存在してはいけない

 スミレは、飲んでいた麦茶を思いきり吹き出した。ストーブで暖められた部屋の代償として乾燥している喉を潤してくれるほどひんやりとしたそれは、瞬く間にダイニングテーブルを汚す。

「うわ! きったねぇな、おい!」

「うぇ……お兄ちゃんごめん……」

 幸いにも、目の前に並べられた朝食の被害は少ないようであるが、その代わりにスミレの寝間着はうっすらと水分がしみている。スミレの兄――レンセイは、心底彼女の姿にひきながらも、側にあったティッシュ箱と布巾を彼女の方へと置いた。

 キッチンからダイニングテーブルを通った直線状には、家族皆が見ることのできるテレビが置いてある。スミレは、そのテレビの画面を見ていたのだ。テレビ画面には、「加速する藁納豆ブーム! その製法のヒミツ」というテロップが右上に表示されている。また、女子高生への街頭インタビューの映像とともに、藁納豆が開かれ、その茶色の中身をひけらかした写真が添えられていた。彼女たち曰く、「健康にいいものである」ことが一番好感がもてるらしい。シーンが変わり、次は、一面に茶碗山盛りの白く艶やかなご飯が映される。そして、そこにどろり、ねっとりとしたものが落ちて白が汚されていく。落とされた茶色の粒たちは、身を寄せ合っている。そこに二本の棒が忍び寄って数個粒を拾い上げる。そうして、白く細くたなびく霞のような白い線がはっきりと描き出された。あたかもその線が蜘蛛の糸であるかのように、未練がましく縋る数粒の茶色の惨めなことよ。

 スミレは、納豆が大嫌いだった。世界中を探せばおそらくはそれ以上に嫌いなものもあるのかもしれない。だが、それらを差し置いても真っ先に嫌いなものとして名前が上がるのは納豆なのである。納豆を食べなければ死ぬという状況になったのならば間違いなく死を選ぶほどに、彼女は納豆が嫌いだった。

 あんなものの、なにが美味しいというのか! スミレは、常に思っている。見た目も、触感や質感も、匂いも、全部苦手だった。発酵、というよさそうな言葉で誤魔化してはいるものの、実際は大豆が腐敗したものではないのか? そうに違いない!

 見るだけで具合が悪くなる、スミレは最悪な休日の朝を迎えたことを実感した。虚しくも、麦茶だったものをティッシュや布巾で吸い取りながら、眉間に皺を寄せている。レンセイは、それを見て、彼女を嘲笑した。

「あっはははっ! お前って本当にデリケートなやつだな! 見ただけでこれかよ!」

「うるさい、あたしにとっては本当に地雷みたいなもんなんだから!」

「つっても、納豆なんてそこらじゅうにありふれてるだろ。慣れなきゃ生活できないぜ」

「もはや地雷原だよ。お兄ちゃん、私の半径一メートル以内で納豆なんか食べたらいっぺん死んでもらうからね?」

 そこで、すうっとレンセイの笑顔が消えていった。少し顔色が悪くなる。それもそのはずだ。普段は穏やかで、いつもニコニコしているスミレが、今にも人を殺しそうな目でレンセイのことを見つめていたからである。レンセイは、「ほんの遊びのつもりが……」が取り返しのつかない状況になる光景を一瞬にして想起し、悪かったって、とつぶやいた。

「お前の納豆嫌いってよっぽどだよな、あいかわらず」

「お兄ちゃんだって、わかめ苦手じゃん」

「でも、食べなきゃ死ぬってんなら食べれるしな」

「ふうん、じゃあ今日からお兄ちゃんの部屋にわかめ干しておくよ。好きな時に食べたら?」

 気を取り直したスミレは、白米をぱくりとひとくち、放り込む。レンセイは、わけがわからないという目で妹を見つめて小首を傾げた。

「いや、食べねえけど?」

「じゃあ食べなきゃ部屋から出してあげない」

 スミレはキッパリと、そう言い放った。

「納豆ごときでそこまで因縁持つなよ……」

 レンセイは、困った妹を持ったものだと呆れつつも笑った。

 窓の外は銀世界だった。柔らかい雪が、しとしと地面に降り注ぎ続けている。そこに数々の生命を育んできた大地は存在していない。全てが、覆い尽くされてしまっている。かろうじて見える灰色は、人が通る道としてできた文明だ。雪がふるよりもずっと前に、コンクリートというもので覆われてしまった場所。人間の勝手な事情で、植物たちはそこから芽を出すことを許されなくなった。

「大豆も納豆菌も一応生き物……? まあ、そんな感じのものなんだから、存在くらいは許してやってくれよ。納豆が好きな人だっているんだしよ。それに健康にいいっていわれるじゃねえか」

 兄は、様々な言葉を選んで取り上げ、スミレを諭そうとした。テレビ番組はいつのまにかファンシーなキャラクターのショートアニメを流している。そこにはもう、納豆は存在しない。

「健康にいいっていう理由で存在を正当化するやつ、嫌いなんだけど」

 あいも変わらず、攻撃対象を納豆と定めて彼女はナイフで突き刺すような声を発した。その後に、くぐもった声で彼女はひとりでに呟く。

「あたしの中には存在してはいけないのよ、本来ならあんなもの……」

 スミレはきゅっと下唇を噛んだ。

 レンセイの言う「健康にいい」が正当化の理由になることは納得できなくとも、好き嫌いは人それぞれであるということは認めざるをえない。自分が納豆を否定することで、好きなものを侮辱されたと傷つく人もいるのかもしれない。スミレは、なんだか悔しくなった。

「この世界に存在することを否定してるわけじゃないのよ、私だって。でも、分かり合えない人とかこの世にはいるでしょう?」

「まあ、確かになあ。オレもこの世の全員と分かり合えるとは思ってねぇよ」

 収穫されて大地から離れた大豆は、たくさんの仲間と身を寄せ合い、藁に包まれながら雪の中で静かに眠りにつく。そうしてじんわりと暖かさを生み出していって、大いなる循環の中に入ることを夢見るのだろうか。ひどく小さな循環だが、彼らの足跡は確かに旅の先に残されるのだろう。血となり、細胞となっていく。

「嫌いは嫌いだけど、あたしにさえ近づいてこなければそれでいいかな」

「だなぁ。それでいいんじゃね」

 スミレもレンセイも。生き物の世界というのは、大変なものだと考えながら、二人同時にお椀を持ち、豆腐の味噌汁を啜る。

 ドアノブをひねる音が聞こえる。ゆっくりと開かれた扉からは、洗濯と掃除を終えて戻ってきた二人の母親が現れた。

「まーだ食べ終わってなかったの? 早く食べちゃいなさい」

 ため息を吐き、エプロンの裾を握りながら母親は二人の子どもにそう言った。

「はぁーい」

「はぁーい」

 どうやら真面目には聞いてないらしかったが、しかし二人の箸の進みは悪くなかった。

 母親は、食器棚からお椀とお茶碗を取り出し、保温状態の炊飯器から米を、まだわずかに暖かさが残っている程度の鍋から味噌汁をよそった。そして、観音開きの冷蔵庫を両手で開け放ち、その一番上に鎮座している白い小さな正方形のパックを取り出す。

「スミレ、これをそこに置いてちょうだい」

「はぁい」

 スミレは何も考えず、母が用意したお茶碗とお椀を自分の隣へと並べ置いてあげた。それに応じるように母は白いパックと箸を一膳持って彼女の隣へと座る。

 その瞬間に食卓に冷気が舞い起こるのがわかった。

 レンセイは引き攣った笑みを浮かべ、スミレはその顔を青ざめさせている。彼女たちの母親はその様子を気にもせず、白いパックの蓋を開けて透明なフィルムを剥がし、器用に剥がした蓋の上に貼り付けた。付属のたれとからしの封を切って適当にそのパックの中身にかけ、次の瞬間。母はゆっくりねっとりと箸でそれをぐるぐるぐるとかき混ぜた。だんだんと、加速していく。時折、その粘度を確かめるように持ち上げられる粒からは、糸が伸びている。そしてそんな蜘蛛の糸には、茶色いものが、決して落ちまいとすがっているのだ。

 スミレは母のそばから身を引き、そしてえずいた。

 レンセイは、その姿を見て苦笑いしながら「おふくろ」と静かに呼びかけた。

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