Q
蛇はら
1・完
かさぶたを剥がすと桃色の肉が現れて、ちょうど中心のあたりから血が出はじめた。すると物陰からひょろりと半身を覗かせたQが、それを舐めてもいいかと訊ねてきた。私はちょっと考えたあと小首をかしげたまま膝をさしだした。Qは吸血鬼である。
それとの出会いはひどく画一的であった。学校の個室トイレでがさごそと汚物入れを漁っていたのだ。体調不良を訴え、授業を抜けだしてきたために、私はその場にひとりきりだった。
Qはさいしょ真っ黒なモコモコとしたかたまりだった。というのも、頭からすっぽりマントをかぶっていた。冬とはいえ十一月にさしかかったに過ぎない時期、その防寒具は私の眼にいささか大袈裟に映った。そして一心不乱に容器の中身を掻きまわすさまは、嫌悪を通りすぎて滑稽とさえいえた。
私は早くも退屈を覚えはじめる。教師たちの読経が教室の扉から漏れて、冷たいリノリウムの廊下を這っている。どこかでレクリエーションがはじまって、きゃーっという黄色い悲鳴があがった。その、きゃーっが私たちを目覚めさせた。まずQがこちらを振りかえり、潰された蛙じみたうめき声を発して飛びかかってきた。私はすかさず用具入れからラバーカップを掴みだし防御を試みるも、フードをはがすことしかできなかった。そしてQの容貌があきらかになった。
Qは瞳を涙でとろけさせ、私の腹にすがりついて訴えつづけた。ことばははじめ異国のもので、だんだんにこの国のものへとすり替わっていった。ちょうど、シャワーが冷水から熱湯へ調整されるのに似ていた。
Qはつまり、空腹のあまり死にそうだとくり返していた。
「私も腹痛のあまり死にそう。奇遇だね」
するとふしぎにQは腕の力を強めてきたので、私はやんわりと、見逃してやるから離してほしいという旨を伝えた。Qは、恐らくたいへん切迫していたせいでちぐはぐに単語を並べ、完成された文章はいっこうに要領を得ない。私は爆発しそうなおもいで「わかった」とさけんだ。
「わかった。あなたの願いは叶えてあげる。だからトイレに入らせてほしい」
やがてQの小躍りするステップがドアの下の隙間から覗くのを、私は便座に座りながらほほえましく眺めていた。
コンビニのサンドウィッチと菓子パンを数個。そのまま学校を脱けだして、Qに買い与える。だがQは憤りながら激しく首を振った。なぜと訊ねると、約束がちがうと膝を抱えて泣きはじめた。私はそばに寄って辛抱強く質問をくり返し、そして納得した。どうやら与えるのは私の血であることを、このときはじめてしったのだった。Qが、現代では絶滅危惧種に分類される吸血鬼であることも。
Qの住処にとあてがったのは町の廃病院で、私はうち棄てられた病院ほど吸血鬼にふさわしい住居はないと思ったが、Qは度々、ここは寒くて怖いからいやだというようなことをいった。
放課後になり訪ねると、Qは手術室からのっそりと現れる。そこがQの寝室だった。私たちは廊下に散乱した窓ガラスを踏みしだき、かつて待合室であったソファに腰を下ろす。弁当箱と、昼に配られた牛乳パックをさしだすと、Qはおとなしく食べはじめる。Qは箸を使いながら情けない顔をしているが、いまのところ私は私の血をやるつもりはなかった。
味がしない、とQはいったようだった。箸をくわえるので、木製のそれにはすてきに歯形がついてしまっている。
「そういうものだよ」
と私は、ソファの破れ目から綿をひねりだしながら答えた。
「いやなら自分の家に帰ったほうがいい」
するとQはまた泣きだしたので、うんざりする。放っておけばすなおに食事を再開することをしっているので、そうしていると、Qは抗議の涙をぽろぽろとこぼしながら、箸先で米粒を拾いはじめた。
私は、Qがいまでも時おり学校に忍びこんで、出会ったときのようなことをしているのを知っていたが、なにもいわなかった。そのうち、生徒か、教師か、用務員かにみつかって、通報されたほうがQにとってしあわせかもしれない。おそらくは研究所か、どこかの博物館に保護されて、大事に、大事にされるだろう。
気がつけばQの恰好が周囲に溶けこむ季節になっていた。
寒空のもと、体育ではいつもマラソン大会の練習をするようになり、私はある日、なにかにつまずいて転んでしまった。右膝がひどく痛んで、ズボンをまくりあげると、肌が避け、血が流れていた。私はこういう怪我をしたのは小学生以来であった。保健室で手当てされながら、なんとなく、これはQのしわざだろうと思ってみる。
放課後Qのもとに向かうと、案の定、Qは顔を輝かして私の膝小僧を指さした。握りこぶしほどのガーゼが当てられたそこを見て、きゃっと頬を染めた。そしてそれを舐めてもいいかと訊ねてきた。
私は首を振ろうとしたが、より早くQに両手で頬を挟まれた。Qが瞳を溶かしてことばを羅列するには、約束したじゃないかと、そういったことを訴えているらしかった。顔面は触れそうに近くなり、私は、Qの汗や垢のたまったにおいに息を詰める。そして「すこしだけなら」とうなずいた。
ソファに座り、ガーゼをはがし、膝をさしだす。Qは照れながら私の足元にひざまずき、傷口へ唇を寄せた。一連の動作は宗教画に描かれるような恭しさで満ちている。だが舌で舐められるざらざらとした触感は、私をいやな気持ちにさせた。おそらく猫や犬に舐められたときも、こういう感覚なのだろう。それで、頭をなでてやる。地肌はひどくべたついている。
やがてすすり泣きの声が耳朶を打った。私はほとんどあきれてどうしたのかと問うと、Qは、うめきながら怪我した私の膝に頬をすりつけ、ぶあぶあと泣いた。
そんなに血が飲みたいなら、肉屋へ行って、牛とか、鶏とか、そういう類の血をもらってこようか、と私はいった。しかしQは首を振った。人間のものでないと。ということらしい。
Qの行為は、私のかさぶたがなくなるまでつづいた。
夏が過ぎてすっかり生きづらくなった。と、Qは手術台に寝そべって話す。
雪が降る日は起きあがるのさえ億劫らしく、Qは私がやってきても自室にこもりがちになっていた。出会ったときから変わらない、モコモコしたからだを丸めて、一日中蛇のようにとろとろと眠ってばかりいた。
私が鞄から取りだした弁当箱と牛乳を一瞥して、Qはまばたきで拒否をする。そして話しだした。――夏は、蚊を食べた。それは、大きな蚊だった。血を吸った蚊ほど大きく、のろく飛ぶので、捕まえるのは容易だった。血の色に透けた腹はなにより美しい。Qは、それらを、舌と上顎で、ぷちぷちと潰すのがたまらなく大好きだったといった。
そういって、白い溜息をつき、よけいに縮こまった。
私は、抱えていた弁当箱を開けて、箸でなかみをすくうと、Qの口元へ持っていった。けれどQはかたくなに口を結んで、食べようとはしなかった。
「ねえ」
私はいらいらとささやき、唇のすきまに無理やり指をさしこんだ。たちまち犬歯が喰いこんできたので、あわてて引き抜く。その手をQの頭へそえ、なでてやると、頭骨のごつごつした手触りにぎくりとした。飛びだしそうになった、「死んでしまうよ」ということばを飲みこんだ。
人に捨てられた箱のなかで、Qはどうやら、どんどん弱っていく。
私はどうすればいいのか、すっかり途方にくれている。
Q 蛇はら @satori4
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