霊界アパートの管理人
@taiheiheita
第1話 出会い
最近はそうでもないようだが、昔はアパートのように多くの人が一緒に暮らす場所には、魔訶不思議なこと、怪異なことについてよく語られたものだった。まあ不思議とか怪異と言っても、よくよく探ってみると、それなりに理由はあるのだが。とはいえ常識では割り切れないから不思議だし怪異なのだ。若いころに住んでいたアパートの台所の水道の蛇口は、私が、思い悩んで寝付かれない夜中に、触ってもいないのに水が数秒ながれた。ジャーっと、寝る前にできるだけきつく締めていても、流れるのだ。最初はびっくりしたが、そのうちこちらの気分が落ち込んでいるときにだけ流れることに気づき、なんだか「お前ひとりではないぞ」と知らせているらしいことがわかって腑に落ちたものだった。つまらないことは「水に流してしまえ」というのだろう。
また、これは友人の体験談だが、昔、彼の住んでいたアパートでは、金曜日の深夜の3時ころになると、コッツ、コッツ、コッツと階段を上がる靴音がする。でも上がった後は、廊下を歩く音はしない。彼も夜中は眠っていることが多いので、あまり気にはしなかったが、それでも何回か遭遇したあとで、一度は誰かのいたずらかと、階段の靴音がしたときに、物好きにも、台所の窓をそうっと開けて、目を凝らして廊下の左右に目を走らせてみたという。だが、人の気配はまったくせず、おかしいなと何気なしに後ろをふりむくと黒い影がヒューっと目の前を横切って行った。部屋の中に彼以外誰かがいるはずもなく、そう思うと身体がぞくぞくして、急に眠くなり、そのままその場で寝入って、その日の昼過ぎまで眠ってしまったことがあったという。やはり人ではない何かがいたのだと思うと述懐していた。
私が別のアパートに住んだときも、そのアパートの一階の隅で静かに暮らしているサラリーマン、宗田さんと言ったが、普段は、挨拶をしても、消え入りそうな小さな声で応えるような中年の男性であったが、その彼が時折豹変して、全く別のキャラクターとなって現れることがあった。あるときは、深夜にもかかわらず、沢畑研一とかいう歌手を名乗って、階段の上で朗々たる歌声を聴かせてくれた。歌声は悪くなかったが、時間と場所が悪くて、あちらこちらから怒鳴られ、なかには卵や水なんぞを投げつけるやつもいて、宗田さんは大変なめにあっていた。また別の日には、どうも亡くなった詩人の寺岡修一となって戻ってきたようだ。手に「ワープロを捨てて田舎に帰ろう」を持ち、あちらこちらの家々に入ろうとしたり、一階のモーレツおばさんの異名をとった片岡さんと言う女性の風呂場の窓から顔を出して、のぞき見をしたりしていたという。片岡さんからはたっぷりとお湯のご挨拶を浴びていた。みんなは、気が小さい人は酔うとああなることが多いのよと噂していたが、後からご本人に聞いたところでは、別に酔っぱらったということではなしに、何か霊のようなものが憑依するらしく、自然に体が動いてしまったのだそうだ。でも、それ以来、片岡さんは宗田さんに激しいアタックをはじめて、それはそれで大騒ぎになった。まあ片岡さんの風呂場を覗くとは、いくら霊に憑かれたとはいえ恐れ知らずにもほどがあると言うものだ。その後すぐ私はそのアパートを退去したので、二人がどうなったかは知らないが、宗田さんでは片岡さんに押し切られたのではないかと想像している。まあ現実は厳しいものだ。
そんなことが、昔は、どのアパートでも一つや二つ語られたことがあったと思う。でも、多くの人は、うすうす感じていても、それほど深刻には考えない。薄気味悪いとは思ってみても、大勢が一緒に生活しているのだから、そりゃ縁起の良くない話、哀しい話、痴話喧嘩の後日譚など、みんなの好きな小さな他人の不幸、そうした人の世の性があらわれやすい闇が巣くいやすいものだ。闇は、ときには、噂として、人の口から口へとひろがり、アパートの空気の中に澱のようにたまっていったものだ。大概、アパートの中やその近所には「放送局」などと綽名される、今でいえばインフルエンサーが、そりゃ、今どきと比べたら影響力も微々たるものだが、知り合いとみれば、片端から面白おかしく尾ひれをつけて広めていたから、怖い話も薄められ、毒気が抜かれて、口当たりのマイルドな話になって伝わるのだ。そうして闇は忘れられていく。
先ほどの友人の体験談なども、階下の人に訊くと昔二階に女性が住んでいて、多分その女性の霊が懐かしさに階段を上がってくるという噂だと、教えてくれたという。なんでも、その女性はすごい美人であったが、どこか薄幸そうな気配が漂っており、どうも早死にしたらしいというのだ。でも大家さんに言わせると、確かに二階に若い清楚な女性が住んでいたが、数年前に結婚して出て行った。先日も近くの商店街で挨拶され幸せそうにしている姿を見たばかりだ。死んだなんて縁起でもないと、えらい剣幕で怒られたという。まあ噂と言うものは、得てしてそんなものだ。
私の遭遇したようなおかしな話も、隣に住んでいたおじいさんに言わせれば、「そういうことも最初はびっくりするし、怖いものだが、二回目になると怖さも減って、三回目になればちっとも怖くなくなる。」と面白がっていうのだった。まあ、そういわれてみれば、そうなのであって、不思議な話も、繰り返され、人から人へ伝わり、その界隈のフォークロアの新バージョンに収まって、とのどのつまりは、みんなのものとなる。そうするとなんだか不思議なことが、普段の生活の中に織り込まれて、アパートの一つの色のない色、匂いの無い匂いとなるのだ。それが昔のアパートであったような気がする。
大体、昔のアパートの壁は薄くて、大きな声を出せば、隣と会話ができるくらいだった。それに天井裏も、区画壁がなかったから、天井を通じて遠くの部屋の音が響いてきたものだった。だから、部屋は違えども、お隣のことなど筒抜けで、隠し事も容易ではない一方で、あけっぴろげで、同じアパートに住む人同士、家族のような気安さもあった。だから、怖い話もすぐみんなのものとなった。
最近は、アパートも変わって、ずいぶんこぎれいになり、そして隣室との壁もだんだん高い防音性をそなえるようになり、聞こえにくくなった(とはいえ結構聞こえるのだが)、それよりも最近の風潮としては心理的な壁が大きく立ちはだかり、あまり深く隣人の生活に立ちいらないようになってきていることもあって、同じアパートに住む者同士のつながりは昔に比べると希薄になった。大体、隣の部屋の人の顔を見たこともない住人が結構多いのではないだろうか。互いに知らないから、挨拶もしない。とうぜん会話も成り立たない。いや変に隣人に関心をもったりすると、怪しまれて、敬遠されるような雰囲気が、今のアパートにはうかがえる。こうなると、今までアパートのなかで共有できた話題が成り立たなくなった。そして、アパートの不思議噺は今や風前の灯となっている。やはり時代の流れは止めようもない。
ただ、アパート自体の持っている摩訶不思議さというもの、ある種の怪しさは、やはりまだどこかしらにあるといえる。なんというのか、人の生活のあるところ、目に見えない、忘却された闇はひっそりと、しかし確かに存在するのだから。そして、人々の暮らしが連なるところには、それらの忘れられた闇が、ときに顔を出さずにはいられないのだ。そのように思うのも、先日、たまたま入院した折があったが、大変不可解な体験をし、あらためて、そのようなアパートの魔訶不思議の有り様を深く感じる機会があったからである。
実際、それはまさに怪しい出来事だった。
もう半年も前になるが、私もいい歳となって、昔ほどに身体のことを気にせずにすごすわけにはいかなくなり、とうとう入院を余儀なくされた。血圧が上がり、上が200を超えるというひどい有様になった。どうも頭が重いと思っていたが、血圧だったのだ。それ以前から高血圧症で、降圧剤を飲んでいたのだが、服用したりしなかったりして、その上、眠れないからと飲酒も増えて、このありさまというわけだった。毎日の散歩は欠かさず、診察が近づくたびに、短期の節制をして糊塗してきたが、今回はさすがにその程度ではごまかせず、二か月間隔の定期診察を受けると、即入院となった。そして2週間ばかり、薬の調整を兼ねて入院となった。
ところで、最近気づいてはいたが、入院してみて、ここ何十年かで病院が大きく変わったことを肌で知った。私は主治医の出身大学の附属病院に入院したが、その設備のすごいこと。15階建ての立派なビルに、付属の研究所やら検査所やらの建物もあり、中にはレストランは言うに及ばず、コンビニから美容室、それに図書コーナーなどのアメニティ設備まで備えており、病院の中だけで十分生活が完結できるほどである。その建物群を外部から見れば、現代の城塞かと見紛うばかりである。実際、最近、都市近郊で巨大な建築物を見ると、大概が新しい病院と言う具合で、高齢者の増加とともに、そして日本経済の衰調をしり目に、病院は、隆盛を極めているように見える。まあ、儲かっているかどうかは別にして、そうやって病院も新しい設備を整え、大型化していかないと医療の現代化に後れを取り、競争に勝てないのであろう。
しかし、利用する者にとっては、こういう最新の設備も困惑することが多い。以前であれば看護師が優しく伝えてくれた診察の時間や入浴の時間もすべて貸与のペンダント型のポケットベルで事前連絡される。うっかり聞き落すと、「何していたのですか、ちゃんと見ておいてくださらないと。」と口調は穏やかでも、叱られてしまう。診察室には、デーンとディスプレイが複数あって、主治医が手元のキーボードをカチャカチャと操作すると、右や左に検査結果が図示されたり、レントゲン写真が映し出されたり、薬の内容などが表示されたりする。一見は百聞に如かずというが、しかし、こちらは右を見たり左を見たりと忙しいし、またレントゲンを見せられても、たった数秒で「ほらね、ここが白いでしょ。」といわれても、こちらにどれほどの理解力があると思っているのか、さっと見せて終わり、検査結果だって20から30項目あるのだから、そのうちの1,2項目を取り上げて「この数値が高いから」と言われても、ただただ、はいそうですかと言うほかない。それらを見ている間に診察時間は終わってしまう。主治医の顔をまともに見る暇もなく、そそくさと診察室を後にするしかない。こちらは主治医の貴重な時間を分けてもらっているという弱い立場なので仕方がないのだ。
それに、巨大な建築物は、それだけでもう非人間的な存在だ。正面の玄関ホールこそ、植栽が植わり、ピアノが置いてあって人間的な雰囲気を漂わせてはいるものの、一歩奥に入れば、医療活動を最適化する合理的な配置の医療ビジネスの世界が広がっている。たとえば病院の中は我々から見れば迷路のようで、健康人であればともかく、病人にとってやさしいとはお世辞にも言えない。私も入院した当初は、構内の売店に足を運んで、帰りにちょと探訪と称して寄り道をすると、もうすぐ迷子になってしまった。首から下げたペンダントを押すと、小さなディスプレイに現在地を示すガイドが示され、それに忠実に従えば間違えないと思うのだが、見覚えのある場所に出たりすると、もう大丈夫だと思って、ガイドを外れたり、エレベーターで階を間違えて降りたりすると、同じ色の壁、同じ窓や扉の配置、装飾も統一されているといえば聞こえがいいが、寸分も違わないので、そのようなテンプレートな景観に惑わされる。まして看護師たちも、患者もほぼ似たような姿で、個性がうかがえず、まるで映画の中の未来社会のようにも見えて、たちまち右も左もわからなくなる。大体において外の風景が見えないので、方向感覚が狂うので、困ったものだ。幸い、職員に訊けば、親切に教えてくれるので、途方に暮れることはないが、さっき道を尋ねた人に、数分後、あらぬところで出会うと汗顔もので、なんだか認知症にでもなった気分だった。
とはいえ、昔のあの病院の薄汚れた壁や天井、昼間も日がささず、ほの暗く影も定かとならない室内灯、そしてあの人影がなくなったときの病室や病棟の廊下の薄気味悪さなどを思い出すとき、昔の病院も、アパートに勝るとも劣らず、不可解なことが起こる場所であったのに、今や、なにもかもが新しく、院内は明るい灯火の下、あらゆる陰影を消し尽くし、ル・コルビジェの建築物のように直線的で光にあふれ、怪しげな迷妄事など吹き飛ばしてくれるようだった。そんな病院の中、入院して3,4日もたつとだいぶ慣れ、特に薬が効いてきてからは、ベッドにじっとしておられず、診察と検査の合間には、構内を歩きまわって、売店を冷やかしたり、ナースステーションの休憩中の看護師に声を掛けたりしてひまをつぶしていた。とくに、気に入ったのが、隣の病棟の12階のオープンスペースで、北面に面していたが、サンルームばりにガラス窓が広く、街並みが眼下に広がり、遠く山並みも見えて、居心地がよかった。午後は、見舞い客も多く、にぎやかだったが、広いので静かに一人で過ごす場所も確保でき、読書にはもってこいであった。
その休憩室の前にも病室が並んでいたが、一番端に1240の番号のついた個室があって、そこはいつもドアーが開け放たれ、一人の男性患者が入院していた。なんとなく、気になる部屋だったからそれとなく、本から目を離すと、ついついそちらに目が吸い寄せられるのであった。そうしていると、たまたま中の男性と目が合って、人懐こそうな微笑みを見せ、頭を下げるので、こちらも下げたら、私に近づいてきて、話しかけたのだった。
「昨日も、一昨日もこちらにおみえでしたね。お見掛けしました」と声を掛けてくれた。私も入院の無聊をかこっていたので、そのお誘いに一も二もなく乗った。伊海さんと名のり、年は私より一回り下であったが、彼は自動車事故で脳を強打し、なんでも5年間も意識が戻らず寝たきりであったという。数週間前、奇跡的に回復し、ここでは、その脳の検査が続いていることとリハビリのため入院しているのだという。はじめは大した話をしなかったが、お互いまあまあ歳もいっているので、どうしても懐旧的な話題が多くなり、病人同士の気安さもあって、昔のあれこれを話すようになった。私も感じてはいたが彼も、病院の変わりように驚いていたし、街の景観の変化も話題になった。とにかく都市部では高層のマンションが増えて、昔はたくさんあったアパートが消えていっている。残ったアパートもこぎれいになり、昭和の色がどんどん街中から消えていているということではお互いに意見が一致したのだ。
そのうち、伊海さんが、「私は以前アパートの常駐管理人をしていましてねと、そこも古いアパートで、まさに昭和の建物でした」と言われたのを耳ざとく聞きつけて、「今どき、珍しいですね。アパートの管理人とは。マンションならわかりますが、大規模なアパートだったのですか」と尋ねると。「いえいえ、8所帯ばかりが入る普通の、そこらにあるようなアパートでした。ちょっと変わった事情があって・・・」とそこまで言うと、なんだか急に口ごもるので、私も、これ以上訊いてもどうかと思ったが、ふと伊海さんの目をみると、どうも私に訊いて欲しいと訴えていたので、思い切って「もし差支えなければ、その事情とやらを教えてもらえませんか。プライバシーにかかわることでもあるのですか」と私も興をそそられて尋ねた。「いやいや、プライバシーがどうのこうのと言うことではないのですが、あまり口にすべきことでもないようなので」と少し困った顔をしたが、そのうち、伊海さんが、「こんな話をすると、あまりにも荒唐無稽で、ばかばかしいと思うかもしれませんが、そのアパートでなぜ管理人が置かれていたか、お話していいですか」と少し硬くなって私の目を見て言った。私がゆっくりと「ええ」と応えると、安堵の表情をみせ、それからしばらく沈黙していたが、やがておもむろに語り始めた。。
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