香水とパーレン
目が笑っていない。
そんなの、見ただけで明らかだった。
何かを悟ったように絶望に満ちていて、でも緩やかに弧を描く口元から自分以外の何者かに対して向けている希望を感じる。教室の窓から差し込む橙の光を受けて、柔らかい黒髪を風で揺らしながら、その瞳はずっと、私を見つめ続けていた。
:)
「やっほー、
「おはよ〜」
手を振る友人の元に、風で乱れた髪を手櫛で直しながら向かう朝は、もう身に馴染んだ習慣だった。席替えをしたばかりで慣れないはずの机の並びすら、前からそうだったように思えてくるほどに。一年の頃から仲の良い友人である
「人来たらちゃんとよけなね、千恵子」
「わかってるって〜」
彼女のあまり真摯に受け止めていないような気の抜けた返事に思わずため息を吐いてしまう。だが、どうこうしようという気も起きず、私はリュックを下ろして席についた。
数日前の席替えで、うんざりしてしまうほどの太陽の光が差し込む窓側の後ろから二番目というポジションを掴んだ私は、きっと他の人からしたら羨ましいに違いない。しかし、正直にいうと私は前の席が良かったなあと思ってしまっていた。
「……ここもここで悪くはないけど」
こっそり、視線を向けるには最適だという意味で。
千恵子はそんなふうに考え事をしていた私に向かって頬杖をつきながらニヤリと笑って見せた。
「
「あ、いや! そんな……」
「バレバレなんだよなあ」
私の頬が静かに火照り始めて、千恵子を見ていられなくなってきょろきょろとあたりを見回した。すると、教室前方、いつものように男子が塊を作って何かを話している輪の中にその人はいたのだった。クセがあって一房一房が生きているような髪と、右目付近にある泣き黒子、タレ目で優しさを帯びたその目に、笑うたび大きく開かれる口元。何もかもが魅力的な彼は今日も行動を誰かと共にしている。
彼の名前は、一条
隣の席だった頃には、うとうとしていたらさりげなく起こしてくれたり、こっそり先生の出した問題の解答教えてくれたり、休んだ日のノートを見せてくれたり……。本当に理想の男子で、私の単純な心は、気が付くといともたやすく彼に落ちていた。
「まーた一条だもんな~」
「だって……」
「気持ちはわからなくない。良いやつだし。でも、そこまで? って感じ」
「千恵子にはわかんなくてもいいよ……」
私だけ知っていれば、それでいい。その言葉はぐっと飲みこんでみた。
あ、また笑ったなって、頬杖を突きながら眺める。その場に大きな向日葵が咲いたみたいな一条君の顔にまたとくりと胸が高鳴った。一条君が笑えば、それに続くように笑顔が咲き乱れていく。私は、ふいに彼が好きだなという気持ちを再度実感した。
一条君が、本当に好きって思ったのは、つい最近のこと。
本当に些細なことであったが、国語の授業のペアワークでのこと、作文型の課題の確認作業をしていた時の話だった。
「……
「……え?」
私の解答は、一条君が書く模範解答のような文章とはかけ離れた、そして国語という教科との相性が悪いひねくれた思想が反映されてしまっているものだ。昔から、国語は好きなのに、国語という教科は本当に苦手で、テストでいい点数をとれた記憶がない。暗記でなんとかできるところはいいのだけれど、本文を根拠に解答を作る問題は、どうしても何かがずれてしまう。それが私の答案用紙だった。
「そんなこと言う人、一条君が初めてだよ」
「そう? 案外、みんな見る目ないねえ」
「現に、私の国語の点数とか、本当に文系? ってぐらいにはよくないもの」
「たかが教科程度の国語が出来ても、それは才能でもなんでもないんすよ、それは俺が一番よくわかってる」
そういうと、一条君は私のワークシートを差し出しながら、私が好きになった明るい太陽のような笑みを浮かべて私にこう言ってくれた。「自信もっていいんじゃない?」ってそう一言だけ。
私の文章をほめてくれた人にこれまで出会ったことなくて、私が解答らしい解答を作れないことを認めてくれた人ともこれまで出会ったことがなくて、自分が認められたってただそれだけで本当に心が満ちて、そういう人を見る目を持っている優しくて明るい一条君が好きだなって思った。これが、はじまりだった。
「な~ににやけてんのよ」
私の込み上げてきた楽しさは、どうやら顔に出てしまっていたらしい。千恵子は、少し不満そうに口をとがらせていた。
「なんでもないよ」
「え~?」
「ほんとうになんでもないってば」
こんな風に繰り広げられ続ける朝の小さな女子トークは、チャイムの音にさえぎられるまで延々と続けられた。
:)
高校三年生の、秋はゆるやかに過ぎ去っていくものなのだろうか。換気のために開け放たれた窓から風がびゅう、と吹いて私の頬をかすめ、ふわりとした時の流れのようなものを感じた。
「また風だ……。はあ」
あらゆる理由で一人となり、全くもって進まない清掃作業は、爽やかな風とは裏腹に私の心を灰色のもやで覆っていく。
「みんな、受験、頑張ってるもんなあ。仕方ない……」
私が断ったせいで受験に落ちる人がいたら嫌だって思って、頼みを受け入れてしまったせいでこうなってしまったことはわかってる。休んでる人もいたとはいえ、本来苦戦するほどの状況になるはずがないにもかかわらずこうなってしまったのは、確実に私の心の弱さのせいだから、仕方がないのだ。
今なら溜息をついたところで誰にも見られないだろうって思って、その場で大きく息を吐いた。
そんな時にふと、廊下から二人分の足音と話声が聞こえてきた。そして、離れていても分かってしまった。
この声は、一条君とだれか女の子の声で、しかも聞き覚えがある。初めはあまり聞こえていなかったその声はだんだんと大きくなっていく。
そういえばクラスメイトが噂、してたっけ。一条君と元生徒会長の
つらい、くるしい、どうして、なんで、わたし、どうしたらいいかわからなくなるじゃん。
モップの柄を強く握りしめ、締め付けられてひどく痛む胸を抑え込もうとしてみても、それはできない。
別に、私だけのものにしたいとか思ってなかったし、一条君の記憶の端に私という存在が入り込めればそれでいいって思ってた。でも、意図せずわかってしまった。これは、上辺だけの感情だったんだって。
どうしようか、どうにかしなければと私自身に暗示をかけ続けていると、こつり。……ふと、足音が止まった。
「あれ、折原さん?」
ギュッと抑えていた目をゆっくりと開いてみると、そこにいたのは、先ほど廊下で話していた一条君と、八坂さんだった。
一条君は、教室を見渡した後に小首をかしげて私に聞いた。
「ほかの人、どうしたんすか」
震える、震えている。私が悪いわけじゃないのに。
「え、っと。塾がどうとかって」
「確かに今日少し帰りのSHRの時間伸びてバスの時間はギリギリだったけど、だからって、折原さん一人にやらせる必要はなかったでしょ」
「休みの人も、多かったから」
「それも、そうだけど……」
言い淀んだ一条君の隙をつくかのように八坂さんは冷たい視線のまま私に言い放った。
「それでも、規則は規則でしょう。清掃をしなくていい理由にはなりませんよ。しっかりと断らなくては」
「そう、ですね」
薔薇という花を体現するのにふさわしい美しく冷たいその人に相対して、緊張が体全身に走るのを感じた。仕方なかった、なんて私の自分勝手な胸の内を明かすわけにもいかず、なにも言い返せなくて、黙ってしまった。
そんな言葉に割り込むように、一条君は明るい声を発した。
「いやいや! 素直にそういえなかった事情が折原さんにもあったんでしょうに!」
驚いて目を見開く。一条君は、人の心……いや、私の心を分かりきっているかのようにそう言った。私が言いたいと思ってもいえなかったことをすんなりと言ってくれたのだ。
ああ、暖かい感じがする。どうして彼はこんなにも優しいんだろうって、きゅうと胸が締め付けられた。
「それに、八坂さんほど割り切ってる人の方がレアっすよ」
「あら……。そう」
八坂さんは、なんにも気にしていないような様子でつまらなそうに言葉を返していた。対して一条君は、大きく二度ほど頷いた後、八坂さんから離れる一歩を踏み出し、私の方へと向かって来てくれたのだった。
「八坂さん、俺手伝っていきます」
「ええ、そうなさい」
そういった後、八坂さんは、少し興味深そうに目を細めて私を見たかと思うと、あっさりと教室から離れて行ってしまった。こみあげてきていた恐怖感のようなものがすうっと引き、そして、再び秋風は教室を抜けた。
「手伝ってくれるの?」
「え? 一人は大変でしょ。二人ならまだマシじゃん」
そういうと、私が壁に立てかけておいた箒を取って、教室の奥へ奥へと塵や屑を掃い始めてくれた。
「ほら、早く終わらせて、帰ろうよ。折原さん」
「うん……。私、モップがけするね」
「よろしく~」
好きな一条君と二人きり。嬉しくないはずもなく、先程の八坂さんの面影など忘れて私は有頂天になっていた。対して一条君は、そんな私のことなど気にも留めずにてきぱきと作業をしてくれていた。
「机も戻すからさ、折原さんはそのままモップがけしてて」
「うん、わかった」
床と机の脚が擦れる音と、二人分の足音と、風の音だけが教室に広がる。でも、それに加えて私の中では心臓の音がどくりどくりと響き渡っているのを感じた。
見込みがなくても、せめて友達でいられたら、それだけで十分。そうやって必死に自分へ言い聞かせて必死に普通を取り繕おうとしていたのだけれど、思考の端に八坂さんの姿を思い出してしまう。
抱えていてもしょうがないだろう、私は一条君に聞くことにした。
「……そういえば少し気になったんだけど。一条君って、八坂さんと仲いいの?」
「え?」
「みんな噂してたから……。八坂さんとその」
そう僅かに言い淀んでしまった私に対して、一条君は口をぽかんと開け放って目を丸くした。しかしその後すぐに、ああ……! と言ってにこりと笑った。
「俺と八坂さんが付き合ってるって? ないない! 天地がひっくり返ってもない! 単なる利害の一致で一緒に行動させられているだけだよ」
「え、そ、そう、そうなんだ……」
少しほっとして胸をなでおろす。まだ、希望があるって淡い恋心を躍らせてみた。一条君は、くすくすと控え目に笑いながら、引き続き机を元に戻していく。
「以外だなあ。折原さんってそういうの気にしない人だと思ってた」
「まったく気にしないわけじゃないと、思う。人並み、かな?」
「そっか~」
普段は広いと感じる教室が、もう狭い密室のようにも感じられて、ドキドキしてしまう。平常心、平常心とおまじないをかけて、必死にモップの柄を握りながら教室を綺麗にしていく。埃の舞う教室というシチュエーションさえ、ロマンチックに塗り替えられていき、私を喜ばせる最高な状況が出来上がっていった。
一通りモップをかけて机から椅子を降ろして、箒とちりとりをつかって、集めたゴミを取る。
「よし! それじゃあ、あとは、ゴミ捨てと黒板くらいだね?」
「そうだね、ありがとう一条君」
「いーえ。その分今日休んだ奴らに俺の当番と変わってもらうからさ!」
「そうだね」
ああ、楽しい。
こんな気持ちになったのは本当に久しぶりだった。一生この時間が続けばいいのに、なんて叶うはずのない願いを浮かべながらちりとりを持ち上げ、塵や屑をゴミ箱へと流し込んだ。
「じゃあ俺、ゴミ捨ていくんで、黒板宜しく」
「うん、わかった」
そうしてゴミ箱を持ち教室から出ようとした一条君が、ゴミ箱をもったままふと立ち止まった。
「そーいえば、折原さん」
「え、な、なに?」
「あ~。いや、やっぱりなんでもない。ごめん、邪魔したね」
「大丈夫……」
一条君は、そういうと特に変化なく普通の様子で、ゴミ箱を持ったまま教室から去って行ってしまった。どうしたのだろうと、首をかしげるも、深く追求することも出来ずに私は黒板を綺麗にする作業に専念することとなった。
ほどなくして空のゴミ箱だけをもって帰ってきた一条君は、軽快に右手を挙げてまたいつもの笑みを浮かべていた。
「お、終わった?」
「うん、どう? それなりには綺麗、かな」
「十二分に綺麗だと思うよ」
その言葉が、自分に向けられたものではないと知りつつも、少しだけ頬に熱が集まってくるのを感じる。対して一条君は、珍しく目を細めたどこか虚しい笑顔を浮かべていた。
「仕事が丁寧でいいね、流石折原さん」
「ううん、一条君こそ。今日は本当にありがとう」
「いえいえ、今度はちゃんと掃除しろっていうんだよ」
「わかった。そうするね」
なぜか、いつもの一条くんとは違う、そんな気がした。
いつもの明るさがうってかわって陰りを帯びている。きっと、一条君のことだ。その陰には触れてほしくないだろうと思う。少なくとも単なるクラスメイトの私には。でも、すこし、もうすこしだけ、と踏み込んでみたいと思ってしまう私の悪癖が、いつのまにやら姿を見せていた。
そう、気づかないうちに、私は口に出してしまっていたのだ。
──さっき、何言いかけたのって。
しばらくの無言の後、数度視線を泳がせて一条君は言った。
「……気になる? 別に大したことじゃないよ」
「気になる。けど、言いたくないなら大丈夫」
「うーん。逆に折原さんが聞いていて不快にならないかなって」
「どういう、こと?」
「そのまんまの意味。俺ら友達じゃいられなくなるかも」
思ってもみない彼からの死刑宣告もどきは、私に鉄槌を落としたようだった。せっかく仲良くなったのに。せっかく、好きになれたのに。それが壊れてしまうかもしれない、そんな恐ろしさが一気に打ち寄せた。
一条君は、問うた。
「それでも、聞いてみたい?」
と。
ここで、うん、と頷いてしまえば、どうなってしまうのだろうか。彼の言う通り今通りの関係には戻れなくなるのだろうか。
でも、私は知りたかった。好きな人の心の内を、知りたかった。
「……聞いてもいいなら、聞きたい」
少し苦笑いをして、優しく声をかけた。
「そっか。じゃあ聞いてよ」
とぎれとぎれで、淡々と、静かに一条君は話し始める。
「……俺さ、いるんだ。ずっと好きな人が」
「好きな、人」
太鼓のばちで強く胸を打たれたような衝撃が走る。その後に続くのは、何? 怖くて聞きたくない気持ちと、聞いて楽になってしまいたい気持ちとが入り混じる。
「やめてほしいって思ったらいつでも言ってよ」
「わかった。でも、大丈夫だよ、大丈夫」
「そっか」
一条君は、二度ほど瞬きをした後、少し悩みながら言葉を紡いだ。
「その人と初めて出会ったのは、中学生のときだったんだ。生身であったわけじゃなくて、インターネット上の人で。さらに詳しく言えば、ネット上で小説を書いている人だった」
一条君は、言い切った安堵なのか少しほっとしたように笑った後、またすっと顔に影を落とした。
「好きだって思って、その人のSNSも、ホームページも、小説投稿サイトも、まるでストーカーみたいに追いかけてた。最初は追いかけてるだけで幸せだったんだけど、徐々に自分を知って欲しいって思ってメッセージ送ったりもしたんだ」
その気持ちわかるなあって、言おうとしたがそれは静かに心に留めておくことにした。
「……今思うと、その人だって知らん奴にいきなり声をかけられてきっと怖かったと思う。それに関しては申し訳なかったなぁ」
中学生の頃の愚直な一条君の姿を勝手に思い描いて楽しくなり、思わず私から笑みが溢れた。
「えぇ、今のところに笑う要素あった?」
「ふふ、中学生の一条君、可愛いなって」
「今だからそう言えるけど、昔は本気だったんだよ、一応……」
少し照れ臭そうに頬をかいて、視線を泳がせた。そうして泳がせたのち、彼の視線は足元へと向かい、そして、瞼を落とした。
「でも、ある日突然その人は消えた。何も残さず、全ての痕跡を消して、まるで最初から存在していなかったように」
ふと雲が影を落として、夕日という橙色の光を遮ったような気がした。鈍色に染まる教室に残されているのは、私と彼だけ。自ずと重苦しい緊張が走っていった。
「俺にも、何もいってくれなくて。未完のまま亡くなった小説家を惜しむ気持ちよりも遥かに大きな絶望感が自分に満ちていくのがわかったんだ」
「それは……」
「何も言わなくていいよ、一応は、自分なりに吹っ切れたし。仕方ないって、所詮ネットの世界なんだって」
一条君は、両手の指を組んだり、緩めたりして遊ばせながら、普段の一条君からは想像できないような深刻さを醸し出す。
「俺、本当はずっと小説を書きたかったんだ。いや、正直にいえば今でも書きたいと思ってる。人並み以上には、言葉とか、人の心とか、綺麗なものとか、醜いものとか、そういうのが俺は好きで、そうやって自分だけの世界を作り上げて広げられる人間になりたかった」
「……小説家になりたかったってこと?」
「まあ、そうだね、そう」
自問自答をするように二度ほどうなずいて一条君は言葉を続けた。
「でも、その人と出会って、自分に才能がないんだって、実感しちゃったんだ。俺は、現実を、そのまま記す才しかないんだって。物事の上辺を削り取ったような表現しかできない人間なんだって。自分の世界を、深く、深く、さらに深くまで掘り進められる側の人間じゃないんだって」
一条君は、ふと、何かを懐かしむように天井を見上げて、静かに目を伏せた。
「書くのを、あきらめたわけじゃなかった。だからこそ俺の書くたかった世界を書く仕事はその人に任せて、俺は別にできる書く仕事をしようって思った」
こんなふうに元気のないというか、陰のある一条君を見たのはこの日が初めてだった。何とか笑顔を取り戻させたいって思ってはみたものの、きっと私なんかの声は、安っぽい同情の言葉にも聞こえるだろうからと思うと、言えなかった。
「そうやって、決意した時に、その人はやめてしまった。俺の好きな人は、小説を書くのをやめてしまったんだ」
はっ、と息を飲んだ。きっと私なんかの過去と比べ物にならないくらいの思いを一条君はしたのだと感じてしまったからだ。
「耐えがたい絶望を感じて、先が真っ暗になった。俺の代わりに俺の夢を叶えてくれる、俺にとっての希望そのものだった人に、急にドンっと背中を押されたようなそんなショックに苛まれたんだ」
よくある話なのだろう。私も、好きな作家が死んだことで何にも手を付けられなくなった時期があったくらいだから。でも、きっと一条君はそれ以上の思いをしていたんだ。
「でも、ふとした瞬間に見つけたんだ。ようやく」
「なにを?」
「……確信は、今でもない」
「かく、しん?」
「きっとそうだって、そうだったらいいなって」
一条君はそういうと、ポケットからスマートフォンを取り出して、数回だけ画面をタップし、フリックしたかと思うと、その画面を私に見せてきた。
「ねぇ、これに見覚え、ない? 折原さん」
そこに書かれていたのは、「
でも、私は。
確かにそれを見たことがある。いや、あの頃は毎日のように見ていたのだ。私の心の支えだった友人が、絶えず文末に「:)」とつけていたから。
ふとした反抗とか、思春期とか、そういうものの昇華の手段が私は小説だった。好きな小説家がいて、その人みたいになりたいって憧れと自分の思想を盛り込んだ世界を作り上げることでいくらでも満たされた時期。これは、私が中学生の頃の話だった。
いつしかそれを誰かに見て欲しいって欲が出て、インターネット上の小さなつながりの中で私は小説を書くようになったころの話だ。私の書く小説が好きだと、ここが好きだ、あそこが好きだ、と丁寧な言葉でメッセージを送ってくれた子がいたのだ。そのまま流れでつづけたその子とのメッセージのやりとりは楽しくて、時間があっという間で、私自身の中で、あっという間に友達になれていたんじゃないかって思っていた。それからも、ことあるごとに好きな小説の話をしたり、好きなお菓子の話をしたり、趣味の話をしたしてり、学校の友達よりもその友達と話している方が楽しかった記憶があるほどに、好きな友人だった。
なのに、私は、友人を見捨てて、何もかもをやめてしまった。私の好きな小説家が死んだ衝撃から立ち直れず、何を書いたらいいのか分からず、何も書けず、そんな自分が嫌になって、その世界から逃げた。
友人には何も言わなかった。言えなかった。
「……折原さんだって、思ったんだ。一番好きだったから、分かる。折原さんの言葉が作り上げる世界が、あの人でしかないって」
なにも、言えなかった。
パズルのピースは、今すぐはまってしまいたいと嘆いているのに、私の心は瞬間的にそれを拒否しようとした。
「覚え、ない? それなりに、仲がいいつもりだったんだけど」
だんだんと心が涙を流す。そのうちに目がぶわあっと熱くなり、息の仕方を忘れてしまいそうだった。
「ねえ、折原さん」
一条君は、静かにスマートフォンの電源を落とて、投げ捨てるように机に置いた。
「もう二度と、小説を書いてくれないの?」
目が笑っていない。
そんなの、見ただけで明らかだった。
何かを悟ったように絶望に満ちていて、でも緩やかに弧を描く口元から自分以外の何者かに対して向けている希望を感じる。教室の窓から差し込む橙の光を受けて、柔らかい黒髪を風で揺らしながら、その瞳はずっと、私を見つめ続けていた。
私は何もいえなくなり、唇を固く噤む。そして、目を逸らした。ただじっとこちらを見るその目を、私はもう、真正面から見る資格などない。それだけが、ここで明らかになってしまった。
普段の一条くんとは違う、目だけが笑っていないその顔は、コロンと
私の大好きな笑顔を、私が奪ってしまった。その事実を知ってしまった。その事実を知ろうともせず、勝手に恋をしてしまったことを知った。
これは、私の、人生最大の、罪だ。
:(
「それで? 一条とはどうなったの」
「なんもないよ、それからは受験もあったから。あまり会話しなかったし」
千恵子は、学生の面影を残さないほどの厚化粧をして、おしゃれなトレンチコートを着たまま、ホットコーヒーの入ったカップを手に取って一気に口へと流し込んだ。そして、未だに大人になりきれていない私をつまらなさそうに一瞥したかと思うと、窓ガラスの向こうへと視線をやった。
「ふうん、もったいない。結局のところ昔のファンにあったんでしょ? しかも、その人が片思い相手だった。最高のシチュじゃん」
「でも、ね。それよりも、私のせいで傷ついた人がいる事実に耐えられなかったんだ。しかもそれが他でもない一条君だったから」
「その後の交流は?」
「ないよ?」
私が卒業式の日、一方的に、いつか答えられるように頑張るって言って別れたきり。それっきり。
固く封じた茶封筒をポストに投函して、自分に似合わないおしゃれなカフェレストランで久しぶりに千恵子との再会を果たした私は、彼女に対して流れのままにつまらない昔話を話してしまった。
「この前行った同窓会に一条、いたよ。相変わらずって感じだったかな」
「そうなんだ。私は仕事で行けなかったんだ、残念」
「……そうまでして、会いたくなかった?」
「……ううん、まだ合わせる顔がないだけ」
手持無沙汰になって、りんごジュースに刺さったストローをくるくると回せば、心地よく氷がぶつかる音が鳴った。
「本気で目指したいって思う夢が出来たから」
──からん。
「夢を叶えた時に、できたら、本当に望みは薄いけど」
──ころん。
「その時には、改めて一条君と向き合えたら、って思ってる」
氷が鳴る音は、すうっと静かに耳を抜けていく。
今朝気まぐれに付けてしまった向日葵の香水の匂いが、ほんのりとやわらかく鼻を突いた。
:)
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