第5話 蝕月輪熊アカツキノワグマ

 この世界に来てから、十年や二十年では利かないほどの年月が流れました。

 恐らく、というか確実に、前世よりもこちらで過ごした時間の方が長いでしょう。

 その間、私は山から出ることはなく、悠々自適に生きて来ました。


 そして現在。川や地面が上に、分厚い雲が下に広がっています。

 天地がさかさになっているのです。

 ……いえ、私が逆立ちしているだけなのですが。


「…………」


 現在地は川の上。

 上流、という意味ではありません。

 川の真ん中から飛び出す尖った岩に片手だけで触れ、倒立しているのです。


「ふぅ……」


 息を吐き出します。

 岩に触れていない方の腕はピンと水面と平行に伸ばしています。

 そしてその指先には凪光が一振り。


「すぅ……」


 息を吸います。

 今、行っているのは重心維持のトレーニング中です。

 肉体と凪光、両方のバランスを維持しなくてはならないため、初めの内はとても苦労させられました。


 以前は片足立ちでしていたこの修行。

 しかしそれではあまりに容易ということで、逆立ちでするようになりました。

 逆立ちのバランス感覚がどのような役に立つかは疑問の残るところですが、半分暇つぶしのようなものなのでそこまで厳密な効果は求めていません。


「…………」


 とはいえ、この逆立ちトレーニングにも随分と慣れてきました。

 余程のことが無ければこの状態を一日中でも維持できます。


 嵐程度であれば重心の微調整だけで耐えられます。

 ドシンドシンと地が揺れても動じません。

 「グオオオォォォゥゥゥッ!!」と咆哮が大気を震撼させても、微動だにしません。


「グゥルルゥゥ……」


 先程大きな声で吠えていた熊が、低く唸りながら川に入ってきました。

 血走った目は皿のごとく開かれ、異常発達した牙の隙間からはダラダラと涎が垂れています。

 随分とお腹がお空きのご様子です。


「こんにちは、熊さん。鮭ならもう少し下流の方にいますよ」

「ゴォオウッ!」


 気配の強さはヌシ級。

 五段階評価にすれば上から二番目です。

 このレベルの魔物は話しかけると《意思疎通》でコンタクトを取ってくれることも多いのですが、残念ながら熊さんはそのたぐいではなかったようです。


 後ろ脚で立ち上がり、ざぶざぶと水を掻き分けて来る熊さん。

 その体毛は血のような深紅で、その体躯は通常の熊に倍するほど。

 胸にある三日月模様は他より鮮やかな緋色をしています。


「よっこいせ」


 片腕で体を軽く宙へ押し上げ、空中で姿勢を反転させ、岩の上に片足で立ちます。

 上下が正常に戻った視界では、熊さんが走って来た勢いそのままに、腕を振り上げていました。

 凪光の刀身と同じくらい長く、そしてずっと太い爪が目前に迫ります。


「危ない危ない」


 それを、倒れ込むように前傾して躱しました。

 水面スレスレに居る私のすぐ上を、豪速の腕が抜けて行きます。

 凄まじい風圧に煽られながら、足を前へ。


「《六神通・神足通》」


 宙を・・足場に一歩を踏み出します。

 瞬間、急加速。

 たった一歩で砲弾以上の速度に達し、熊さんが次のアクションを起こすより早く剣の間合いに。


「ゴァ──」

「《神足通》」


 二歩目の踏み込み。瞬間、《神足通》の足場を伝い、大気に激震が走ります。

 それだけの衝撃を生む力を、余すことなく刀に乗せて──、


「ふっ」


 ── 一閃。

 呼気と共に振り抜いた凪光は、絶大な防刃性を持つ剛毛も、鋼糸を束ねたような筋肉も、全てをスルリと斬り裂きました。


「──グォゥゥ……!?」


 断末魔の叫びを上げて、熊さんは川に倒れ込みます。

 脇の下から心臓までを斬ったのですから、致命傷です。

 《レベルアップ》の感覚が、私に彼の死を告げます。


 赤黒く染まり行く水面を横目に、岸へと歩いて渡しました。

 今日はもう、川の上でのんびりと過ごす気にはなりません。


 一滴の血糊も付いていない凪光を召喚解除し、先程の斬撃の反省点を振り返っていると、一陣の風が吹き付けてきました。


『やはり貴殿であったか、仙人殿』

「おや、狐さん。こんにちは」


 突風を伴って現れたのは真っ黒な狐です。

 トラック並の巨体を誇り、尻尾は八本も生えています。

 この山のみならず、山脈単位を縄張りに収める強大な魔物です。


「熊さんでしたら殺しましたよ。むくろはあちらの川にあります」

『手間を取らせてかたじけない。もっと早く吾輩が調停すべきであった』

「調停対象であったのですね……原因は食べすぎでしょうか」

『ああ、奴の底無しの食欲は生態系を狂わせ始めていた。あのままけばいずれは山すら平らげていただろう。どこかで克服するやもしれぬと静観していたが……』


 そこで狐さんは嘆くように首を振りました。


『よもや仙人殿に手を出すほど血迷うとは。……なんと愚かな』

「私はあなた方に比べると小さいので。気配もありませんし」

『それでも仙人殿の佇まいを一目見れば格の違いが、種としての隔絶が分かろうに』

「それを言っているのは狐さんだけですよ」


 調停役を自称する彼は、私を過度に畏れている節があります。

 以前、私の全力・・を見ていたからなのでしょうが、もう少し気安く接して欲しいものです。


「さりとて、《仙人》が卓抜した種族であることは否定しませんが」


 私の強さの秘訣の一つは、《仙人》という種族の生物的強度にあります。

 《仙人》は《人間種》ということになっていますが、人間と呼ぶことが憚られる程度には人間離れした生命体です。


 その寿命に限りはなく、病に侵されることもありません。

 並の刃物では皮膚を裂くことすら叶いませんし、拳一つで大岩をも粉砕できます。

 筋骨も関節も驚くほどにしなやかで、如何なる動きも自由自在です。


 これらのことを《スキル》や《パラメータ》無しで為せるのが、《仙人》という種族です。

 私がその異常性に気付いたのは《仏眼》を手に入れてからでした。

 それまでも何だか体が引き締まっているな、と感じてはいましたが、鍛えれば鍛えるほどに肉体の質が際限なく高まって行くことには、そのとき初めて気付いたのです。


 人間の限界を超え、どこまでも強靭に錬磨されて行く身体。

 全盛期は常に現在、最盛期を更新し続けられる奇跡の体質。

 それこそが《仙人》の強さの真髄なのです。


『思えば、《仙人》という種が他におらぬのが原因やもしれぬな。竜やオーガのように充分な個体数があれば、皆、《仙人》の強さを知れるだろうに』

「その考えには一理ありますが、しかし私も私以外の《仙人》を見たことは──おや?」

『どうされた?』


 私の感知範囲で奇妙な気配の動きを感じ取りました。

 淀んだように暗く、昏い。雨夜の闇のように掴みどころが無く見通せない。

 そんな不可思議な気配が、ある一点に集まっています。


「何やらおかしな気配がします。少々席を外します。《神足通》」


 宙を蹴り、山々の間を翔けます。


《六神通》ランク8:神通力を扱える。

《天眼通》:自他の《ステータス》の詳細を知れる。

《神足通》:望む場所へ足を運べる。

《天耳通》:聴力を強化できる。

《他心通》:他者の心を読み取れる。

《宿命通》:死んだことのある者を見分けられる。


 《六神通》が《スキルレベル9》となり、これら五種類の能力を扱えるようになりました。

 その内の一つ、《神足通》は空中を足場にするなど様々なことに使えるため重宝しています。


 どことなく不穏さの漂う鈍色にびいろの雲の下。

 波乱含みの空気を切るようにして空を翔けるのでした。

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