めいて答えた。
その言葉に、夏木は母を通じてもたらされた少将からの文を思い出した。
やはり、あれは絶対に姫君にお見せしてはならないものだ。お見せしてしまえば、姫君の心を裏切ることになる。
千々に引き裂かれた料紙が、ほのかな明かりに光る。ひどく無残に、悲鳴と雄叫びをあげて散る兵士のように。
「でも、夏木がいてくれれば、そのような事は構わないの……おいで」
姫君が、衾を開いて手招きする。夏木は抗うことなど考えられない。そろそろと衣擦れの音を気にしながら、いざなわれるまま姫君の傍に座した。
「私は……許されるのでしょうか?」
「今夜の夏木はおかしいわ。私が許すのよ……お前の全てを」
「ありがとうございます……私には清様が全てです。清様だけが、私を……」
生かすことも殺すことも、飼い慣らすことも……全てができる。掌中で慈しむことも、籠の中で飼い殺すことも、全ては姫君の自由だ。それでも夏木に不幸はない。
姫君が、ひんやりとする手のひらで夏木の頬を包む。対照的に眼差しは熱を孕んでいる。
「私達はこの世で二人だけよ……私を知るものはお前だけ。お前を誰より愛するのは私」
「──はい……」
そして、夏木は姫君の愛撫に身を委ねる。
──くちなしのもう一つの花言葉は「とても幸せ」。
夏木にとって、自分を見出してくれた姫君の存在そのものが幸せだった。姫君の瞳に映り、愛されることは、この上ない喜びだった。
姫君は夏木を仰向けに横たえ、愉しそうに衣を広げていった。
誰の目も届かないなか、褥の上で細い燭台からの明かりに浮かび上がる夏木の白い体はほのかに輝きを放っているかに見えた。
「お前のこの姿は美しいわ……まるで、さなぎから新しく生まれたばかりの蝶のよう」
脱がせた衣は羽のごとく夏木を際立たせる。
「あまり見られると、恥ずかしいです……」
掠れた消え入りそうな声で夏木が言うと、姫君はおかしそうに小さく笑った。
「どうして恥ずかしいことがあるの? お前はこんなにも愛らしいのに……ほら、この手首なんて力任せに握ったら折れてしまいそうよ。大切に扱わなければね。私の宝物……」
姫君が夏木の手首をとって、ちろりと舌先で舐める。ぴくりと微かに震えが走るさまは、人によっては嗜虐心を煽っただろう。
けれど、姫君には愛くるしい姿だとしか感じない。夏木に触れるたび、いつまでも、どれだけ身体中に口づけても慣れることのない緊張を見てとり、うぶな心を愛している。
「……ここに花を残しましょう」
舐めて僅かに湿った手首の内側を吸う。夏木はそこが、ちりりと痺れて熱をもつのを感じ、頬を染めた。くらりと目眩がした。
姫君の手が夏木の反らされた背を撫で、腰で一瞬動きを止めてから秘所に触れる。なめらかな谷を割り、突起をつまんだ。
「あっ……」
夏木が顔をそむけて口許を手でおさえる。次に来る快楽への期待と恐れに脚がうごめく。
姫君の愛撫は優しかった。どこまでも優しく、夏木を追い上げてゆく。
それは、小鳥がさえずるのを聞いて愉しむように無邪気だった。
*
少将が文を贈ってから数日が経った。
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