第2話 伊海さんが語ったこと
私はひょんなことから、あるアパートの管理人になったのですが、きっかけは、交通事故に遭遇したことです。その事故に会う前、私は住所不定になっておりまして、仕事はなんとか見つけてやっていましたが、派遣の仕事でしたので、同じ仕事に就くのは長くて一か月、ほとんど日替わりで、異なった仕事をし、まあ早い話がその日暮らしをしていたのです。当時はアパートを借りるのが夢でした。なにせ仕事と住まいの二つはこの世の中では、コインの裏表みたいなものですからね。しっかりした仕事がないと、派遣といっても日雇いのようなものをやっていたのでは、アパートなんてなかなか借りれません。
当時は、ネットカフェなどを利用していましたが、派遣の仕事だと、金は入ると同時に出ていき、日に日に自分の心や体が磨滅していくような感じがしていました。特に身体よりも気持ちのほうが、あぶないといいますか。当時を思えば、笑うことが極端に少なかったようにおもいます。それでも仕事がある時はまだいいのですが、途切れると、なんだか社会から取り残されたように思って、余計に心が落ち込みました。そのうち、ある年の9月の半ばでしたが、とうとう仕事も、そして当然金もなくなって、携帯も料金がはらえずに停止され、電池も切れてしまいました。もうにっちもさっちもいかなくて途方に暮れ、昼夜構わずほっつき歩きまわっていました。そのころ、ホームレスの人と知り合いになり、食べ物を分けてもらったり、炊き出しのある日を教えてもらって、ようやく何日か過ごしたこともありましたが ホームレスになりきる覚悟もなくて、仕事を探しに、この街にきたんですけれど、何もなくて、食べ物にもありつけず、そうすると何をするのもおっくうとなり、横になるしかありませんでした。
まあ横になるといっても公園のベンチの上や、ビルの横の庇の下とかで、口にするのは水だけ、ある人が、人間は食べた分しか働けないといっていましたが、実際三日も水ばかりだと、体を動かすのもそれだけで大仕事となる。なんだか先の見通しも立たず、このまま生きていくのもしんどいと思うようになっていました。そのうち、考えることも面倒で、道路わきの公園のベンチで横になって宙だけを見つめていました。雲はいいな、じっとしていたり、風に流されたり、子供のころは死ぬとあの雲の上に行くんのだと思っていたものだったが、などとつまらない思い出が浮かんだことをよく覚えています。またその時、ふっと死んだあとはどうなるのだろうと思ったことも覚えています。「まあ死んだとて、誰が悲しむでもないし、こんな役立たずいなくなったって誰も気にしないから死んでもいいや、俺の人生はつまらない人生だったな」とあきらめの心境になったのでした。でも、その時、「まだお前さんの果たすべきことはあるよ」とどこからか声がしたのです。
でも、その声を聴いた後のことはあまりよく覚えていないのですが、その直前、その公園の目の前の道路で工事が行われていて、交通誘導のおじさんたちが、くたびれた紺の制服に白いヘルメットをかぶり、プラスティックの赤い棒を振り回しながら、働いていたのを覚えているぐらいで。もう腹が減り、動きたくなかったので、なんだか、もうどうでもよくなり、なんとなくその工事現場の方に注意が向いたことは覚えているのですが。その時「まだお前さんの果たすべきことはあるよ。」という声が聞こえたわけですが、その後のことは、全く記憶になくて、どうも、後で聞くと、私は目の前のその広い道路を、ふらふらと横断し始めたらしいのです。結構車が行きかうところに出て行ったらしくて、誰かが「危ない」と大声を出し、それに私も反応したらしいのですが、私は後ろに引っ張られたようで、気が付くと道路の端にしりもちをついており、目の前を大きなトラックがゴーっと通り過ぎて行ったのです。脇に立っていた男の人がなんだか怒鳴っているようでしたが、口が動くのは見えても、まるで声は聞こえず、私には何がなんだかわからず、上の空でした。
ようやく耳が利くようになって意識がはっきりすると公園のベンチに横にされて、そばの人が「多分、熱中症だろう。」とかなんとか言っていた声がきこえました。その男の人がジュースを飲ませてくれました。でも、味はほとんど覚えていませんが、なにかが喉を通ったといった感じでした。その後も放心したように道路端で座り込んでいたらしいのですが。そのうち工事が終わり、工事道具が片付けられ、トラックが来て工事の看板やら、柵やら、カラーコーンを片付け始めました。だいたい片付いたころ、さっき世話してくれた男の人がそばに来て、「にいちゃん。暇かい。」と声をかけてきた。最初は私に声をかける人なんていないと思っていたから、スルーしたけど、目の前まで来て、「にいちゃん、どうだ、この交通誘導員の仕事を手伝ってくれないか」とヘルメットをとって、その角刈りの頭を見せながら、真顔で言ってくるのでした。それが、犀西さんでした。
なんでも、このあと夜間の交通誘導があるが、人が足りないからというので、早速に車に乗せられて、事務所でユニホームを渡され、なんでも講習を受けなければならないが、今日は見習いと言うことで現場に立つことになりました。最初はふらふらだったけど、途中で差し入れと言ってパンと缶コーヒーが支給されて、がぜん体が動き出した。現金なものです。
それからその会社で交通誘導員として働き始めました。日給払いだったし、それからしばらくは昼と夜の仕事を続けることとなり、昼と夜の間の2時間ほどの時間だけ車の中に寝てすごし、住まいの心配をしなくて済みました。でも、その後、いつも同じユニホームで4日ほど過ごしたら、犀西さんから、「いくらなんでも、それじゃ臭いから風呂にはいれ。」といわれ、仕事の合間に銭湯に行ってお湯を浴びたら、もう生き返った気がしましたね。それから犀西さんから、寝るところがないと困るだろう、俺のアパートにしばらく泊まってもいいぞと誘われて、犀西さんのところに転がり込んだのです。犀西さんが昼間の仕事をして、私は夜の仕事をし、昼間に寝させてもらいました。1か月くらいそうやって過ごし、部屋代はただにしてくれたので10万円ぐらい貯まったら、犀西さんがそろそろ自分のアパートを借りるといいよと言ってくれたのです。でも、まだお金が足りないだろうし、保証人もいないから無理じゃないですかといっていたのですが、いいところがあるんだと不動産屋へ連れて行ってくれました。
不動産屋は、ずいぶんとへんてこなところにありました。細い路地を何度も曲がって、人通りがあまりない道に面し、隣に小さな鳥居があって、参道らしきものが見え、奥には社があるようでした。その社の木立を背にひっそりと建っていました。看板が変わっていて、笈祭屋とかなんとか書いてあった気がします。ちょっと見には不動産屋には見えなかったけれど、でもガラス戸には、何件かの不動産情報が張り付けてあり、中段には「格安、住み心地保証付アパート有」という大きな張り紙があった。そのガラス戸を犀星さんががらがらと開けて、中に入ろうとすると、60歳ぐらいにみえるおばさんが、待ち構えるように戸口に立っていました。私はびっくりして、思わず後じさりしました。犀星さんが、「この人が不動産屋さんだ」と言って、私を事務所のなかへ押しやり、私は、おばさんの脇をすり抜けるように、入りました。おばさんはおかっぱ頭で、いかにも働き者といった印象でした。背は高くなく、むしろ女性としても低い部類と思われたけど、やや丸みを帯びたというか、スマッグみたいな上張りを着ていたので余計に、ずんぐりむっくりした体型でしたが、でもうごきは敏捷でした。スマッグの裾をたなびかせるように戸口から、すぐに奥の応接セットのところへ私を導いてくれました。顔のまんなかの鼻は小さく、唇は薄く、やや開き気味でした。そして大きくはないがくりくりっとした目をもっていて、その小さな目で私のほうを追いながら、「いらっしゃい」と、薄い唇をさらに伸ばしてお世辞笑いをしました。
「そこの椅子にどうぞ」と私を奥の応接セットの前に立たせると、おばさんも立ったまま、その目をしばたたせて、私をじっと眺めたので、私は身震いしてしまいました。大丈夫かなと不安を感じたけど、今日は大丈夫だと思いなおし、風呂にはここ3日ほど入っていないが、穿いてきたチノパンは洗ったばかりだし、Tシャツもきれいなものを着てきた。ジャンパーは、少し汚れているが、そう悪い感じはないと思うと恰好は大丈夫だと。なんせ世の中うまくやるには第一印象が大事だから。でも、おばさんの小さな目にかかっては、チノパンの膝についたシミや、ジャンパーの袖口の擦り切れ跡まで見破られそうでした。唐突に「歳はいくつだい」とおばさんがぶっきらぼうに訊いてきた。なんだか緊張して言葉がなかなか出ないでいたら、おばさんは、こちらの答えなんかどうでもいいというように、その小さな目をゆっくりと動かして、頭のてっぺんからつま先まで、まるで私を値踏みしているように、眺め回しながら、「あんた何月生まれだい」「生まれはどこさ」「両親は」「今の仕事は面白いかい」と、私がソファーに腰を下ろす間もなく、機関銃のように質問を浴びせた。そんなむずかしい質問はないので今度はなんとか答えていると、おしりがなかなかソファーに載せられなく、ようやく質問が途切れて、落ち着いてソファーに腰を下ろすと、おばさんは犀西さんのいる方に向かって「大丈夫そうだよ」と言った。おばさんが、事務椅子をぐいと寄せて、私の脇に来て、「私はこの不動産屋の主人の神守だよ」と言ってくれたとき、犀西さんはまだいたと思うけど、私がソファーに座って、ようやく人心地ついて、おばさんが名刺を渡してくれて、受け取ったときに、あたりを見回したら、もう事務所のなかにはおばさんと私しかいませんでした。おばさんの名刺には、「神守いのり」という名前がでかでかと記され、そのほかには電話番号があるだけでした。
「1Kの部屋が空いている。ここから遠くないところだよ。それに今日から入れるし」と、なんだかすでに犀西さんから話が来ていたようで、お膳立てがすっかりできていました。神守さんは、申込書を取り出すと、きりっと真面目な顔つきをして、「いいだろ。じゃあ、ここに今日の日付と名前を書いて。最後のところに拇印を押して」と、さっさと話しを進めました。「印鑑ならありますよ」というと「拇印がいいのさ」との返事で、面白いなと思ったけど。まあ、私もその時は、どんなところだって、部屋が借りれるのなら願ったりかなったりだったので、書類に名前を書いて、拇印を押しました。すると神守さんは、「じゃあ、行こうか」と立ち上がり、無造作にガラス戸を開けて、「荷物は全部持っておいで。もうここには戻ってこないから」とさっさと外へ出ていきました。もう行くのかと、こんなに早いとは思わなかったから、私はあわてて、持ってきた荷物、といっても寝袋と、衣類などを入れたずた袋しかなかったが、を手にすると「おばさん、カギはかけないのかい」と訊いたら、「いいさそんなもの」と、ずんずん歩いていくので、私はあわてて、そのあとを追いました。追いつくと、神守さんは私の顔も見ずに、「私はね、この商売を永年やっているよ。でもね、なかなか難しいところがあってね。まあそのうち分かるから」というのです。何が分かるのかなと思ったが、深く考える暇もなく、神守さんの「アパートはちょっとわかりにくいところにあるから、私にちゃんとついておいで」の声に、そちらに注意を向けなければならなかった。
数分歩くと、木々に囲まれた高い屋根の大きな家が見えた、「大きなお屋敷が、ほらあそこに見えるだろう。あそこは大黒屋敷といって、もとは農家で、このあたりの地主だ。でも、先祖が詐欺にあって、結構土地を騙し取られて、当主が自殺したりと、いろいろあったが、今の当主が持ち直して、土地は減ったとはいえ、まだまだ広い土地持ちで、このあたり一体の土地はまだ大黒一族のものが多い。これから紹介するアパートも、その大黒一族のひとりの所有するアパートなんだが、管理を私に任せたのさ」と、それから、行く先々に見える家々やアパートを、ここはどうも運気がないとか、ここは方角がいいとか、あそこは家相がいいとかなんとか、ひとつひとつの家を品定めするようにしゃべり続けた。私にはそういわれても、とにかく初めての土地で、ついて行くのが精いっぱいで、どの家を、どのアパートを指していうのかわかりませんでしたが、目当てのアパートが見えるまで神守さんはしゃべり続けました。何度も、細い道を曲がりながら、小さな十字路をわたり、T字路を右へ曲がると、その先に空き地が見えました。
小さな溝があって、汚水が流れていました。どす黒く、嫌なにおいがし、橋と言うよりは、その溝にかけられた蓋といった具合の木板を渡った。渡ると目の前に、空き地があって、入り口付近の真ん中に大きな木がつややかな緑の葉を茂らせ、風がかさこそとその葉を揺らしていました。葉擦れの音はまるで囁き声のように耳に響き、よく見ると神社なんかによくある楠でした。空き地はこの辺りでは珍しく、舗装もなく、陽ざしを受けて、白っぽい地面が顔を出し、ところどころ砂利が敷いてありました。ガラーンとして、奥には高い垣根が行く手をふさぎ、左手には工場のような建物が、今は稼働していないのか静かに佇んでいました。神守さんは急にしゃべるのをやめて、あたりを見回しながらちょっと間をおいてから、居住まいを正して「あそこのアパートが、お前さんのあたらしい住まいさ」と前方の広場の右側の建物を指差しました。おばさんの伸ばした指の先に、ぽつんとアパートが建っていました。とても古びていて、壁がだいぶ汚れ、階段が左右に二つついている二階建てのアパートが奥に伸びていました。8部屋のアパートで、部屋の外には、雨にさらされ崩れた段ボール箱や新聞紙の束などが、なん部屋かの前に重なっておいてあり、朽ちた中身がはみ出す様子が遠くからもうかがえました。洗濯機が二台、二階と一階に一台づつありました。
アパートに近づくと、神守さんが立ち止まって、両手を合わせなにやら呪文のような文句を吐いた。と急に空気を濃く感じました。10月下旬だったけど、秋とは名ばかりで、日差しは強く、汗ばむほどでしたが、湿り気とは違う空気のよどみのようなものを感じました。植物の青臭さが漂ってきて、なんだか、一瞬、1回吸い込んだだけでは、空気が肺に達しないと思うほど、息苦しくなり、3、4回呼吸を繰り返し、ふと、きっと喘息や過呼吸というのはこういう感じの、100倍悪いのだろうと思ったほどでした。神守さんは呪文を言い終えると、背筋を伸ばし、大股でアパートに向かいました。アパートに近づくと、息苦しさは消えていきました。何気なく、後ろをふりむくと、背後の家々が紺色がかって見え、なんだか光線が陰ったようだった。まるで、水の中にいて、背後で水の扉が閉まるように感じました。上を見ると太陽が、急に青っぽく見え、周りの色が変化するように感じたが、よく目を凝らして見るとそう変わっていませんでした。一瞬何かが起きたのかと不安を感じ焦ったけど、神守さんが平然と先を行くので、あわてて追っていきました。神守さんのそばにいれば大丈夫だと感じたからです。
アパートの前は、凸凹した地面で、石ころも転がっていて、なんだか懐かしい感じがしました。脇をさきほどわたってきた流れが続いていましたが、もう水は淀んでいました。「数年前まで、裏の梨畑にひかれていた用水路なんだが、もう梨はつくっていないので、使っていないのさ」と、流れに目をとめた僕に神守さんは前を向いたまま言い訳がましく説明をしてくれました。私の前を行くおばさんだったけど、後ろにいる私の動きが分かるようでした。
アパートに近づくにつれ、そのアパートが、先ほど見た通り、そうとうに古いしろものであることがわかってきました。壁はモルタル様で、表面はざらざらし、カビのような黒いまだらが広がり、着色されていたのでしょうが、褪せていて、もとの色が何色だったか判然としなかったし、ひび割れが目立ち、屋根は瓦で覆われていたものの、端の瓦が崩れかかっていました。鉄製の階段は、錆びついていて、錆と埃などがところどころ切れ端のように垂れ下がっていました。屋根の雨どいも一部垂れ下がり、竪どいは、下の部分が腐ってなくなっていました。
神守さんは、一番手前の部屋に案内し、下の角が、傷んで、擦り切れてだいぶ円くなっている板戸を鍵もささずに、ドアノブをひねって、開けました。「ここがあんたの部屋だよ」と、中は、アパートの外見と異なって、清潔だった。「住まいの部分は奥の1Kだけど、一人で住むには十分だろう」「ここは管理人が住むこととしてあったので、土間を広くとって、居住部分は小さいけど、その分、安いから。あんたが、管理人をしてくれれば、家賃はタダでいいし、ガス、電気、水道代も大家持ちだし、少しだけれど手当も付けてあげるから」と言いながら、俺の返事は待たずに「じゃあ、きまったね。今日から、あんたがここの管理人さ」と神守さんは一方的にしゃべって、独り決めして言うのだった。
管理人の件は、私には初耳でしたが、とにかくタダなんだから、なんの異存もあろうはずもなかったが、一応「契約書とかは」と訊くと、「さっき書いてもらった申込書があるさ」とくりくりっとした目をいっぱいに開いて、こちらの気持ちを見透かすように私を見るので、それ以上は何もいいだせなかった。「まあ、悪くないだろう。でも、しばらく使っていないから、後できちんと掃除をするんだよ。掃除道具は一揃いおいてあるから。じゃあ、後で今月の手当の3万円をもってくるからね」と鍵を渡すと、ついでに左手を前に出しました。そこにはパンパンに膨らんだビニール袋がありました。あれと私はびっくりした。さっきからこの神守さんの後をついてきたけど、そんな袋を持っているなんて気が付かなかったからだ。神守さんは「これは差し入れだよ」というと私の右手にビニール袋を握らせた。「管理人って、いったい何をするのですか」と尋ねたら、「なに、住んでいる人がなにか言ってきたら話を聞いて、私に連絡してくれればいいのさ。ほら、ここに電話機があるだろう。これで電話してくればいい」と入り口を入って、すぐ右側の壁に取り付けてある電話機を指さした。ダイヤル式の古いものだった。
「そうだ、電話機で思い出したけど、ここでは電波の関係で携帯電話は使えないから。なんだろうね、あのそばの廃工場の関係だかなんだか、通じないのさ。だからこの電話を使っておくれ。電話代は大家持ちだから。いくら使っても大丈夫だから。まあ電気もガスも水道も、大家の契約なので、みんな使えるようになっているからね」という。私が「携帯、少し離れたところへ行けば使えますかね」と訊くと「どうかね、私は携帯電話やらないから、よくわからないけど、携帯が使えないのはこの周辺だけだと思うよ」との返事だった。私は、変なこともあるものだと思いながらも、あまり気にせず「俺、集金なんかできませんからね」と言ったら、「金を扱うことなんてないさ。このご時世みんな銀行振り込みだよ。まあ、そのうちわかるし、困ったら、なんでも私のところへ電話して来ればいいさ」という返事で、安心をしました。
最後に神守さんは私の顔をじっと見て、「おっと、いい忘れるところだった、一階の反対側の104号室は、誰も住んでいないから入ってはいけないよ」とはっきり言うと、わかったねといった顔つきをし、くるっと背を向けると、長居は無用と言わんばかりに、とっととアパートを後にした。私はほっとし、なんだかようやく努力が報われたような気がした。だから私の顔は、たぶんそのとき、にやけていたと思う。とんとんと話が決まって、なんだかキツネにつままれたみたいだったので、思わず左のほほをつねってみた。痛かった。
しばらくして、我に返ると、私はもってきたずた袋と寝袋を放り投げ、神守さんからもらったビニール袋を開けた。なかにはジュースやらおにぎりやらパンやらが詰まっていた。さっそくそれをかじりながら、部屋の中を見渡してみました。畳は、古くところどころ擦り切れていたが、まあまあきれいでした。4畳半だけど、広く感じました。畳の間に続くキッチンは板の間で1畳くらいありました。なんといってもうれしかったのは、カーテンがついていたことでした。西側なのだろう、梨畑跡に面した掃き出し窓にカーテンがついていました。薄ぺらい、化繊でほとんど襞が伸びた青いカーテンでした。遮光といってもたかが知れているけれども、それでも目には優しかった。犀西さんのアパートにはカーテンがなかったので、西向きの窓に陽が顔を出すともう寝ていられなかったのです。カーテンがあれば、まぶしさから解放される。それに風呂付なのも助かりました。犀西さんのアパートは風呂がないので、銭湯に高い風呂代を払って行かなければならず、ついつい洗面所で体をふいておしまいにしました。風呂場も風呂桶も、年数は経っていて、汚れてはいたけれど、水を流せばなんとかなるレベルでした。さっそく神守さんが言っていたように、バケツを出して雑巾で、あちらこちら拭いた。案外きれいに見えたが、雑巾をかけてみると、畳も埃がたまっていて、一回ではきれいにならず2回ほどかけると、足の裏が汚れない程度になりました。土間のテーブルも椅子も埃だらけだったし、小さな水屋の中も丁寧に拭いた。幸い、バケツも雑巾も一そろいあったうえ、片手鍋が一つと小さな薬缶も置いてありました。
掃除が終わったところで、外を見ると、もう陽が傾きはじめていました。西日を見ていると、なんだか、私にしては大きなことをやったという達成感がありました。上出来でした。自分一人の部屋が持てた。私はうれしくなりました。4畳半の畳の間で大の字になり、畳の感触を楽しみました。犀西さんのところには、いつまでも世話になれないし、このままではいけないと感じていたから、なんというか、「俺だってなんとかやれる」と思うと、胸がすく思いがしました。そうして一休みをしていると、まったく外から音がしないことに気が付き、最初は耳が少しおかしくなったのかと思ったけれども、手を叩けば、その音が部屋に響いて聞こえる。でもその音が消えると、全く音が消えて、なんだか耳がおかしくなりそうな感じでした。おかしいな、外はどうなっているのかと微かな不安を覚え、アパートの外を見て回ろうとしましたが、なんだか、急に疲れが出たようで、うつらうつらしはじめ、畳にごろんと横になると瞼がとろんとしてしまいました。
そして、しばらく眠りに落ちたのだと思います。ぱたっんとドアが開く音がして、気が付くと寝ている私の頭の横をだっだーと何かが駆け抜けたとおもったら、窓際のカーテンが揺れて、小さな足が二本カーテンの下に生えていました。そこへ、「この餓鬼」と労務者風の男がずけずけと、サンダルも脱がずに入り込み、私がいることも無視して、窓際に向かい、カーテンを持ち上げ、中にいた男の子の腕を捕まえて、引きずりだすと、拳を男の子の腹に一発かませました。男の子は、うっとうめき声をあげると、前のめりになり、自由になる手で腹を押さえました。男は、さらに男の子の後頭部を思いっきりひっぱたくと、男の子は前にそのまま倒れてしまいました。男は倒れた男の子を両腕で抱え上げると、「わかったか。もうこんなことはやるものじゃない」と言いながら部屋から出て行きました。男の子は、意識を失ったようで、白目を見せて、まったく身体を動かさず、まるで死んだように見えました。帰りも男は完全に私を無視し、ドアの向こうへ消えてしまいました。その間、ものの1.2分であったでしょうか、私はあっけにとられて、一言も口がきけず、体を動かすこともできませんでした。起き上がりながら「あれはなんだったのだろう。夢でも見ていたのかな」とまだ虚ろな頭を回転させながらも、心臓だけは高鳴っていました。夢から覚めたような感覚で、考えれば考えるほど本当のことのようには思えませんでした。それに管理人と言っても、まだ他の人にかかわるのも嫌だったから、今のことは忘れるつもりで、またごろっと横になりました。
また静寂が部屋を支配しはじめ、眠気が再び襲いはじめると瞼がおもくなってこっくりとし始めましたが、眠りにつく間際に、悲鳴が静寂をつんざき、そして梨畑にむかって開いている窓の外を、何かが落下した気配がしたかとおもうと、ダサッと言う鈍い音がしました。なんともいえない大きく気味の悪い音で、なにかがつぶれるような響きもまざり、その音が耳に入ると、胸騒ぎがし、あわてて窓のへりにいざって行きました。ちょうど梨畑の前で、狭い用水路とアパートの2メートルちょっとの隙間に女性が、アパートに平行に右に頭を向けて、うつぶせに横たわっていました。窓からのぞくと、黒い長い髪が頭を覆い、顔は判然せず、ただ女性らしく薄い黄緑のTシャツに青いスラックス姿で白いきゃしゃな手が顔の横に広がっていました。私は驚きとともに恐怖で、本当に心臓がとまるほどに、息もつけなくなって、体が固まってしまいました。まるで死んだように女性はそのままで10分ぐらいまったく動かなかったのですが、そのうち手指が動いて上半身がこちらを向き、腕をささえに上体が少し持ち上がりました。私は恐ろしさに、起き上がろうと思いましたが、腰が抜けて、座り込んでしまいました。髪で覆われた顔が、ゆっくりと動き、私は、思わずウエーと声をあげ目を閉じました。子供のころに聞いたノッペラボーを思い出したのです。その黒髪の下は、目も鼻も口もない、お化けかと一瞬目をつぶってから、おそるおそる目を開くと、女性はふうーと息を吐きながら、あげた顔は髪が片側に垂れて、一つの目と半分の鼻と口を顕しました。微かに青い匂いがしました。
うすく見開いた目が私をとらえていました。まるでこちらの姿が判然とせず、確かめようとでもするかのような眼差しで、私は呆然とそれを眺めるしかありませんでした。死んでいるのか、それともお化けかと思い息が止まるほどでしたが、私に向けられた目が瞬きをしたので、生きていることがわかりほっとしつつ、でも、声をかけていいやら、とまどい、いやこれは救急車か警察を呼ぶべきかと頭の中で、何かしなければという思いがぐるぐると無限ループに落ち込みはじめました。
女性は、しばらく呆然の態で、その態勢で横たわっていましたが、ゆっくりと身体を回転させて仰向けになり、その顔をさらしました。顔の右側は髪が覆っていて、よくは見えませんでしたが赤い血のようなものがうかがえました。私はしかし、その整った、鼻筋が通り、細面で、切れ長な目を持つ女性の顔に引き付けられ、長い間見つめてしまいました。10分以上たって、女性は、ようやく事態が分かったという風な目つきとなり、きっと私を睨みつけると「何じろじろ見てるんだよ」と低い声で啖呵をきりました。私があわてて、顔を背け、あらぬ方に目を向けると、すぐ「今度は知らんぷりするつもりか、このやろう。いい根性してるじゃねーか。」と脅すよう言い、それから「そんなところに猫みたいにぼーっとしてないで、手伝え。気が利かねーやつだな。こちとら上から落ちて痛いんだ。おーいててて、起きるのを手伝えよ」と怒鳴り始めた。私は慌てて、下に降りて、彼女の手と腕をつかみ、引っ張り上げようとした。「痛てー、そんな強く引っ張ったら痛いだろ。なんて手加減のわからないやつだ。あたしは怪我しているかもしれないんだから、もっとそっとやれよ」
最初は、死んだのかと身構えましたが、威勢のいい言葉がぽんぽん飛び出すので、安心したり、その剣幕に押されたりと、さきほどまでの驚きは消えて、なんでこんなに怒られなくてはいけないのかと、困惑しながら女性を助けおこしました。彼女は、それでもぶつぶつ言いながら、起き上がると身体のあちこちが痛むようで、顔をしかめながら「おじさん、ありがとう。もう大丈夫」といい「あんた管理人さんでしょ。あたしは、201号室の酒井だから、覚えておいて」と言い捨てて、ゆっくりと首をかしげながら、足を引きずるようにアパートの角を回って消えて行きました。私の方は、なにをしたらいいかわからずに、去っていく彼女をあっけにとられてただ見送るだけでした。
子供は入ってくるし、女性は落ちてくるし、驚くことばかりで、頭の中の整理がつかないでいるうちに、外はすっかり暗くなってしまいました。まだ眠るのには早いし、目はさえ、外を見ているとどこかの部屋の声が妙にはっきり聞こえるようなったのです。「ママ|「ママ」と断続的に聞こえるのでした。私には、その声がなんともいえぬ悲哀を帯びて、訴えるように感じ、自然と立ち上がって、その声のするところを探すことにしました。その声は、最初は耳に反響するのですが、なかなか方向はつかめませんでした。一部屋一部屋、ドアの前にたって、耳を澄ましましたが、はっきりしないのです。一階を回り、二階も回ってみたが、どの部屋とも特定できませんでした。そのうち、声はまったく聞こえなくなりました。耳をいくら澄ましても、それらしい声はしなくなりました。なんだ空耳だったか、それでもずいぶんリアルな感じがしたなと、いぶかりながら部屋に戻ってきました。
帰ってみると、なんだかんだと小一時間探し回っていたので、夜は更かまっており、すぐに寝入ってしまいました。そうやってどのくらい眠ったでしょうか。ふと女の子の声がしたと思って深夜に目が覚めました。しかし、それはあのママ、ママと呼ぶ声ではなく、隣室の声が聞こえてきたからでした。声から判断し、隣室には、小さい子供と、若い夫婦ものが暮らしているようでした。
最初は、隣近所の騒音はアパートでは日常茶飯事だし、無視して寝ようと思いましたが、だんだん寝れなくなってしまいました。というのも、はじめは子供の声と母親らしい子供をしかりつける声でした。多分、テレビでもつけてワイワイやっているのかと、ただうるさく思っていたのですが、そのうち異様な声が聞こえてきたのです。突然、子供の泣き騒ぐ声がし、それから女性の声で「出ていけ!」とわめく声が聞こえました。「自分のアパートへ帰れ」という声が、何度も何度もくりかえされ、そのうち、男の声もまざり、「なんだと」「うるせえんだ」といった声が聞こえるようになり、男の声と女の声で怒鳴りあうのが響いてきたのです。「夫婦喧嘩か」と、騒がしいとは思ったものの、夫婦喧嘩は犬も食わないんだから、間に入るのもつまらないし、まあしばらく好きにさせておけと、うるさいのを我慢して横になっていたけれど、喧嘩はいっこうに収まる気配がなく、むしろエスカレートしている様子でした。
そのうち女の声で「殺してやる」という言葉が飛びだし、それに呼応するような男の声で「なんだとー、てめこそ、殺されるぞ」というやり取りが、そしてその間に子供たちのえんえん泣く声が耳に響いてきて、静かになってほしいという希望は、もろくも崩れ、むしろ、なにか事件が起こるのではないか、殺人事件にでも発展するのではないかと不安が、大きく膨らんできたのです。もうそうなると、いてもたってもいられず、どうしよう、どうしようと焦るばかりで、目はさえて眠れず、これだけ大きな声を出されては俺だけでなくほかのアパートの住人にも迷惑だし、注意すべきとだと思いましたが、でも隣の人がどんな人かわからなくて、文句を言ったら、話の分かる人ならいいけれど、それでも男女とも興奮しているし、逆に切れられたら、と思うと、勇気が鈍るのでしたが、とうとう我慢も限界にきて、ままよと表に出ると、何も考えず隣室のドアをどんどんとたたき、思わず「静かにしろ」と二度もついつい怒鳴ったのです。その怒鳴り方がよかったのか、どうか、そのあとはシーンとして、全く声も音もしなくなりました。隣室の住人の方がむしろ私を怖がったのではないか、悪いことをしたのではないかと少し気になりましたが、とはいっても夜は更け、静かになったことで満足し、眠たかったので私はそのまま寝袋に潜り込むと寝入ってしまいました。
翌朝、といっても、もう昼近くでしたが、ようやく起きだした私は、玄関のところに、白い封筒と、またパンやらおにぎりやらの入った袋をみつけました。封筒の中身をみると、昨日おばさんが言っていた管理人としての手当でしょう、3万円が入っていました。そのあと隣に昨晩の非礼をお詫びしようと考え、もう昼近くでしたが。ドアを叩きました。しかし、返事はなく、もう仕事に出たり、子供は学校にでもいったのだろうと勝手に思って、それ以上は何もしませんでした。隣の人が帰ってきてからにしようと、その後は昨夜のことは忘れて、すっかり安逸な気分になってしまいました。住まいはあるし、金は入ったし、交通誘導のアルバイは、落ち着いたら再開することで連絡してあったから、1週間ぐらいは連絡しなくても大丈夫でした。そうして日がな一日、安穏としていると、あっという間に夕暮れとなってしまいました。しばらくして、また昨日の男の子が脱兎のごとく、部屋に入ってきたのです。
今度は、しっかりと入ってくる男の子の姿を捉えました。男の子は、今回は、玄関からは死角となる、4畳半の間とキッチンの仕切り壁の脇に隠れました。そして、また昨日の男が開け放たれた戸口から挨拶もせずに入ってこようとしました。その時ちょうど私は、外の様子を見ようと立ち上がって向きを変えたところに男が玄関から入ってきたので、鉢合わせしました。男は「うちのガキが、お宅の部屋に入ったろう。戸をきちんと閉めておけばいいものを」と今度は、私に向けてどすの効いた声でいいました。私は、とっさに、「いえ来ませんよ」と言ってしまいました。昨日の男の私を無視した振る舞いが気に入らなかったせいもあるけど、口からそのことばを吐きながら、他方でしまったと思っていたものの、それ以上何も言わずに、動かず男の前に立ちつづけました。あらぬ方に目をそらしながら、男は、「何を言いやがる、居るだろう」と大声を出しながら、土足のまま、部屋にあがろうとするので、私は口の中がカラカラになるのを感じながらも「サ、サ、サンダルは脱げよ」とようやく声をだし、それ以上男が入るのを阻止しました。「てめー、嘘をつくと、ただじゃおかねーぞ」と、アルコールでも入っているのか、臭い息を浴びせてきました。しかし、いい酒でないのか、顔は青白っぽく、不健康な色をしていました。声は乱暴でしたが、目は焦点があっておらず、私の顔をまともに見ていません。男は体格がよく私は怖かったのですが、男の方も私の態度に怯んだ様子だったので、その風体を品定めする余裕ができました。40歳くらいでしょうか、職人らしく短く刈った髪は、やや伸びていましたが、細い眉毛で、いかつくはあるが、痩せて、しわがいくつか見える面立ちを見、その大きく見開いた目を見ると、うつろで、およいでいるように感じました。すると、こちらも少し気が大きくなって、男の前に立ちづけました。そして再び「誰も来てない」と、また心にもない言葉を、今度はよりはっきりと吐いたのです。
男は私の態度に、驚いたように、びっくとし、部屋のなかを一瞥しました。その瞬間、かたと背後で男の子の動く気配がしました。その一瞬、私は、体がこわばり、このやろー、やっぱいるじゃねーかーと男がいきり立つ姿が脳裏にうかびました。そして、筋肉質な腕の先にある手拳が飛んでくるものと目を閉じ身構えました。その時、みゃーと鳴き声がし、猫が男の背後をゆっくりと通りました。男は、はっとし、怒気がぬけ、その場のこわばりがとけました。目の前の男はふりむいて猫に気づくと、急にばつが悪そうに、部屋の中をじろじろ見まわすばかりで、最後に「なんだお前の家は、何にもねえところだな。これじゃ、隠しようがねえや」と捨て台詞を吐いて、よたよたと、「どこ行きやがったんだ、あのガキは」と言いながら出て行きました。
そのあと、どんどんと階段を上がる音、そしてぎーばたんとドアが閉まる音を聞くと、私は、ようやくほっとして、その場に座り込んでしまいました。そこへ先ほどの男の子が寄ってきて、昨日は男に担がれて、よわよわしい感じでしたが、子供らしい健康そうな顔をみせました。でも言うことは、「おじさん、しょんべんちびってるぜ」と私の足元を指差し、「だらしねーな」とあざけるのでした。確かに、怖かったのです、先ほどは気づきませんでしたが、じとーっと、太ももから足首にかけて生温かい液体でぬれたズボンが太ももにへばりつく気配を感じ、そして足下の小さなシミが目に入りました。「でもおじさん、やるじゃねーか。助かったぜ」と男の子は私の顔を見ながら言いました。「なにを、このガキ、俺はまだおじさんじゃねーぞ」とようやく声を振り絞って、言い返しましたが、男の子は「俺はガキじゃね。おれにはれっきとした豊という名前があるんだ。それにおじさんはやっぱりおじさんだよ。くたびれた顔しているもの」とまじまじと私の顔を見ながら言い放ったのです。「このガキ、生意気なこといいやがって、そんな減らず口をたたくから、お前の父ちゃんが怒るんだろう」と言うと、男の子は「ガキじゃない。俺にはちゃんとした名前があるんだ。豊だ。それにあいつは俺の父ちゃんじゃないや」と言い残し、くるりと後ろを向くと、急にしょんぼりとした背中を見せながら外へでていきました。子供の言葉に唖然としながら、あわててしょんべんで濡れた衣類を着替えて、畳のシミをぬぐっていると、なんだか背中がぞくぞくしてきました。
男の子が今日も入ってきたので、何か予感がし、まさか昨日の女性が再び落ちてくるわけはないと思いながらも、あの女性に会えるかもしれないという気持ちもあって、私は、窓に寄ると上を見上げてみました。するとがたがたと上の方で音がするので、窓の外に降りて上を見あげると、昨日の女性が屋根の上に立っていました。見た瞬間、女性は手を広げて、まるで飛ぼうとするかのように空中に躍り出た思う間もなく、キャーと叫びながら手足をバタバタさせて頭から私の目の前にドサッという鈍い音をたてて地面に墜落しました。あっというまでした。
気が付くと昨日と同じ姿勢で彼女は倒れていました。私はまたも呆然と見ているしかありませんでした。予感はしたものの、まさかそうなるとは考えてもみず、どうしたらいいのかわかりませんでした。女性はやはり10分間ぐらい死んだように身動き一つせず、横たわっていました。そのうち手指が動いて上半身がこちらを向き、腕をささえに顔が持ち上がりました。昨日と同様に髪で覆われた顔が、ゆっくりと動き、ふうーと息を吐きながら、あげた顔は髪が片側に垂れて、一つの目と半分の鼻と口を顕しました。青い匂いがしました。
顔が現れると今度は私も落ち着いて女性を眺めることができました。不自然に右に曲がった首も、今回ははっきり見え、右側の顔にけがをしているみたいでこの赤い血が二筋額を伝わっていました。「救急車を呼びましょうか。」と声をかけました。女性は、しばらくそのままの態勢で微動だにせず横たわっていましたが、10分ぐらいするとゆっくりと身体を回転させて仰向けになり、その美しい顔を私に向けました。私は、女性に見られていると思うとどぎまぎしたが、その顔を見つめてしまいました。10分以上たって、女性は、ようやく意識が戻ったのか、きっと私を睨みつけると「何をじろじろ見てるんだよ」とまた威勢のよい声を出しました。私があたふたすると「そんなところに突っ立ってねーで、手伝えよ。なんとも気が利かねーやつだな。手伝えよ。くそーいてえな―」と言葉は乱暴だったけど、昨日よりは、柔らかい調子でした。私は彼女の手と腕をつかみ、肩に腕を回して上体を起こし上げました。今回は、気をつけて起こしたので彼女からは文句が出ませんでした。
立ち上がりを手伝うと、少しふらふらしたところもありましたがなんとか立ち上がりました。でもやはり痛そうに顔や腰に手を当てながら、片足を軽く引きずりながら歩いて行こうとしました。私は「病院に行ったほうがいいですよ」と心配をして言いましたが、女性は今度はおとなしく「大丈夫」と手を振りました。私は、まだふらついていたので、ささえるように彼女の右肩に手を回しました。ちらっと彼女は、私のほうを見ましたが、嫌がるそぶりを見せなかったので、そのまま体を支えました。まだ痛みが強いようで、彼女はじっとその痛みに耐えているようでした。私は、そんな女性を心配しながら、ちらちらっとその横顔に目をやりました。髪は長く、洗いざらしか、まとめておらず、青白い顔にかかり、顔の半分を隠していましたが、左顔をあらわにして、その切れ長の目は半ば閉じられ苦痛にゆがんでいました。細い鼻筋は、額から口元へすっと伸びており、その頂は、やや上を向いていました。唇はしっかりと結んでいましたが、細く、形がよかった。体はきゃしゃで小柄でした。
彼女は、「ごめん。あたしは口が汚いんだ。それに男どもは、それもおじさんは特に女と見ると、下に見て偉そうに言うやつが多くて、そういう男を見るとすぐ頭に来ちゃうんだ。それでついつい言葉が悪くて。ごめん」と謝るのでした。
私は心配で、二階の彼女の部屋までついていきました。彼女が嫌がるそぶりを見せたら、すぐ帰ろうと思ったのですが、階段を支えながら、201号室の前まで送って行きました。部屋の前で、「ありがとう。管理人さん。もう大丈夫だから」とそこで別れ、彼女が部屋の中に消えていくのを見送りました。青い匂いとともに、淡いフローラの香りがしました。
部屋に帰ると、また子供の声が聞こえました。「ママ|「ママ」と断続的に。昨日よりも、よりはっきりと。でも、声は耳にこだまのごとく響くのでしたが、方向は判然としません。また一部屋一部屋、ドアの前にたって、耳を澄ましましたが、はっきりしません。一階も二階も回りましたが、どの部屋とも特定できません。歩いていると「ママ、ママ」と声が響きますが、それぞれの部屋に近づくと、その声は消えてしまいます。気になって二度も三度も二階と一階の部屋の前を行ったり来たりしましたが、そのうち声は全くしなくなりました。
部屋に帰って、冷静に考えると、昨日と同じように声がするなんて、でも、探しても見つからないのは、誰かがいたずらをしているのかなとも考えましたが、なんだかおかしい。あの落ちてきた女性もおかしい。二度も落ちてくるなんておかしい。男の子といい、女性といい、ママ、ママと呼ぶ声といい、昨日と同じことが起きるなんて、なんだかおかしい。でも考えれば考えるほど、わけがわからなくなり、また神守さんにもらったパンを食べ、ジュースで流し込むと、瞼は自然に重くなっていきました。どうも眠気が多すぎる気がしましたが、眠いものは眠いので横になってしまいました。
結局、その日もそうそうに寝袋に入ったのです。でも、夜中にまた騒がしいので目を覚ましました。子供の騒ぐ声とかが聞こえていて、その騒ぎを沈めるためか、「うるさい。」と怒鳴る声が時折聞こえ、その声が子供の声よりはるかに大きいので、びくっとしましたが、疲れていたので、それでも眠りにつきました。しばらくすると、子供の泣き声と、今度は女の「出ていけ」という甲高い声が響いてきました。その女の声に反応するように「うるせー」という男の怒鳴り声も続いて聞こえ、こっちこそ「またかよ。うるせえなー」と思いながらも、寝袋に頭を突っ込み、早く終わらないかと我慢していましたが、寝袋ぐらいでは、音を遮断することもできず、その一方で声はだんだんはっきりと聞こえる始末でした。
どうも、昨晩の怒鳴り声も勘案すると女が男に自分のアパートに帰るように言って、男が女を黙らせようとしているようでしたが、そのうちに女がどうもナイフでも持ち出したようで、「お前なんか殺してやる」といいだし、男は、それにひるむことなく「なんだと、てめーこそ殺してやろうか」と怒鳴るに至り、どたんばたんと部屋の中を駆け回るような音が聞こえてきました。その一方で子供がぎゃんギャン泣きだし、たまらない状態になって、やむをえず私は起きだし、しばらくなすすべもなく耳をそばだてていました。昨晩注意しているのに、再度やるなんて、と相手を非難する気持ちと、昨晩したことがよかったか悪かったのかどうかも不安で心がゆれていましたが、とにかく壁を通して「殺してやる」「てめーこそ殺してやる」という言葉ががんがん響いてくるので。いくらなんでも殺しはしないだろうと思って見ても、声はだんだん切迫度を高めるので、「やはり大変だ。」とあわてて、ドアをバタンと飛ばすように出て、隣の部屋のドアに行き、どんどんと叩くと、「もうやめろ」と大声で二度怒鳴りました。
よくは覚えていませんが、外に出た時点で隣の声は聞こえていなかったように思います。それにドアを叩いても、なかから反応はありませんでした。その時、なにかおかしいとは思ったけれど、もう殺されたのではないかと気が気でなく、ドアノブを無意識に回していました。ドアはカギがかかっておらず、ぎいーっとゆっくりと開き始め、別に中を覗く気はなかったけれど、自然とドアが大きく開き中が見えました。一瞬何が起きたのかわかりませんでした。部屋の中は真っ暗闇、ヒトの気配が感じられませんでした。目はむやみに光を求めましたが、闇にとざされ、焦点を喪いました。なにがなんだかわからず頭の中はもうパニックです。そのうち目がその暗闇に吸い込まれていき、見るのはやめようと思っても、目だけが内部に引き付けられ、暗闇の一点にくぎ付けとなりました。その瞬間、背筋が、ぞくぞくとし、手も足も冷たく重くなり、容易に動かないように感じました。すると、奥のほうで何かが動きました、黄色い小さな明かりが、二つ、四つ、六つとポッ、ポッと光だし、数個の光が見えました。そのうち目が暗闇に慣れてくると、その小さな光を囲むように顔の輪郭がぽわーっと浮かび出てきました。3つか4つの顔が、二つずつの眼を怪しく光らせながら、私を見つめていました。
私はその顔を見てはっとすると同時に気が動転し、恐ろしさが全身をつらぬき「ギャー」という声をだして、部屋を出てアパートを背にやみくもに走り出しました。が、十メートルもいかぬうちに足がもつれて前にバタンと倒れこんでしまいました。そしてそれっきり気絶したらしく、覚えているのは、朝、寝袋の中で寝ていたことでした。だから起きたときはあれが現実にあったことか夢のなかのことだったか判然としませんでした。でも、夢なら、起きてしばらくすれば記憶のなかからフェードアウトするのに、昨夜のことははっきりと覚えているし、倒れたときに打ったと思しき膝や両掌、それに顎にかすり傷がついて、ひりひりと痛んでいました。どうしてここに寝ているのか、いくら頭をひねってもわからず不思議で仕方がありませんでしたが、だんだん時間がたつと、なんだか怖い気持ちはうすれ、まあそういうこともありかなと落ち着いた気分になっていきました。
起きたころには、隣室からはなんの音も声もしませんでした。私は、すっかり朝が弱くなって、起きるともう9時過ぎで、仕事や学校に出かけていれば、音のしないのも当然だと思いながらも、ゆうべのことを奇妙に思い、でも何をしたらいいか見当もつかなくて、ようやく昼過ぎになって隣室を覗いてみることとしました。すると隣室は、立花と言う表札がかかり、ノブを回すとカギもかかっておらず、少し気が引けましたがドアーを開けてみました。おどろいたことに、そこは全く何もないガランドーの空き部屋でした。最近人が住んだ気配は全くなく、私は引っ越したのかと一瞬疑いましたが、隣に管理人がいるにも関わらず一言も声をかけずに引っ越しするなんてありえないと思うと、じわーと恐怖心が沸き起こってきました。
でも思い切って部屋の中に上がってみました。畳の上にはうっすらと埃がかぶっていて、トイレも風呂場もここ最近使った様子がありませんでした。認めたくはなかったのですが、恐ろしさとともに、頭の中は真っ白になりながら、あの騒ぎはこの世のものではないと、つまり幽霊かなにかの仕業だと感づいたのでした。そして、つまらないことですが幽霊相手に「もうやめろ。」と言った私の言い方がよかったのか悪かったのか、とても心配になりました。そして、ふと記憶をたどってみると、声をかけたときドアの横の台所の窓ガラスが暗かったことを思い出したのです。そういえば、暗かったな、だからどんどんとドアをたたくとき少し躊躇したことを記憶の底から拾い出したのでした。
なんとも落ち着かない思いで、一方ではこれからどうしたらいいだろうと思いながら、また一方ではこんなアパートに入るのじゃなかった、おいしい話には裏があったのかと落胆し、にっちもさっちもいかない気分で部屋にじっとしていると、時だけが足早に過ぎていきました。そしてまたあの男の子が飛び込んできたのです。でも今度は、「おじさん助けてくれよ」と縋りついてきました。その後をまたあの男が追ってきました。男の子は私の腰の周りにまとわりついて、私を盾に男から避けるようにしています。男は「管理人、さっさとその餓鬼をこちらによこせ。お前には関係ないから」と腕を伸ばして男の子の腕をつかもうとしました。私はとっさに、その手を払いのけました。男は「何しやがる」と大声を出しましたが、男の子に縋られて、昨日までの不安な気持ちは消えて、なんだか毅然とした気持ちがわいてきました。なんだかわかったような気がしたのです。するとこの男に負けるわけにはいかなくなりました。「あんたは暴力をふるっているでしょう。この子を連れて行かせるわけにはいかない」と言ってやりました。男は私の腕をつかみましたが、私が「触るな」と手を振りほどくと急に男はぶるぶる震えだしました。
私は何が起きているのかわからず、じっと見守るだけでしたが、そのうち震える男の姿のなかから、その大きなからだの中から、小さな別の貧相な男の姿が浮かび上がってきました。また顔も最初は青白で、なんだかいかつい鬼のような形相でしたが、気の弱そうに眼をしばたたせた頼りなげな顔が飛び出すように現れ、最初の男の大きな身体は影のように淡くなりました。その変貌に私は、ただただもう驚いて、言葉も出ず、凝視するだけで、心臓が激しく動き出し、口から飛び出さんばかりの勢いでしたが、だんだんとその相手がなんだか私と変わらない気の小さい人物らしいことに気づくと、心臓の鼓動もだんだんゆっくりとなり、気持ちも落ち着いていきました。その小さな男は、さっきの威勢はどこへやら、「わかったよ」とぼそっというと、くるりと回れ右をすると、肩を落とした背中を見せ、とぼとぼと部屋を出て行ったのです。
緊張が解けて、放心して男の姿が戸口の向こうに消えるのを眺めていましたが、気を取り直してあたりを見回すと、目の前ににこにこ顔の豊がたっていて「ありがとう、おじさん」とあいさつをしたのでした。「おじさん、僕は助かったよ」というのです。最初、何が助かったのかよくわかりませんでしたが、ゆっくりと部屋を出ていく豊の姿を見ていると、私はわかったのです。そこで、すぐに、外へ出て二階に駆け上がると、201号室に飛び込みました。ドアーは開いていたので、ノックもせずに飛び込みました
部屋の中に彼女の姿はありませんでした。一瞬遅かったかと思い、窓から下を見ましたが、下にも彼女の姿はありませんでした。あれと思い、上を見上げると、がたがたと音がします。私は、「酒井さん、上にいるんですか?」と声を掛けると「そうよ。その声は管理人さん。上がってきなよ。ここは眺めがいいから」「でも屋根の上は危ないですよ。おりてください」「いやよ。ここはあたしの大好きな場所だから。管理人さんこそ上がってくれば。雨どいのところにロープがあるでしょ。私が屋根に上るために渡したものだから、しっかりしているから大丈夫よ」そんな押し問答を何度か繰り返しましたが、なかなか彼女が降りてこないので、仕方がなく私が屋根に上がることにしました。
窓の横の雨どいのわきのロープを伝って屋根の縁に手を掛けると、彼女が手を伸ばし引き上げてくれました。私は高所恐怖症なので、登ったはいいけど、降りれるかどうか心配で周りの景色も目に入りませんでしたが、彼女は、楽しそうに屋根に座っているのでした。「ここは静かだし、だれも来ないから、あたしのお気に入りなの」と笑顔を見せて言うのです。その笑顔がなんともいえず素敵で、さっきの心配も吹っ飛んで私は見とれてしまいました。
私は彼女の隣に座り、そのきれいな顔を見つめていました。考えてみれば、こんなきれいな女性の顔を、こんな風にゆっくり眺めるなんてはじめてでした。女性の顔をじっと眺めたら、大概嫌な顔されると思って、したことなかったのに、彼女は気にしないようなので、眺めてしまいました。そうして、しばらくは何も言いだせなかったのですが、ようやく私は「わかったんです。これは同じことの繰り返しだって」と思い切ってことばにだしました。そして「あなたは、これから飛び降りるつもりでしょ。でも、もうやめません」と口にしたのです。
彼女は、ゆっくりと私に顔を向けると、ほっとしたように「そうなんだ。あたしは屋根からの飛び降りを繰り返していた。誰かが止めてくれるのを待っていたのよ」とボソッと言ったのです。彼女は、そのあと黙ってしまいましたが、しばらくすると、我慢しきれないというように泣き出し、「あたしは、屋根から落ちて死んだ。死んでもいいとは思ったけど、本当に死ぬつもりはなかったのに」と彼女は、何か詰まったものを吐き出すように言うと膝を抱え、しばらく全身を震わせて泣いていました。ようやく涙が止まったころ、掌で顔をぬぐうと、さっぱりした顔で「実は私は、というかこのアパートの住人は、みんな霊、私たちは霊体と呼ぶけれど、なの。みんな死んだの。みんな死んだのは別々の日だけど、このアパートで死んだので、そしてみんな現世に未練があるものだから、あの世、冥府に行けずに、ここ陰冥府と呼ばれるけど、この冥府の一つ手前の世界から霊魂が離れらないというわけ。だから、毎日毎日同じことを、その死んだ当日の、その行動を繰り返している。管理人さんが来なければ、あたしは永遠に死んだ、その当日を演じ、毎回死ななければならない。なぜなら、みんな誰かに止めてもらいたかったから。あたしもそうだけど、この屋根から飛び降りるまで、心の奥の奥に迷いがあって、誰かが止めてくれたらという気持ちがあったのよ」と一気にしゃべると、また黙ってしまった。
そして顔を遠くの空の彼方に向けると、じっと見つめ、考えているようでしたが、もう一度目にたまった涙をぬぐうと、「本当言うとあたし、男なの。面白いもので、霊体になってもあるのよね、この男のシンボルが、まったく、霊なら男とか女とかを超越したものになると思っていたのに。まあ、ここは陰冥府だからなのかもしれないけれど。あの世の冥府なら違うかもしれないけど」
そう言われても、髭は見えないし、私には彼女は美しい女性としかみえませんでした。そう白状した彼女は、なんだかあっけらかんとした感じになって、身の上を話し始めました。「あたしの身体はもともと男だけれど、こころは女なのよ。こころが女と言うか、もともと女の生き方が好きだったの。母はちょっと特殊な内職をやっていたので、家に居ることが多くて、それで近所のおばさんたちが手伝いがてら集まってワイワイ言って、それでご飯をつくったり、お茶会をしたり、ああいう井戸端会議風と言うか、一緒になってみんなで何かやるというのが、そりゃ母は変わっていて、開放的だったから、近所のおばさんたちも集まってきたのだけれど、なんというか男みたいに決められた仕事をするのじゃなくて、その日その日で、その時その時に必要なことをしているのが、なんとなく好ましいものに見えていたし、一方で父や学校の先生などを見ていて私はきまりきった仕事を毎日同じようにやる男ってなんてつまらないものだとよく思っていた。
父親は、近くの食品会社で、配送の仕事をしていた。朝早くからトラックを運転して、食品を届ける仕事だけれど、まじめで、誰かが休むと、自分の休みの日でも代わりに出て仕事をする人で、仕事に関しては責任感が強かったと思うけど、仕事をとったら何にも残らない人だった。夕方には帰宅して、風呂を浴びるとビールを飲みながら野球だとか、バスケットボールとか見て過ごすのが好きで、家ではほとんどしゃべらなかった。母親がそのかわり、父親を立てて、なんでも先回りして用意していた。
高校ぐらいまでは、それでも、男としての生活をいやいやながら送っていたけれど、ある日、たまたま家族みんなで旅行に行ったさきで、交通事故にあって私以外は家族みんな死んで、あたしだけ生き残った。
親しい親戚もいなかったので、児童相談所に一時預けられて、あたしって、男よりは女の子の方が話しやすかったから、中の女の子と仲良くなって、その子からお化粧を習ったわけ。前から化粧はしたかったのだけれど、親の手前、押さえていたの。それが親が死ぬと、哀しかったけれど、もう気にする人もいなくなって、髪の毛をカットしてくれたり、眉毛を剃ってくれたり、アイシャドウをつけたりと女の子風にしたら、それまでどうしても自分の顔が好きになれなかったのに、なんだかいいじゃんと思えるようになった。それまで自分の顔って、どっちつかずだったから、そのころは男なら男らしい顔でなければと心のなかで思ったりしていて、好きじゃなかった。けれども、児相の中では、大したことはできなかったけれど、化粧すると、自分の顔もまんざらではないと思えたわけ。そうしたら、スーッと自分のことが分かったような気になった。
そのあと里親に送られて、そこが嫌と言うわけではなかったのに、でも小さい子もいたので男は男らしくとか、お兄ちゃんなのだからお兄ちゃんとしてふるまってと言われて、でもあたし的には、もうそんなの無理無理と感じて、それにもう親もいないし、男らしくする必要なんかないと思ったら、こんなところにいる必要ないしと思って、散歩して来ると言って飛び出した。児相で知り合った女の子から電話番号聞いていたから、泊めてくれってたのんだらいいよと言ってくれて、しばらく厄介になっているうちにそこでお化粧をしっかりやるようになり、その子と一緒に年齢を偽ってスナックに女として働いたら、ちやほやしてくれる男ができて、そのうちホモの人がパトロンについたわけ、でもセックスは好きじゃなくて、そういう生活に嫌気がさして、他の人が経営するお店でコンパニオンとして働いていたら、結構もてて、でも本当に好きなのは家庭的な生活だったのよね。それを求めて男と暮らしたのだけれど、なかなかうまくいかなくて。嫌だったのは、なにしろ早く女性に性転換したらいいじゃないかと簡単に言うわけ。確かに女性的なところもあたしにはたくさんあるけれども、それに男として生きるのも面倒だけれど、こいつのところで女として生きるのも窮屈だなーと思っていて、どうしたらいいんだろうって悩んでいた。
その男は、ここで数か月も一緒に暮らしてきたのに、三日前に荷物をまとめて引っ越したというか逃げたのよ、そして私が呼び出して詰問すると「お前は男で、女じゃない。いくら格好は女でも、ちゃんと男のシンボルがついているじゃないか。お前をどう考えたらいいのかわからなくなったよ。お前は複雑なんだよ、さっさと性転換手術して女になればいいのに、このままでは落ち着かなくて、もうたくさんだ」というのよ、でもあたし思うのよね、人間なんて複雑なのは当たり前じゃん、男とか女とか分ければすむのかよって。あたし、化粧を始めてから、この自分が好きになったの、この自分が愛おしいと感じるの、だから、最初女になってしまえばと考えたけれど、この身体を変えるのにだんだん疑問を感じるようになったの。男として生きるのも、私には苦しいけれど、他人の要求で女になるのは、さらに嫌なの。こころが女だからと言って、身体を変えるのは、自分が本当に望んでいることなのか、最近わからなくなった。
なんていうのかあたしは、男であって男でもないし、女みたいだけど女でもない、ただただあたしはあたしなんじゃないかと思うのよ。このちんちんがときには邪魔になることもあるけれど、これをとったからといってあたしはそんなに変わらないように思うし、変わりたくないのよ。そういう体だから。性転換手術をしても、おっぱいができても、それで女なのかといえば、あたしにはわからない。ただ、女の姿になれば、いまよりシンプルには生きられそうだけれども。それであたしがあたしらしく生きられるかといえば、そうとも言えない気がする。どうでもいいじゃない、男か女かだなんて。わたしはこのままで生きたかったの。でも世間はこういうのを中途半端扱いしやがって、男でも女でもないという、どっちつかずでは生きるのが難しいのは確かなのよ、このまま生き続けても、あっちこっちでぶつかってばかり、嫌な思いをするばかりなのよ。それでも他の人に簡単に決めつけてもらいたくないわけ、男か女かと。そこは譲れないってだんだん思うようになったの。そう思うと、つくづくこの生活が嫌になったわけ。そんな気分のときに、いつものように屋根に上って、空を見ていたら、この空を飛ぶように、自由になりたいと思って、飛び出したの。でも、この大地とのしがらみは強いわね、引き戻されて衝突したというわけ。
あいつに捨てられて自棄になったということもあるけれど、本当に生きるのが嫌になったからなの。でも、どこかに逃げ道はあると心の底では思っていた。まあ死んじゃえば皆同じだとも思っていたけれど。やはり死にたくはなかった。管理人さんにこうやって来てもらって、なんだかほっとした。もう死んでいるのに、死んだことが悔しかったから、ここに管理人さんが来てくれて、これでいいと踏切りがついた気がする。それに、ようやく冥府に行けると思うと心が軽くなる。
このアパートで暮らしている人たちは、こころの未練を断ち切って、冥府に行きたいわけだけれど、死に際に心残りがあったものだから、この陰冥府で誰かに、この思いを断ち切ってもらいたくてさまよっているわけ。誰かに引導を渡してもらいたいのよ。管理人さんの隣室の102号室の立花さんもそうなの。でも、昨晩も一昨晩も管理人さんが声をかけてくれたので、立花さんは喜んでいる。今晩は、もっと早めに止めに入って救わなくちゃ。昨晩や一昨晩では、立花さんは殺されなかったけれど、まだ完全に未練が断ち切れたわけじゃないから、今晩は、少し前に止めに行かなきゃならない。昨晩は管理人さん途中で逃げ出したもんだから、あの後が大変だったの。広場の真中で倒れている管理人さんを部屋に連れてきて寝かせたのはわたし達だったのよ。
屋根の上にいると、本当に気持ちいい。なんだか空の中に居るような気分、でも、もう飛ばないわよ。さあ、降りましょう。あたしは中学時代に体操部にいたから、身軽なのよ。管理人さんが降りるのを手伝うわ」というと彼女は立ち上がり、私の手を取った。私が、彼女の手を借りて、下の部屋に達したあと、彼女が降りるのを待って、彼女がロープで身を支えながら、そろりと降りてきた。窓のところまできたところで、私がしっかりと彼女の手を握り、彼女がロープから手を離すと同時に、引っ張って彼女を部屋の中に入れようとしたが、彼女が「ねえ、管理人さん、一緒に落ちましょうよ」というと、私の腕をぐいと引っ張った。ふと私も彼女と落ちてみたくなり、二人で窓から飛び出した。その瞬間、私は彼女の気持ちが分かったような気がし、怖くはなかった。
二人とも、あっという間に落ち、どたどたと地面に打ちつけられてしまった。私はうつぶせの格好で地面に衝突し、あまりの痛さに息ができず、しばらく気が遠くなってしまった。ようやく気が付いた時には、彼女は私の横に座って、心配そうに私の顔をみていました。そして、「死んだかと思ったよ」というと晴れやかな顔になって、「わーい死ななかった。落ちたのに死ななかった。」と大きな声で笑いながら手をふり、腰を揺らして踊りだした。本当に全身で喜んでいた。笑いと踊りが収まると「ごめん。誰かが一緒に落ちてくれたらとずーっと思っていたので、うれしかったんだ」と言いながら私にしがみついてきました。その抱擁に私は痛さも忘れ、心がときめいてしまい、私も彼女をぎゅっと抱きしめたのです。そうやってしばらくひしと抱き合っていました。そうすると彼であり彼女の気持ちがスーッとこちらに伝わり、私の気持ちも相手に染みていくように感じました。不思議な感覚でした。
そうして痛みも和らいだころ、彼女が、「あの女の子、マーちゃんを助けに行かなくちゃ」と言いながら立ち上がり私の手を引いて、204号室に連れて行きました。すると今度は部屋の中からあのママ、ママと呼ぶ声がはっきりと聞こえました。すぐに力いっぱいドアノブを引くけど、鍵がかかって開かず、ドア越しに声をかけると「ママ」「ママ」という声が大きくなった。台所の窓が少し開いていたので、そこから覗くと、小さな女の子が布団の上で横たわり、少し上半身をあげながらママ、ママと、か細い声で一生懸命に声を出しているのでした。誰かいませんかと声をかけましたが、女の子以外は、人気がありません。その女の子を見た以上、何としても部屋に入るべきだと思ったのですが、ドアは押しても引いても身体をぶつけてもびくともしません。映画のヒーローなら簡単に入れるのにと力の無さを痛感しながら、何かしなければ何かしなければと気が急いて、カーっと頭に血が上りました。
これじゃだめだと、少し冷静になれと念じて、とにかくなにか方法はないかと見回しました。隣から入れないかと隣室のドアをノックしましたが、反応はありません。でも当然鍵がかかっていると思い、別の方法を考えなくてはと思いつつ、ドアノブをひねると、ドアは簡単に開きました。部屋は空き部屋で、誰も住んではいなかったので、さっそく、隣室の窓から窓枠につかまりながら、女の子のいる部屋のガラス戸を押しましたが、カギがかかっていて開きません。どうしたらいいか、考えあぐねるうちに、酒井さんが石を持ってきてくれたので、その石で、窓をたたき割り、割れ目から手を突っ込んでか、窓のロックを外し、窓伝いに女の子の部屋に入り込みました。
むっとするにおい、汚物がそこら中に転がっていて、部屋は食べ物の容器や空いたペットボトルや空きビンなどが散乱していました。足の踏み場もなく、女の子の寝ている布団も、薄い茶色に染まっていました。先ほど台所の窓からはうかがえませんでしたが、女の子は、やせ細り、眼だけがぎょろついていました。3,4歳くらいだろうか、もう立てないくらい衰弱し、光の乏しい目で私の顔を見ていました。表情もなく、そのうちに目を閉じてしまいましたた。「おい、大丈夫か」と、死んだのではないかと体をゆすると、目を開けて、ママ、ママと小さい声で繰り返すのでした。なんとかしなければ、とドアから外へ出ましたが、私はどうしていいかわからず、うろうろするばかりでしたが、それを見た酒井さんが誰かに電話をかけたらと冷静に言いました。そうだ神守さんに電話すればいいんだと気が付いて、下に降りて電話すると、神守さんが「まかしときな、今消防署に電話して、救急車を呼ぶから、そこで待っているんだよ」と心丈夫に言ってくれました。あとから考えると、霊たちの世界で、どうやって救急車が来るんだろうと疑問がわいたけど、その時は無我夢中で、そんな疑問はかけらもわきませんでした。
はたして、ものの数分で救急車がやってきました。サイレンも鳴らさず、静かに滑るように、止まると、中から白衣を着て、頭にヘルメットをかぶった男が二人、マスクをしているので、あまり顔は見えませんでしたが、担架をもって、下で待っていた私のところにやってきて、あそこですと指示すると、救急隊員は、担架をもって、まるでエスカレーターをあがるかのように階段を上がり、開いたドアーから部屋に入ると、すぐに女の子を担架に乗せて、降りてきて、私に「ありがとうございます」と声をかけました。そのまま救急車の中に運び入れ、すぐに出発しました。私はあわてて「どこの病院に行きますか」と救急車の背後から叫んだけれど、声は届かなかったみたいで、返事はありません。親御さんが帰ってきたら、なんて説明をすればいいんだ。でも部屋の様子を思い浮かべると、ここ何日も帰った気配はなく、帰らないのかもしれないと思いつつも、なんだかわけがわからず、安心したり、心配になったりしましたが、身体の方は動かず、ただ、救急車が、角を曲がり、白い車体が見えなくなるのを見送りました。
救急車が見えなくなって気が付くと、神守さんが目に前に立っていました。「ありがとう。私が見込んだだけのことはあるわ、あんたは」とニコと笑うと「このアパートのからくりが分かったでしょう。いい、まだあんたの仕事は終わっていないからね。はい、これは差し入れだよ。またパンとかジュースだとか、でも今回はカップ麺もあるから」とビニール袋を手渡すと、「もう少し仕事をしておくれ。」と言い残して、去って行きました。
隣に立っていた酒井さんは、神守さんのことは全く目に入らない様子で話しかけて「マーちゃんは、お母さんが男のところへ半月も入り浸ってネグレクトされたので餓死してしまったのよ。でも管理人さんが今回死ぬ前に発見してくれたので、これで魂は救われるわ」と言いましたが、救ったと言われても複雑な気持ちでした。でも救急車に乗せられる前に女の子の見せた表情を思い出すと、心は穏やかになりました。酒井さんは続けて「マーちゃんのお母さんは女になりたかったのよね。男の望む女に。母親より女にね。彼女は女であることを、男に決めてもらっていたように思うの。でも、男なんて、いい加減なのよ。目の前にいる人間としての女でなくて、都合のいい女を求めるのよ。多くの女性はそれに振り回されていると思う。マーちゃんのママもその一人よ。女として生きるとしても、やはり自分は自分でなくてはいけないと思う。でもねそうすると、この世では、男の思惑にどこかでぶつかるのよ。それが嫌ね。女って。女だけの世界だったらよかったのよ。管理人さんを前にしてそんなことをいうのはどうかと思うけど」
私が「男だって、金がなかったり、いい仕事についていないと、生き辛い」とポロっとこぼすと、酒井さんは憤然として、「すぐに男はなにかというと、金、金、金、仕事、仕事と言う、仕事、仕事って。そりゃ金を稼がなくちゃいけないけれど。仕事が何だっていうのさ。金が何だっていうのさ、女だって仕事しているよ。金も欲しいよ、でも、女は仕事だけじゃない、金だけじゃないと思っている。男にとっちゃ、金や仕事がステータスですべてなんだ。つまんないステータスだよな」 そういわれるとなにも反論できませんでした。
そんな会話をしているうちに、外はすっかり闇に包まれ、ヒヤッとしてきました。酒井さんが「もうそろそろ102号の部屋で喧嘩がはじまるよ。あたしも行くから、さあ行きましょう。」と促した。すでに隣の102号室の窓が光ったり暗くなったり明滅し、近づくと子供の泣き声や、男女の怒鳴り声が聞こえてきました。
102号室のドアをノックしようとしましたが。酒井さんが「いいから入ろう。」とドアを開けて中を見ると、男が女の頭を押さえて、上げた女の手から包丁を取り、にわかにその包丁を下に持っていこうとするところでした。子供たちが、男の人の足に縋りついて泣いていました。どこからそんな勇気が湧いてきたのか、私は靴を脱ぐ間もなく、自然に「やめろー」と大声を出しながら男と女の間に身を滑らせました。男の手が女の頭から離れました。私が急に現れたので、男はびっくりして包丁を私に向けました。危ないと思った瞬間、うしろから酒井さんが男の手を握り、その動きを止めました。男はハッとして、包丁をもつ手を下ろし「俺はなんてことをしようとしたのだろう」と言いながら、その場に座り込んでしまいました。すると部屋の光が消え、子供の泣き声もしなくなりました。
部屋は暗いはずなのに、4人の姿ははっきりと見えました。酒井さんが「私たちのこと話したから、もう消えてもいいの」というと男と二人の子供の姿はゆらゆらと揺れだし、だんだん薄い影になって消えてしまいました。私は驚きに声を上げそうになりましたが、恐怖で、その声を飲み込むと息ができなくなり、酒井さんが「大丈夫よ。あんたを襲ったりはしないから」と背中をポンとたたかれて、ようやく息をついて正気にもどりました。すると奥さんだけが残り座っていました。「止めていただいて、ありがとうございました」とぺコンと頭を下げました。
そして「私たちは、喧嘩ばかりしていました。夫が職場をリストラされてから、再就職がうまくいかなくて、結局酒におぼれるようになったのです。それまではまじめで、家族思いの夫でしたのに。上司とそりが合わなくてリストラの対象に入れられたらしいのです。夫の友人がそっと教えてくれました。夫は、最初こそ、再就職に前向きでしたが、自分の得意の分野がなかなか生かせる仕事がなくて、パートみたいな仕事しかなくて、「おもしろくない、おもしろくない」と言っていましたが、そうなると酒に逃げるしかなくて、酒が過ぎれば、パートの仕事も休みがちとなり、結局馘、だんだん歯車が狂いだしたようになってしまいました。あげくに酒を飲んでは家族に、私だけでなく子供に対しても暴言を吐き、私は、どうしたらいいかわからず困ってしまいました。しらふのとき夫が一人にしてくれと言うので、夫をもとのアパートに残し子供二人とここに越してきたのです。夫も子供や私と離れて暮らせば、すこしは頭を冷やして、反省してくれるかなと思ったのですが、とんでもない、逆に寂しさから、さらに深酒をするようなり、しばらくすると、もう毎晩酔ってはここへきて過ごすようになったのです。それでも最初のうちは、ここでは酔っていてもおとなしくしていたのですが、それも時間が経つとメッキが剥げて、ふたたび暴言を吐くようになり、そのうち私が注意すると手もだす始末で、私も黙っていられない性質なので、ついつい喧嘩がエスカレートして、とうとうあの夜、管理人さんが聞いた通りなのですが、私は包丁を持ち出してあいつを脅すつもりで、突きつけたのです。あいつはそれをみると逆上して、最初は口汚く言葉で脅して、つぎに力づくで包丁を取り上げ、私も必死で抵抗し、とうとうもみ合いになって、夫が包丁を振り下ろしたとき、包丁が私の首にぶつかり、頸動脈を切り裂き、私は出血多量で死んだのです。
だれかが喧嘩を止めさえしてくれていたらと悔やんでも悔やんでも、悔やみきれませんでした。私は夫の切羽詰まった気持ちが分からなかったのです。自分たちはこれからどうなるのだろうと、そればかり考えていて、夫を思う余裕がありませんでした。だれかが止めてくれれば、もう一度、夫の気持ちを受け止められたかもしれません。だから、こうして繰り返しあの夜を再現し続けてきたのです。そしてとうとう管理人さんが来て、止めに入ってくれたから、私の思いは叶えられました。これで、私も冥府に行くことができます」それを聞くと、私は急に眠気を覚え、なにもかもが、おぼろになり、ふらふらとして、ようやく酒井さんに支えられながら、自室に戻るとそのまま、畳の上にうっぷして眠りについたのでした。
翌朝、ふたたび陽がだいぶ上ったころに起きだすと、部屋の外は楽しそうな声が満ち溢れていました。「豊、きょうはおじさん休みだから、どこかへ行くか」という声が上から聞こえ、隣からは、子供たちの笑い声が、響いてきました。頭の中は昨日の記憶が、めぐってきて、そういえばと少し恐怖心も沸き起こったのですが、そのうち、「管理人さん、おはようございます」と酒井さんの明るい声が聞こえ、ドアが開くと、とびっきりの笑顔がドアのすき間から覗きました。「昨日はご苦労様。私たちは、互いには止めることができないから、管理人さん、だから伊海さんに止めてもらうしかなくて」と穏やかな声で述べるのでした。私は、昨夜のことを思い出すと、ぶるっと体を震わしましたが、彼女がにこにこしながら「伊海さん、聞いて。みんなもう死なないで済むのよ」と言い出すので、私はなんのことやらわからずにいると。「みんな元の生活に戻れたということなの。でもね、現世に戻ったわけではないの。あくまでこの陰冥府の中でのことだけれど、でもこうして正しい姿になったからには、あとは清められて、冥府に旅立てる。だからみんな喜んでいるわけ、それで生きていた当時の家族の魂の影を呼び寄せて、ここで清めが終わるまで過ごしているわけ。だからしばらくは、このアパートもにぎやかになるわ。私は誰も呼ばないけれど」と私の顔を見ていうのでした。
それからアパートは本当ににぎやかになりました。みんなもう死にはしないけれど、私から見ると毎日同じ日が続きました。でも、みんな幸せそうでした。朝が来ると、マーちゃんのママと酒井さんが夜の仕事から帰ってきて、マーちゃんは夜預けられていた隣室の老夫婦のところから帰ってきてママと朝ご飯を食べる。ママはそれから横になり、立花さんの旦那さんが、子供たちを連れて公園に行き、他方で立花さんの奥さんと酒井さんとでマーちゃんの世話をやき、といった日課が繰り返されるのだった。でもそれはそれでみんな楽しそうだった。
そんな繰り返しの日々が続いていた時、ニャーオと言う声がするので外を見るとあの豊を追ってきた男性を怯ませた猫が戸の外にあらわれました。すぐに猫は姿を変えて神守さんに変身しました。私はああやっぱりと腑に落ちたものを感じながら、神守さんに挨拶をしました。神守さんは、目をくりくりっとさせながら、「あんたはよくやったよ。私の見込んだだけの人だ。お礼を言うよ。でもね、このまま、みんなが永遠にここで同じ生活をすることはできないよ。陰冥府は、お清めが済めば消えるのが筋だから。このアパートの陰冥府も消えかかっているのだけれど、でも誰も冥府に召されていない。このままだと、みんなの霊魂は、彷徨い霊となって、この世とあの世をさすらって、最後は疫霊となって、人々に悪さをすることになる。そうしたくなくても」と深刻な顔をしていうのでした。
私が「どうして皆さんは冥府に召されないのです」と訊くと
「それは、まだこのアパートで非業の死を遂げた人が陰冥府の住人になりきっていないからだ、だから、この陰冥府も不完全で、清めがまっとうされずにいるからさ」「それは誰ですか」「それが私にはわからない。あんたが探すしかないんだよ。私には、あんたと違って、霊たちを感じることはできても見えないし、話すこともできないから。だから頼むよ。それにその人は、霊魂がこの陰冥府にないようで、こだまのようなものしか感じない。どうもなんというのか、そのこだまはまるで何かからはぐれてしまったかのようで、おかしな感じなんだ。霊魂がそろわないから、この陰冥府が不完全なのかもしれない」と私の肩をぽんと叩いて、あっという間に猫に姿を変えると行ってしまいました。
私のすぐそばには酒井さんが立っていたけれど、神守さんは、まったく酒井さんには気づいている様子がなく、酒井さんも神守さんのすぐそばにいたのに、全く何も感じない様子で、「管理人さん誰かと話していたの」と訊くのです。私が、「不動産屋の神守さんだよと言う」「あっそうか、私にはあの人たちのことは見えないし、気配も感じられない」と言うので神守さんとも酒井さんなどの霊たちとも話ができる私は何者だろうと一瞬疑問がわきましたが、すぐに神守さんの言ったことを酒井さんに伝えると、あっという顔をして、まだ管理人さんが覗いていない部屋が、開けてはいけない104号室を除いて1つ残っているというのでした。そういわれれば、103号室を覗いたことがありませんでした。多分、そこにまだ人間界に未練がある人がいるのだろうというのでした。酒井さんは「その人のことを詳しくは知らないけれど、当山さんと言う若い男の人のことを聞いたことがある。確かに、霊の実体はなくて、魂の響きだけはたまに感じる。私たち霊は、魂魄が一体となっているのが、本当だけれど、魂と魄がはなれることがあるらしい。その若い男の人は、そんな感じなのかもしれない。まあ、もともと、このアパートの住人と言うより、たまたま空き家だったこのアパートに潜り込んできた人みたいだから。そしてその人は、私たちが相次いで死んだので、お化け屋敷とか言われて住む人がいなくなったこのアパートを燃やしちゃったのよ。」
「アパートが燃えた?」「そう燃えたの、ここは陰冥府だから、アパートはもとのままだけれど、現世では、このアパートは燃えて、もう無いの」そう聞いて衝撃でしたが、酒井さんは、そんなことは気にせず「ともかく居たか、居るのか。分からないけれども。もし居れば多分その人も管理人さんの助けが必要だと思うので、行ってみましょう」と先に立って103号室に向かいました。
103号室をノックすると、男の声がしたので、酒井さんが勝手知ったると言う風に「ごめんなさい」とドアーを開けて中に入いろうとしたところ、ギャーっと叫び声をあげて、後じさりした。酒井さんは「いやーだ火事で入れやしない」と慌てふためいていた。彼女をよけて私がなかをのぞくと、ゴーっという音とともに、めらめらと燃え立つ炎が壁から天井から、床から立ち上り、噴き出し、すべてがそのオレンジの光に覆われていた。まるで蜂蜜のように透き通った飴色で、まとわりつくように炎がよせてきたので慌ててドアを閉めた。でも酒井さんは、自分は霊魂なのだから、熱さは感じないはずだからと言って、再度中に入ろうとしたが、突っ込んだ頭の毛に火がついて、「わー、大変、熱い熱い」とあわてて、外へ飛び出してドアをバタンと締め、やはり熱くて中に入れないという。
私は、なかをちらっと見ただけであっけにとられて、立ち尽くしてしまいました。「管理人さんしっかりしてよ」と髪の毛の火の粉を払っている酒井さんにどやされて、我にかえり、部屋の外を観察すると、不思議なことに火災なら、外の窓やドアーも炎に包まれるはずだが、そうでもない。また外にいると熱さも感じません。おかしいなと再度ドアをあけ、中を覗き、炎の光に一瞬目がくらみ怯んだけれども、思い切って中に入ってみました。最初、手で顔をおおいながら、炎を避け、こわごわ中に入ると、熱さを感じません。おかしいなと疑問がわいてきました。部屋の中に入った瞬間、バタンと背後でドアが閉まり、それに追い立てられるように、中へ踏み込みました。炎がめらめらと音を立てて、私の顔を襲いました。熱くないとはいえ、炎が肌に触れるのを感じるとあわてて顔を手で覆い、くるりと反転して、出ていこうとしましたが、やはりあれと思い、覆った手を顔から離して炎の中にいれてみると、やはり熱くないどころか、風がそよぐようなもので、恐ろしさは消し飛んでしまいました。ああそうか、これは陰冥府の働きなのだろう、霊にとっては熱くても、私には、ただの光の作用でしかなかったのだ。炎にはすぐ慣れましたが、まだ何かがあるかもしれないと私はおそるおそる炎が渦巻いている部屋の奥に進んで行きました。
よく見ると炎の燃え盛る背後には、黒く焦げた畳、柱、焼け落ちた襖や、押入も形は保っているものの木部は炭化して真っ黒でした。窓ガラスは破れ、カーテンは溶けて小さな塊となり、箪笥は崩れ落ちていました。でも、炎は、それらを覆うばかりで、火が熾っているわけではないのです。炭化した部分は、あくまでも黒く、触っても冷たく、焼けているわけではなかったのです。
最初はわかりませんでしたが、炎に惑わされなくなると、その廃墟と化した部屋の片隅に、ひとりの青年の姿をとらえました。青年の顔は火傷でまだらに赤黒く髪はちりぢりとなっていました。その赤黒い顔の中から眼がかっと開き、充血したような黒い瞳からは激しい憎悪がほとばしり、口を歪めて、ひしと私の顔に視線を注いでいました。
どうしていいかわからず、私もその男をじっと見つめていました。青年は顔も焼けていましたが、さらに身に着けている衣類も一部は黒く、一部は焼けちぢれ、見るも無残な有様でした。腕も足も、焼けた衣類から一部肌を露出していましたが、そこも赤くただれていました。ただ、その青年も、それ以上に炎に焼けているわけではありませんでした。でも、その想像を絶する姿に、私は言葉を喪い、相手を見つめるばかりでしたが、ようやく思い切って「私は、このアパートの管理人で、他の霊が、せっかく未練を断ち切れたのに冥府に召されない、どうもあんたが関係しているみたいだ」と告げたのでした。
青年は「そんなこと俺は知らない。他人のことなど俺が知ったことではない」とぶっきらぼーに応えるのでした。
「じゃあ、あんたの魂はどうなっている」
「おれの魂?俺の魂?」
「そうだよ、あんたの魂だよ」
「俺の魂のことは、俺の問題で、お前などに関わりないことだ」
「そうはいかないんだ」
「俺の魂は、俺の魂は」青年は、ケロイドの顔をさらに険しくすると、言いにくそうにつぶやいた。
「どうしている?」
私の問いに、彼はさらに顔をゆがめながら、その目をぎらつかせて、しばらく私を睨んでいましたが、ふいに彼の思念が私の中に入り込みました。彼の心の中が、垣間見えたのです。あっと声をもらすと青年は、私に心の中を見透かされたことを恥じるかのように、驚いた表情を見せながら、徐々に煙のように消えてしまいました。それとともに、あれだけ荒れ狂っていた炎も一瞬のうちに消えてしまいました。
あたりを見回すと、部屋は、なにごともなかったように元の部屋に戻っていました。私は、急に周りが変わったことで、焦り、ぐるぐると部屋の中を何度も歩き回りました。もう焼け焦げた柱も畳も箪笥も、そして襖も窓ガラスもなくなり、燃える前の部屋に戻っていて、青年の姿は影も形も、その痕跡もありませんでした。
彼が消えてしまったので、どうしたらいいか途方に暮れてしまい、とにかくいったん部屋を出ることにしました。ドアーを開けると、外に酒井さんたちが心配そうな顔つきで待っていました。結果をみんなに説明すると、ため息が洩れました。青年が消えたことについては、酒井さんも、立花さんも、豊も陰冥府から消える霊なんて知らないと言われ、手掛かりをうしなってしまいました。みんなで顔を見合わせていると、ちょうどそのとき、二階から、マーちゃんがちょこちょこと降りてきて、103号室のお兄さんは、私がこのまえ救急車で運ばれたときに、まだ病院にいたから、完全には死んでいないというのでした。立花さんは、それを聞くと陰冥府ではない現世に魂魄のうちの魄が残っているのだろう。そして魂も、現世に行ってしまったのではないかというのでした。しかし、ここは陰冥府で現世とは別の世界だから、どうすれば現世に行けるのかとみんなで思案をしました。すると酒井さんが、あの開かずの間の104号室はどうだろうかと言いだしました。「私たち霊があそこに入るのを禁じられているのは、確か、あの部屋が別の世界に通じているからと誰かの影から聞いた覚えがある。多分、別の世界とは現世のことなのではないだろうか。だから、あの部屋に入れれば現世に行けるかもしれない。でも私たちが入れないのは、霊が現世に戻ると、もう二度と冥府に行けなくなって、浮遊霊として、現世で過ごすことになるからだと聞いたことがある。でも管理人さんなら、行って戻ってこれるはずだ」というのでした。
私は、しばらく考えてみましが、どうなるかわからないし、うまく現世に行ければいいが、訳の分からない世界に行ったら嫌だなと不安を感じたのですが、みんなの顔を見ていると、ここはやるしかない、やってみないことにははじまらないと試してみることとしました。いささか心細くなりながら104号室に向かうと、酒井さんが、白い小さな人形を渡してくれました。「これお守りだから、私の代わりだから」というのです。それを受け取ってズボンのポケットに入れると心が定まりました。酒井さんや、豊が心配そうに遠くから見守る中、おもむろに104号室の前に立つと、いつのまにかあの猫が目の前にいて、たちまち神守さんに姿を変えると「私も現世には行けないので、お願いをします。」と104号室のカギを渡してくれました。
カギを入れて回し、静かにノブをひねるとドアはぎーっと開きました。戸口から中を覗くと、そこは他の部屋と全く異なり、洋風で、黄色がかかったクリーム地にピンクの花柄の壁紙が張ってありました。奥の部屋の真中にソファーが一脚置かれていました。おそるおそる部屋の中に入ると、ドアーが静かに閉まりました。おどろいて、ドアーを開けて外に出ようとしましたが、ドアノブはいくらひねっても回らず、開けることはできませんでした。私の額に冷たい汗が二筋流れました。その冷たさに「俺は何をしている。いかなきゃならないのだから」と肚を決め、顔をぬぐうと、私は奥に進み、再度中を見回しました。不思議なことに、入る前、空は、晴れていたはずなのに、この部屋の窓からのぞく空は、どんよりと厚い雲が垂れ込め、なんとも気を滅入らせるものがあり心細くなるばかりでした。ソファーのところに行くと、背部に紙が貼ってあり「ここに座って待て」と書かれていました。私はその言葉にしたがい、恐る恐るソファーに腰を下ろしました。
腰を下ろしてもすぐには何も変わらず、なんだかおかしいなと立ち上がろうとしたとき、突然、身体が浮き上がり回転するかのような感覚を味わい、そのまま気を失ってしまいました。そうしてどのくらい時間がたったでしょうか、気が付くと、部屋の天井灯に灯がともり窓の外は真っ暗になっていました。多分、現世についたのでしょう。ややふらつく足取りで立ち上がると、おそるおそるドアノブを回してみました。ドアノブは軽く回り、ドアが音もなく開きました。外には見慣れた風景がありました。星空のきれいな夜で、アパートの前の広場は白く光って見え、その先に楠が黒く影をなしていました。そして、隣の103号室の番号を確かめると、そのドアを叩きました。
ドアが開くと、青年が顔を出しました。でも、その顔は、まだ火に焼けておらず、火傷もなく、衣類もまだ焼け焦げてもいませんでした。彼は私を見ると嫌悪感をあらわにし、眉間に皺を寄せ、いら立って「あんたはここまで追ってきたのか。この現世にも表れたということはあんたも生き霊だな」と冷ややかな声で言うのでした。「生き霊」と言う言葉に引っかかりを覚えましたが、私は、このときははまだ自分を生身の人間だと思っていたので、あまり気にせず、「あんたの魄は、まだ現世にあって、魂だけが現世と陰冥府とを行き来しているのか」と訊いていました。
「そうだ。まだ肉体は病院にあって、かろうじて生かされている。しかし、魂はすでに死んでいるのだ。とはいえ病院にある肉体も、死ぬ瀬戸際なのに、つまらんことを訊くやつだ。だから俺は生き霊なんだ。死ぬに死ねない、中途半端さ。ずーっと俺は中途半端だった。死ぬときも中途半端なんだ。くそ。お前だって、こうやって現世と陰冥府と行き来できるということは魄が現世にあって、彷徨っているのだろう」
青年にそういわれると、こみあげてくるものがありました。しかし、その気持ちとは裏腹に「俺が生き霊だって、そんなことはない。俺は生きている。まだ死んじゃいない」と口からは言わざるをえませんでした。
「あんたはまだわからないのか。この変な世界のことが、このアパートが、まったく普通の人間界の中でのできごとではないことぐらいわかるだろう。陰冥府にいたのだろう。お前の周りは霊ばかりだったろう。みんな死んだ奴らばかりさ。そんな中に居てお前自身が、生身だとどうして思える。この大馬鹿野郎」
その言葉を聞くと、私は、急に何が何だかわからなくなり足元が崩れるように感じました。事故に遭遇した時の記憶がよみがえったからです。あの交通事故にあった日、私が道路にふらふらと彷徨いでたとき、私は、というか私の身体はトラックにはね飛ばされていたのです。そのとき、私の魂は、身体から飛び出て、道端に転がっていたのです。そして犀星さんに拾われたのです。私の身体(魄)は、そのまま病院に運ばれ、まだ意識もなく病院で治療を受けているのでした。その魄の記憶がよみがえると私はうろたえてしまいました。どうしようと、たちまちその場に立ち尽くしました。呆然自失と言うのはまさにこのことで、私は抜け殻同然になったのです。哀しみがこみ上げてきました。「ああ、俺は死んだのか。死ぬ運命なのか。なんてつまらない人生だったことか」と生きていたころの思い出が走馬灯のように目に前にちらつくのです。そうすると身体から力が抜けて、入り口の土間にへたりこんでしまいました。
青年は「そら、言ったこっちゃない。あんたは自分のことさえわかってない、自分の頭の上の蠅さえ追えないのに、どうやって他人の世話がやける。さっさと元の世界に帰って、そこでおとなしくしてろ」と勝ち誇ったように私を罵倒するのです。私は、もう負けた。どうしようもないと、そうあのベンチで寝ころんでいたときのことを思い出しました。目的もなく、ただ生きているだけだった。全く俺の人生はつまらない。つまらない人生だと口から言葉が出かかったとき、そこへ、どういうわけか酒井さんの声が聞こえてきました。そう酒井さんが手渡してくれたあの白い人形から聞こえるのです。
「伊海さん、あたしたちはみんな他人から見れば、つまらない人間かもしれない。でも考えてみて、人間なんて、違うようで違わないわよ。つまる人間だって、一皮むけば、私たちと同じよ。つまっても、つまらなくていいじゃない、それに、私たち、自分をつまらないってどうしていえるのよ。他の人と比べて?でも、比べる相手ってどんな奴、私たちと比較できる人間なんているわけないじゃない。私たちは、いろいろな条件のもとに生まれて、そして生きてきた。同じ条件の人なんかいないんだから。人はすべての条件がもし同じなら、そう変わらないわよ。一人の人間として生きているんだもの。
それに、あたしたちは、なにも大した望みをもっていたわけじゃない。別に自慢もしないし、他の人に何かを大声で誇りたいわけでもない。ただ、あたしはあたしとして、一人の人として生きたかっただけ。伊海さんだって、伊海さんとして生きてきたのでしょ。ズルせずに、そりゃスマートじゃないし、不器用だったでしょうけど、でも自分なりに生きてきたのだから。そりゃそれをつまらないという他人はいるかもしれないけど、私たちにとってはそれが全てなんだから、私たちは自分をつまらないなんて言う必要はないわよ。伊海さん。他人がどう思おうといいじゃない。他人のために、他人にマウントするために生きているわけじゃないわよ。伊海さんは伊海さんとして生きてきたのだから。私は、それをつまることだと思うわ。伊海さんは一緒に飛び降りてくれた、私を認めてくれた。それでいいの、私は。私はそんな伊海さんが好き」と心に囁いてくるのです。
「私は、それをつまることだと思うわ」が心に響きました。私ははっとし、とにかくやることだと悟りました。私は青年のいうように交通事故で、生死を彷徨っているところなのだろう。死んで霊になるかもしれない。でも、それでいいじゃないか。死んだとしても、私は、伊海巧として生きてきたし、伊海巧として存在した。そしてまだ伊海巧としてやることがある。この青年も含めてアパートのみんなを陰冥府から冥府に行かしてやることだ。アパートのみんなも神守さんもそれを願っている。そう思うと、気持ちがすっきりしました。そして酒井さんの声が「そう、やってみましょうよ、私はずっとあなたのそばにいるから」と。
私は、私の魂が酒井さんの言葉に共鳴し、ハーモニーを奏でるのを感じました。そして、また彼の魂の叫びも感じたのです。
私は、しっかりと立ち上がると戸口に立つ彼を押しのけて、部屋の奥に入りました。中は、まさに今、炎があちらこちらに飛び散ろうとしているところで、台所の釣り天井が、カーテンが、押し入れの襖が、今度は赤い輝きをまき散らしながら燃え、畳やその上の新聞紙などが燃え始めたところでした。今度は、私は熱さを感じました。熱いのですが、不思議とそれが怖くないのです。私は青年に相対し、言いました。
「あんたは、魂が苦しんでいるのじゃないか」
「何をつまらんことを言っているんだ。俺が苦しいのだから、お前には関係ない。ほっとけ」
「ほっておくわけにはいかない。とにかく、あんたの魂の叫びが、私の魂にも届き、ゆさぶっている。そしてみんなの魂も揺さぶっているのだろう。だから、魂が純にならずに、陰冥府からでられないのだ」
「誰も、おれの魂を気にしなかったのに。なんでいまさら。他の人のためだったら、やめろ」
すると、陰冥府で彼が消える寸前に伝わってきた彼の思念、彼の心の叫びが二人のこころの中に広がったのです。
「俺なんて、かーちゃんには捨てられ、好きになった女の子には嫌われ、借金まみれで、金に困ってとうとう詐欺を働き、行き場がなくなったどうしようもない奴なんだ。
俺は、おやじに捨てられ、精神的に参っていたアル中のかーちゃんを長い間可哀そうだと思い、できるかぎりのことをしてやろうと頑張ってきた。高卒後は、かーちゃんを少しでも楽にしてやろうと就職した。これで生活保護から抜け出し、惨めな思いをしなくてすむと思ったからだ。だが高卒では正規職員でも手取りは14万円弱ほどで、それまでの生活保護費にも届かなかった。生活は前より苦しくなった。俺はかーちゃんに飲む酒の量を減らしてくれるように頼んだが、そんな我慢ができるかーちゃんじゃなく、勝手にあちこっちに借金をしては飲み続け、結局俺が借金をして後始末をしたが、それもだんだん追いつかなくなった。1年もすると借金のあてもなくなり「お前の稼ぎじゃ足りない、まったく頼りにならないよ。もう貧乏はまっぴらだ」とかなんとか言って、いつのまにか男をつくり、家を飛び出し、借金だけ残してそれっきり戻ってこなかった。
でも、かーちゃんと暮らしていたアパートを出て、会社が寮として借り上げていたアパートに移ったら、アパートの家賃を会社が補助してくれて安くなり、まじめに働いて倹約したので2年ぐらいで借金は返済できた。そうすると小遣いが増えた。それまで、せいぜい食べ物とか雑誌くらいにしか贅沢してこなかったので、急にそれ以外のことに金を使うことを覚えた。スマホも持てるようになり、流行のSNSが楽しくなった。会社は年配者が多かったので、同年代の友達との付き合いはSNSで、高校時代や中学時代の友人も連絡を取り合ったが、中でも若い女性からも友達の申し込みもあり、写真や動画などをやりとりするようになった。
そのうちの一人が、一駅離れた街でスナックに勤めていて、誘いがあったので、実際に行ってみたら、その子(といっても少し年上だったが)がいて、話ができて楽しかったし、とくに俺は普段口下手だったけど、酒を飲むと会話が弾んだ。つまんないことで笑い転げて楽しかった。かーちゃんと二人の時は、とにかくかーちゃんの機嫌を取るのが第一で、かーちゃんのおしゃべりを訊くだけだったので、俺が自分の話をできるのがうれしかった。それにかーちゃんがいなくなって寂しかったから、それを紛らすこともできた。
俺は、その子に会いたくて、周に二回も三回も出かけて行った。でも、好きだとは言えなくて、ただだらだらと酒を飲むばかりだった。おれもかーちゃんと同じで、酒飲みの体質だったから、とにかくよく飲んだ。だから一回の支払いが5000円だ1万円だとかなって、すぐ金が続かなくなった。それでも飲みに行きたかったので、最初は消費者金融に申し込んだが、すぐに限度が一杯になったから、途方に暮れて、SNS で探したら、免許証と電話番号をSNSで送れば、即10万円貸しますとあったので、いわゆる闇金だったが、借りて消費者金融の借金を返して、残りは飲み代に使った。そしてその金がなくなると、その業者の言うがままに、高い金利で借り換えをし、借金を重ねていった。一方でスナックは、たびたび通っていると、金がないから安酒で粘るので、だんだんつれなくなり、ある日のこと、いつものように女の子に話しかけると「あんたね、金がないんだったら、しばらく飲むのをやめなよ」といわれた。でも俺は、その子に会いたくて、通っているのにその思いが伝わらなくていらいらして「俺の気持ちがどうして伝わらなんだ」と大きな声を出したら。「私を安くみるんじゃないよ。あんたみたいな貧乏人が、私とつり合いが取れるなんて思われたんじゃやってられないよ。あたしを口説くんなら、もっと稼ぎを増やしてからくるんだね」と冷たく言い放たれた。
俺は、そういわれても、女の気持ちが分からなかった。もうだいぶ借金が溜まっていたが、あきらめがつかず、それでも通い続けた。だんだん借金で首が回らなくなった。給料の前借りもした。というのは闇金が返済の催促を会社にもしてくるようになったから、借金がバレたし、飲みすぎで遅刻をしたり怠勤したりが目立ってきたから、上司が気を使って、給料を前借してやるから借金を返すようにといってくれたからだ。でも、借金がどのくらいあるか本当のことを上司に言えず、前借では焼け石に水だった。スナックに8か月で100万円ぐらいは使っていた。いれあげていたんだ。とうとうある日、貸金業者からこれ以上は貸せないという、貸すなら、まず借金を全額返せといわれた。俺は切羽詰まって、女の子にお前のためにこんだけ使ったんだと言ったら「バーカ、調子こいてんじゃねーよ。そんなのお前の勝手だろう。貧乏人が無理するから」とほかの客がいる前であざけった。俺は、猛烈に腹が立って、多分、本当は自分に腹が立っていたんだけど、カウンター越しに、その子に躍りかかっていた。悔しいやら、情けないやら、裏切られた気持ちで、殴りかかったが、上背もない俺だから、相手の肩を拳固でかすったぐらいで、ただ、カウンターの上にあったグラスや皿がガシャガシャと飛んで割れてしまった。相手はキャーっというなり、「助けて―」と声を上げたので、近くにいた男たちに俺は取り押さえられて、ママがそばによると「ささと出ていきな。もう二度と来るんじゃない」と怒鳴られてもう夢中で店を飛び出た。
とぼとぼと、アパートに帰ると、入り口に闇金の取立屋がいて、お前の借金は130万円ほどに膨れ上がっている。返済期日はとっくに過ぎているんだ。さっさと返済しないと警察に訴えるぞと言われ、俺はうなだれるしかなかった。おれが黙っていると、その男は「にいちゃん。あのな、俺たちも、困っている人間をそう無碍に突き放すようなことはしたくない。どうだ、俺が、もっと稼げる商売を紹介してやる。少しやばいけど。そこで辛抱して働けば、この130万円の借金はチャラにしてやるぞ」と話しかけてきた。俺も、上司に言われて給料の前借をしても、スナック通いを辞めなかったので、もう会社にはいずらくなっていたのもあるし、アパートも会社の口利きだからいずらくて、もうやけっぱちだったから、深く考えもせずむしろ渡りに船と思って、その男の話に乗った。
道々取立屋は「なーにコールセンターみたいなところで、電話するだけで、歩合制だが、月に数十万円以上稼げるぞ。まあ住み込みみたいなものだから、ちょっと窮屈かもしれないが」と言う。怪しい話とは思ったけど、なんとかなるさと取立屋に連れら、街のはずれのこじんまりとしたマンションに連れてかれた。案の定、いわゆる詐欺の仕事だった。でも、そのころの俺は、世の中は金が全てだと考えていたので、もっと金を稼ぎたい、しがないサラリーマンなんかで終わりたくない。月に何十万も手に入るのなら、いくらでも金を貯められる。金さえあれば世の中はどうにでもなると単純に思い描いていた。
やってみると、だます相手が年寄りと言うのも、俺は気に入った。年よりなんて何もできないくせに、威張ったり、働きもしないくせに、高い給料をもらっていたり、腹の立つことが多かった。リーダーのコナさん(本名は教えてもらえなかった。)と呼ばれていた人が言うには、年寄りは、金ばっかり貯めて、少しも使わない。だから若者に金が回ってこないんだ。俺たちが、年寄りから金を引っぺがして、代わりに使ってやって、金を社会に回してやるんだといっていたけれど、だんだんそうだと思った。話に聞くと、年寄りは金を持っていて、二、三百万円くらいは簡単にひきだせるんだという。俺はなんであまり金を使わない年寄りが、そんな金を持っているんだとおもっていた。不公平だと思ったんだ。世の中不公平だ。雑誌なんか見ていると、月に何千万も稼ぐ人が居るかともうと、俺たちみたいに、せいぜい14,5万円しか稼げないのもいる。俺たちなんて貯金もままならなかったのに、年寄りのところには、何百万、何千万と金がある。おれだったら、それだけあればすぐ使ってやるのに。
俺は、そこでほかの二人と電話係をさせられた。夜はマニュアルで話し方を習い、昼はリストをもとに、電力会社の社員として電気を割安に使える特別契約なんていう話を持ちかけたり、または厚生年金基金中央会(最初、俺はこれは本当にあると思ったけど嘘だった)の職員として年金を増やす方法とか言って電話口で様々にセールストークをかけ、今回だけあなたに特別に有利な話ですかと言って、二万とか三万とかの振り込みをさせるように話を持っていき、その振り込みを代行するから、キャッシュカードやクレジットカードを一時預からせてくださいと誘導するのだ。その時には社会保険料や税金の還付などを匂わせると、結構相手は食いついてくる。世の中欲の皮の突っ張った奴が多いのを感じた。
まあ、そういっても簡単には話は進まない。疑われて切られたり、最初の挨拶だけでガチャンと切る人が結構いたが、それでも200回ぐらいに1回は、こちらの言うことを信用してくれ、金を出そうという人があらわれ、そうすると、今度はそれを外にいる仲間に伝えて、その人のところへ向かわせた。中には、ながながと自分のことを語りだし、一時間ぐらい話を聞いていると、ありがとうとか言って、金を取りにおいでと言ってくれる人もいたりで、一日に1件か2件は、実際に仲間が取りに行くことができた。といっても、必ずしもすべてうまくもらえるとは限らなかったが。
カードを手に入れると、もちろん暗証番号も訊きだして、結局、その年寄りの口座にある預金から半額程度はいただくことができたから、3人で電話して、多い日には一日に100万も200万も手に入る日もあったけれど、10万とか数万は毎日コンスタントに入り、俺達には、食費や住居費を除いて一日2万円が入ることとなっていた。といっても、マンションに缶詰なので、金を使う暇はなかったし、金はグループのリーダーが預ることになっていて、実際には、支払われず現金を拝むことはなかった。携帯電話も取り上げられた。少しおかしいなとおもったけれど、会社も無断で辞め、世間に顔向けできる仕事でもないので、マンションの中で潜んでいるのがいいと思っていた。
やっていることがいわゆる詐欺だとは、分っていたものの、俺が金を受け取るわけでなく、犯罪をしているという気持ちはあまりわかなかった。一か月ほどして、俺たちは、そのマンションを引き払い、あわただしく郊外の一軒屋へ移った。最初、その理由がわからなかったが、後で仲間の門チャンと言う人が、ぽろっとここからかけた電話で騙せたと思った相手に金を取りに行った奴が、捕まったからだと教えてくれた。それを聞いて俺は、初めてやばいと気付いて、やめたいから、働いた分の金を返してもらいたいと言ったら、リーダーが、「お前は何を言っていやがる。お前は借金のかたに、ここで働くんだろうが、その借金をかたさなきゃ、出られねーよ。俺たちは取立屋に200万円払っているんだ。まだまだ働き足りねーじゃねーか」と言った。俺は「借金は130万円のはずだ」と言うと、「利子と借り換え代手数料が上乗せされているんだ」と怒鳴られ、俺はたまらなくなって「そんなの嘘だ。もう嫌だからやめる」と言ったら、リーダーや他の奴らにぼこぼこにされた。そして「お前はもうおれたちの共犯で犯罪者なんだから、世間に出れば警察に捕まるぞ。逃げようなんて思うなよ、逃げようとしたらどっか海にでも放り込んでやるからな」と脅された。
俺はそれを聞いて、どうしようもなく後悔した。止めることも逃げ出すこともままならず、逃げたとしても犯罪者だし、行く当てもなく、絶望感に打ちひしがれた。その後は、気持ちが沈んで、最初、電話がけもままならなかったが、常に監視されて、熱心にしなければしないで、激しく責められ、内心、抵抗があったものの、電話がけを続けた。でもそのうち、電話で騙す相手と話すことが唯一のまともな外部の社会とのつながりだとわかってからは、セールストーク以外のたわいない話が、救いとなって、いつかここから抜け出してやろうという希望をもつことができた。
あるとき、金を取りに行くメンバーが足りなくて、つかまってもいいと思われたらしく、俺が取りに行かされた。当然、見張り役が二人ついてきて、お目当ての年寄りの家に一人で行かされた。するとそこのおじいさんが、「あんたがやっていることがどういうことかはわかっている。俺も元公務員だったからよくわかっている。でも警察に言うつもりはない。逮捕したからと言って、お前さんみたいな下っ端では、こういう犯罪のもとは断てない。それで済むわけではないと最近は思うからだ。金はやるから、もうこんなことはやめなさい。あんたは若い、まだまだ先が長い、いつまでもこんなことをしていてはだめだ」とこんこんと諭された。最初、おれはこの爺さん何を言っているんだ、ただで金をくれるなんて、と馬鹿にしながら話を聞いていたが、繰り返し俺の目を見てとつとつと話す話し方がとても親身に感じてきて、だんだんどっちが馬鹿だかわからなくなってきた。そして俺は何をしているんだろうと思った。そして最後に「これをやるから、これで再出発しなさい」と封筒に金を入れて渡してくれた。見ると20から30万円ちかい札束だった。初めてこんな現金を受け取ったので、手が震えてしまった。おじいさんは「いいか、もうきっぱりやめるんだぞ」と玄関口まで立って見送ってくれた。
俺は、何も言えず、ただただお辞儀をするのが精いっぱいだった。金を鞄に入れて、おれは夢中で走り出した。途中で、見張り役の山ちゃんに捕まったが、金の入ったカバンを渡したら、それに気を取られたすきに、おれは、また走り出した。山ちゃんが待てと言ったけど、カバンが邪魔でもたもたしているようだったので、息も切れよとばかりに走った、早くここからいなくなりたかった。もう一人の見張り役にもつかまらず、走った道を折れると、山ちゃんの声も聞こえなくなった。俺は、それでも走った。くねくねと街の中を縫い、10分ぐらい走り回り、うっそうと木立のしげる公園のなかに逃げ込んだ。小さな茂みに分け入り、その中の木の陰で、木に寄りかかりながら、ゼイゼイする荒い息をしずめた。だいぶたって回りを見ても、仲間の姿は見えなかった。でも安心できなかったので、動けるようになったら、すぐにその場を離れた。行く当てはなかったが、人込みを避けて、人のいない方、いない方へ歩いて行った。どのくらい歩いたか覚えていないが、疲れ切ってしまい、どこか休むところを探していたら、荒れ果てたこのアパートが目に入り、周囲を見回して、誰も見ていないのを確認してから、奥から二番目の部屋のドアを引っ張ると、ギ―っと開いたので、その中に転がり込んだ。
12月だったから、もう夕方で、西日が長い影をつくっていた。だんだん寒くなってきた。部屋の中にはほとんだ何もなかったけれど、たまたまマッチが一つ転がっていて、なかに20本くらいあった。あとは何もなかった。寒かったので、マッチを一本擦ってみた。ポッと点いた炎の温かい光を見ていると、心まで温めてくれるようで、消えるまで見入ってしまった。もう一本、もう一本とマッチを擦っていると、心が落ち着くと同時に、今度は身体に寒さが忍び寄ってきた。入る時に、隣の部屋の前に古い段ボール箱や新聞が無造作に積み重ねてあったのを見ていたので、さっそく新聞やら段ボールを持ち込み、段ボールで寝床を拵え、台所の流しのところで新聞紙を燃やして暖をとった。最初は怖くて一枚一枚燃やしていたが、少しも温まらないから、もう少しと数枚を丸めて薪みたいにして燃やした。だんだん暖かくなると、気も緩んで、眠たくなってしまった。段ボールの寝床の上で新聞紙を何枚かかぶると、暖かくて眠ってしまった。流しの火は最後に見たときは小さかったので、あまり気にせずに寝入ってしまった。
どのくらい経ったろうか、バチバチいう音と、オレンジの光に目が覚めた。いつのまにか床に置いておいた新聞紙の束に火が付き、燃え上がっていた。それに火のついた新聞紙が舞い上がって、床板や近くのカーテンに燃えうつり、さらに自分の上にかけていた新聞紙にも火がついた。そのときはなぜか、怖さを感じず、暗い部屋の中でイルミネーションでも舞っているみたいで夢心地だった。それに火の温もりに寒さでこわばった筋肉がほぐれる感じがして気持ちよかった。でも、畳に燃え移り柱に燃え移り、ぱちぱちと激しい音がして、やっと火事になったと気が付いた。水道の栓をねじったが止められていて、水も出ず、助けを呼ぼうと思ったが、勝手に入り込んだこちらが悪いという頭があったので、何とか消そうと新聞紙で火を叩いて回ったが、そんなことでは少しもおさまらず、とうとう濛々たる煙に巻かれてしまった。
その時、遠くの方からウーウーというサイレンの音が聞こえてきたが、俺はこのまま死ぬのかと思ったら、俺の生きざまでは仕方がないと思う一方で、なんとも悔しくて、かーちゃんにも、あの女の子にも、俺を売った取立屋そして詐欺グループにも、恨みが芽生えて、まだ死にたくないという気持ちが湧いてきた。そして心の底から俺はバカだったと感じた。死ななきゃ治らない馬鹿だと遅いけど自覚した。そうすると死ぬしかないと覚悟したが、身体が焼けていく(焼けても熱さは感じなかった。ただただ心が痛いだけだった)中で、生きたいという願いも強くなった。でも、そのうち気が遠くなって、消防車が来たらしく、消防隊員に担ぎ出され、病院に運ばれたらしいことは、記憶の片隅にあるが、その後は、俺は生き霊となって、この焼け跡と、陰冥府の部屋とを行き来している」
そこで彼の思念が消えました。
私は訊きました。
「生に執着があるんだ。死にたくはない。でも死んで当然だという気持ちもある。魂は、その両方の奥にある心の闇をさすらっているのだろう」
「人の心を覗いたからといって偉そうな口をきくな。お前だって似たようなものじゃないか」
「そうさ、だから言うんじゃないか。もう自分を責めるのは止めて、ここから出よう」
「出ても、その先は死ぬだけじゃないか。霊になってどうかわる」
「あんたはまだ死んではいない、生き返るかもしれないじゃないか」
「ふん、そんなことをいっても意味ないことはお前が一番知っているだろう。俺の魂がアパートの他の連中の魂と不協和をおこしているということは、彼らの魂が俺を呼んでいるということじゃないか」
「そうかもしれないが、でも、このアパートで縁を得て、今や君は一人ではないということだ。見てみろよ、他の霊達の今を、あんたは俺の心の中も見れるのだろう。だったら、俺が見たアパートの霊達の今を感じろよ。みんなの魂は、曇りなく明晰になっている」
青年ははっとした顔をし「生きたかった。生きたかったんだ。どうあがいても。他人を恨んでも詮無いことだが。とにかく生きたかった。生きたかったんだ。そうなんだ」と大きな声で叫びました。
青年の表情がゆっくりと柔和になって行きました。最後にはにかむような笑みを浮かべて「どうせ俺は死ぬ。でも、ようやく今になって心の闇が消えた気がする」といいつつ、「ああ、生きたいな。もう一度、やり直したい。だました人に謝りたい。罪を償いたい。別に誇れなくてもいい、面白くなくてもいい、大変でもかまわない。生きたい」と繰り返しました。
「とにかく生きるも霊になるのも、この火の中から出よう」
「でも出ていいのかな。俺はここでじりじりと焼け死ぬのがあっているよ」
「でもあんたはもう何回も焼け死のうとしているじゃないか」
「・・・・・」
「さあ出よう。もう何回も苦しんだのだろう」
「いいんだ。もう生きている価値は俺にはないから」
「あんたは、生きたいのだろう。」
「生きたい。どうしてこんな風に死ななきゃならないか、俺にはとんとわからない。でももういいんだ」彼は頭を抱えて炎が広がる部屋の真ん中に座り込んでしまいました。私は、彼の腕をとると
「とにかく、もうここから離れるんだ。もう死のうとすることはやめなければ。もう何回も死のうとしたのだろう」と
「ああ、数えきれないくらいだ」と炎の燃え盛る中で、嘆息をしつつ、応えました。
そして「もう、死のうとしなくていいのだろうか。」と呟くと彼の身体からこわばりがとれ、ようやく立ち上がりました。髪にも火がつき、衣類も焼けて腕も足も炎にさらされていました。
「さあ、出るんだ」私は、彼を炎のなかから外へ連れ出しました。火の勢いは今や、窓を破り、上の廊下にとどきそうでした。助かったと、彼を少し離れた地面に横たえていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきました。
そのとき、神守さんの声がしました。
「伊海さん。早く彼を104号室に入れて。そうすれば、彼は、こんどこそ死んで、霊になるから。そしてあなたは残るの。そうしてあなたは目覚めることができるから。今度のことは、とてもよくやってくれた。本当に感謝しています。あなたはもう陰冥府には戻れないから。だから会えないけど、ここでお別れ」とはっきりと伝わりました。
私は、あわてて「私も一緒に104号室に入ってはいけないのですか。」と訊きました。
神守さんは「104号室に入れるのは一人の魂だけ。あなたが入ったら彼は霊になれない。」
「どういうことですか」
「彼が生き返って、あなたが霊になってしまうということ。でも運命はあなたが生きることを望んでいる」
わたしは頭の中が混乱してきて、とにかく言われたままに彼を104号室に導きました。彼は素直に、入って行きました。
「もういいんだ。俺なんか生きかえっても同じことだろうから。あんたが残ればいいよ。」と寂しげな笑顔を見せて部屋の奥にはいっていきました。
私が104号室のドアに手を掛けると白い小さな人形を通して「伊海さん、ありがとう」と酒井さんの声がしました。また豊や立花さんや、マーちゃんの声もさようならといっていました。
私は、それから小さな人形を握りしめて「さようなら酒井さん、豊君、マーちゃん、立花さん」と言って、彼にさようならと挨拶をしました。青年は、振り返りにっこりと微笑んで「ありがとう。管理人さん、さようなら」と言ってくれましたが、その姿がなんともいえず哀れに感じたものでした。
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