累ね夢

 ……柔らかい土の上で、少年は目を覚ました。

 最初こそうつろであった頭が、水をかけられたように急にはっきりとする。

 自分は、なぜここにいるのだろう。少年――三栗屋みくりや累維るいは、数度瞬きをしながら考えこんだ。あたりは一面、背の高い木々に囲まれている。木の名前など、わからない。ただ、幹が太く、ちょっとやそっとでは折れてくれない木だということだけがわかった。

 むくりと立ち上がって、土埃を払い、空を見上げる。蝉の鳴く声とともに、羽をばたつかせて飛ぶ蜻蛉とんぼの姿が目にとまった。夏の終わりと秋の訪れの狭間はざまで満開の緑に覆われている隙間から、わずかに太陽が差し込み、道を示すように木漏れ日の点を並べていた。途端、風が目の前を横切って抜けた。あたかも三栗屋を妨害するかのように。しかし、それは、引き返させることで三栗屋を救おうとしている風なのか、はたまた真逆の道へと進めさせて不幸を与えようとする風なのか、全くもって検討がつかない。

「……大丈夫、大丈夫だ。さあ、こちらへ、おいでよ」

 不意にそんな声が聞こえて、三栗屋は、黒々としたその目に光を灯すこともないまま、呆然と光の点線をなぞり始める。そこに、彼の意識はない。

 辿り着いた先には、二つの白い鳥居が重なるように並んでいて、その二つを抜けた先にある廃れた石畳の階段とは、似ても似つかぬようなほどの純白である。三栗屋の体はすんなりと鳥居へ吸い込まれ、足枷がついているような重たい足取りで階段を一段ずつゆっくりと上がっていった。

 道中、彼は考えた。

 どうして自分がこんな目に遭っているのだろう、と。

 それは、この不可思議な夢のような現象の話ではなく、左頬につけられた綿紗ガーゼ、彼の首に巻かれた包帯と、右手首に貼られた湿布のことである。

「僕が、何をしたっていうんだ……。何も、してない、じゃないか」

 息を切らしながら、投げ捨てるように三栗屋はつぶやく。

 彼は、強い精神もなければ、何かを守れるような強さもない。頭の出来は多少良いのかもしれないが、天才と言われるほどではない。強いて言えば、老若男女だれからでも好かれるほどの絶大なる美貌だけが彼の唯一持っている取り柄であり、そしてそれは反面、弱点でもあった。

 ――いっつもいっつもスカした顔しやがって、マジウゼェんだよ!

 彼の右頬の綿紗の下は、嫉妬に狂って陰湿にも校舎裏の人目つかぬところに彼を引っ張り出したクラスメイトの男の拳によって負った切傷であった。

 ――ねえ、どうして、どうして、どうして! 簡単でしょう。私に好きっていうだけよ。

 彼の首元の包帯の下は、好きでもない女に執拗に迫られて、抵抗もできないままつけられた夥しい数の鬱血痕と噛み跡であった。

 ――お前には、情熱が一切感じられねぇんだよ。適当にやればいいなんて思うんじゃねえ。

 彼の手首の湿布の下は、やりたくもなかった落語の師匠に叱責されるたび杖で打たれ、その結果できた打撲痕であった。

 感情という器が持つ表面張力の限界を迎えたまま、階段をのぼりきった先にあったのは、古びた大きな社と、人生に対しての絶望感、そして、一筋の涙であった。今まで抑え込んでいたものが、防波堤を破壊するような勢いで溢れ出て、彼の泣きたくないという意志をものともせずに頬を伝い、石畳へと落ちた。

 次第に胸が締め付けられているような感覚に襲われて、息を吸えなくなる。無い息を吐くように必死に呼吸をしても苦しさがとれることはない。三栗屋は、耐えきれずその場にしゃがみこんだ。

 そんな彼の前に、落ち葉を踏みしめながら、そのままの意味の通りに影が人よりも薄い少年がやってくる。太陽の火を受けて反射し、きらきらと輝く白銀の髪。白虎を模した面より、わずかにのぞく細められた目からは、慈愛に満ち満ちた、青緑色が見える。白い着物は風を受け帆のように膨らみ、黒い帯は海月の触手のように揺蕩(たゆた)っている。少年は、口元をまるで弧を描くかのように歪めながら、三栗屋の上で呟いた。

「お前さんは、逃げたいんだろう?」

 それは、優しすぎるほどに、柔らかい声色であった。我が子をあやす母親の声のように加護欲が込められた声だった。しかし、今の三栗屋にとってはそれが毒でしかない。さらに胸の苦しみを覚えて、自分の服の胸元部分を握りしめている。

「ちがう、そう、ちがう……いや、わからない……」

 今の三栗屋からすれば、この苦しみが解放されさえすればそれ以外のことはどうでもいいことのように思えるのである。彼の脳は考えることを放棄して、神経を伝ってただ「苦しめ」という信号を送り続けていたからだ。三栗屋のそんな状態を、少年は理解しきっている。だから、優しい。

「解放されたいんだろう? 自由になりたいんだろう? ならば簡単なことさ」

 白髪の少年は、その髪の合間から耳に下がる朱色の房飾りを揺らめかせて言う。

「逃げたい、と私に望めばいい。ほら、いってごらんよ」

 ここで初めて、三栗屋は少年のことを見た。女のようにも見える一直線に切り揃えられた後ろ髪とは対照的な、前髪の不揃いさが印象的な少年を見た三栗屋は、驚くよりも前に歓喜に塗れた。年も同じ、十七くらいだろうか……。どこか自分と雰囲気の似ている少年に対して、少なからず親近感を抱き、またその言葉の優しさを受けて三栗屋は彼のことを自分の理解者だと思い、途端、少年の存在は三栗屋にとってのいわゆる神様となったのである。救いの象徴が、そこにはいたのだ。

 三栗屋は、ごくり、と生唾を飲んだ。そして、静かに息を吸い込んで、

「にげたい、逃げたい! 助けて……!」

 と、矢継ぎ早に言った。その声を聞いた途端、少年は、にやりと口を歪める。何を考えているのか、わからない。しかし、すうっと澄んだ風が吹くように新鮮な空気が三栗屋の肺を満たし、今までが嘘のような解放感を感じていたことは、確かなことである。

 三栗屋は、数度瞬きをしたのちに、涙を拭って、ようやくその場から立ち上がった。改めて少年を見れば、身長に全くと言ってもいいほど差はないと実感する。多少、視線が上に向けられるのは、彼の履いている下駄の所為だろう。三栗屋は、少年のことを本当に自分の写しのように感じていた。少年は、彼の横をすり抜けて、階段を降りようとしていた。三栗屋は、慌てた様子で振り返り、少年に聞く。

「……いったい、どこへいくの」

「何を当たり前のことを言ってるんだい。だれもいないところに決まっているだろうよ。それでは不満かい」

「不満とは、一言も」

「そうかい、そうかい、それならいこうか」

 そういうと、少年は、前に向き直り、石畳の階段をからからと下駄の音を鳴らしながら降りていく。置いてかれまいと三栗屋もそれに続いてついて行く。

 三栗屋は、なぜだかこの状況に懐かしさを覚えていた。どうしてなのか、まだ、思い出せていない。しかし、朧げなシルエットが脳裏にもう間も無く映し出されようとしているようなそんな不思議な感覚を持っていた。自分が、誰かを追っている。そんな感覚に近いような気がした。


 ――お前は、ただこっちに来るだけでいい。


 ぼんやりとした記憶の中にあるのは、そういわれて手をとられた光景。なんで自分が抵抗しなかったのか、ということもわからない。

 考え事をしていると、ふと階段から転びそうになる。しかし、すんでのところでなんとか持ち堪えたのだ。三栗屋の頬を冷たい汗が滑っている。しかし少年は、止まってくれやしなかった。さらに不思議なことに、なぜだか三栗屋にはそれを不快だと感じれずにいた。

 先ほどまで雨が降っていたのだろうか。

 わずかにぬかるむ地面に足を取られないように気をつけながら三栗屋は少年についていく。少年には、足を取られるような状態が全く見えなかった。三栗屋も薄々気づいていた。少年が人間ではない何か異質な存在であることくらい。それは、あまりにも現実的すぎる夢とも関係があるような、そんな感じがしていた。かといって追求する必要はない。誰であっても、三栗屋にとっては“自分を救ってくれる“ということ以上に重要なことなどないのだ。

 ようやく、眩しすぎる太陽の光が見えてきた。木々の合間を縫ってやってきた先、眼前に広がったのは、太陽光を反射して白い光を輝かせている青緑色の美しい湖と、それを取り囲むような山々だった。心地よい波打ち際の音に耳を貸しているうち、三栗屋はうっとりと景色に見惚れてしまっていた。湖のすぐそばに建てられた白虎の像は、湖を見守るように、そして無事に日が沈むところを見届けようとするように、三栗屋たちに立派な後ろ姿を見せるだけである。

 少年はふと振り返り、三栗屋をまじまじと正面から捉えた。そしてニコリと笑顔を見せる。

「ここが、開始地点だ。またせたね」

 視線を誘導された先には、美しく深い湖の他、なにもない。

 何を言っているのかの理解が及ばず、三栗屋は、恐る恐る少年を振り返った。逃げは救済であるか? いや、それは救いではなく、甘えだ。だが、三栗屋がようやくそうだと気づいた時はもう、手遅れであった。

 少年は、仮面の内から妖しく目を細める。三栗屋と少年の間には、突風が吹き荒れた。もう、戻れない。そう直感するにたやすいほどのものであった。

「一体何を……?」

「何をとは……? この世で最も楽で簡単な逃避の道じゃないかい」

「死ねって言ってるの?」

「お前の体が気に入ったのだよ。わかってくれるね? お前は逃げられ、私は体を手に入れられる。簡単な話ではなかろうか」

 途端、三栗屋を取り囲むように火の輪が立ち起こる。丁寧にただ一つ、広がる闇の湖への入り口を残して。下がらなければ、飛び込まなければ火にやられる、かといって水に飛び込めば泳げない三栗屋は溺死する他、道がない。白虎は、三栗屋を強く睨みつけている。

「さあ、そこへ飛び込むのだ。自分からでなくてはいけないよ……」

 三栗屋は、ごくりと唾を飲んだ。

 ふと、胸の辺りがどく、どく、と鳴り、温かくなっていることに気がつく。彼の頭の中は、突如として懐かしい走馬灯がよぎった。……ひどく冷たい、雨の日の景色が広がっていった。


 ***


「何してるんだよ、餓鬼」

 人よりも短い丈の学ランは、大雨だというのに傘の一つもささずに前のボタンはひとつたりとも留めていない。学生鞄は肩から引っ提げて、自分を見下ろすその男子高校生を三栗屋は生物としての本能的に恐れた。小学二年生の三栗屋の頭の中にあったのは「ふりょうせいと」という語彙で、元々小さな体をさらに小さく縮こませる。体も大きく、声も怖い、大人だと彼は感じた。

 それと同時に手で抱く小さな子犬を守らなければならないという気持ちが沸き起こる。傍に置いてある黒のランドセルの隣には、毛布の敷かれた段ボール箱が置いてあった。彼らのいるドーム型の遊具は、三栗屋と子犬が身を潜めているのには十分な広さがあり、雨風を凌ぐには十分だった。

「ッチ、返事なしかよ。いいトコのお坊ちゃん、俺とは関わらないってか?」

 三栗屋は何も答えなかった。何も、答えられなかった。

「……ああ、面倒くせぇ」

 学生服の男は、首を鳴らした後、やれやれとため息をつき、しゃがみ込む。男と視線があった三栗屋は、その眼光の鋭さに圧倒されて、じんわりと目に涙を浮かべた。

「子犬なんか抱えて何してるんだ?」

「…………かえりたくないんだ」

 長い沈黙の後、ようやく三栗屋は口を開いた。あまりにも真っ直ぐな男の目に思わず縋りたくなってしまったからであった。

「そしたら、この子がここにいて、さむそうだったから」

「へぇ。だけどよ、親御さんが心配するんじゃねぇの」

 男の問いかけに三栗屋は静かに首を振った。

 そうした理由は至極単純である。三栗屋は、両親は不仲であったがために家では厄介者扱いをされ、これまでの人生を、父の知り合いだという落語家の師匠の元で生きてきたからだ。彼の年齢で負うのには重すぎる期待と責任。やりたくもない稽古と、会いたくもない師匠と兄弟子たちから逃れたいというただ愚直なその一心で三栗屋はここに逃げ込んだのだ。。

 男は、再びため息を吐きながら宥(なだ)めるように、気だるげでも優しい声で三栗屋に言った。

「あのなぁ、坊ちゃんよぉ。お前の道を決めるのがお前のように、子犬の道を決めるのは子犬なんだ。わかったら、解放してやれ。そして、お前も家に帰れ」

 男は、三栗屋のことを思い、そう言ったつもりであった。しかしながら三栗屋にとっては、心外も甚だしいマイナスの言葉に他ならず、ますます子犬を手放さまいと強く抱きしめてしまった。

「おい、やめろ! 子犬が死ぬぞ!」

「ばか! ぼくはずっと、ししょうの言いなりなのに!」

 目にいっぱいの涙を浮かべながら嗚咽を漏らす三栗屋の姿を見て、ようやく男は彼の置かれている状況を理解した。少なからず、目の前の少年には自由などないのだということと、その当てつけとして自分の思い通りになる何かがほしいと願っていることも。

 理解したからとはいえ、面倒さが消えるわけではない。男は、大きなため息をついた。

「餓鬼は口が悪ぃ上にすぐに泣きやがる……」

 男は、大きな手を伸ばし、少し湿っている三栗屋の頭を優しく撫でながら、彼の瞳と真正面から向き合う。すっかり充血した三栗屋の目は、溢れ出る疑念の感情で溢れて止まらなかった。男の手は静かに三栗屋の目元へと近づき、親指で涙を拭う。

「お前、家どこだ」

「いや……」

「その身なりじゃあ、相当いい家柄とみえる。この辺で一番いい住まいといや、あの家か?」

「いや……!」

「帰る家があるんなら、帰れ。そしてちゃあんと、お前の気持ちを相手に言え」

 男は、三栗屋をじっと見つめ続けて……離さない。

「そうしなければいつか自分が消えてなくなって、流されるだけの存在になる」

 三栗屋には、男の言葉が難しかった。こてん、と首を傾げて、ぱちぱちと瞬きをする。

「ながされる?」

「ああ、荒波やら火の海やらにな」

 言葉の意味こそ、あまりわからなかったが、「ひ」が「火」であるということを理解し、それは嫌だと思うようになる。とはいえ、どうしたら良いのかもわからず、男の服の裾を掴み、弱々しく引っ張った。

「しかたねぇ。送ってってやるよ、ほらこい。お前は、ただこっちに来るだけでいい」

 そういうと、男は着ていた学生服を脱ぎ、三栗屋の頭にかける。そして、静かに彼が抱えていた子犬を箱へと戻した。かと思えば、三栗屋に向けて背を向け、ほら、と背に乗ることを促す。恐る恐る腕を伸ばして三栗屋は、男に身を預ける。すると男は勢いよく立ち上がり、器用にも自身の鞄と段ボール箱を持ち上げて、歩き始めた。

 雨の日だというのに、かけられた学ランのおかげか、はたまた男の体温のおかげか、心の温かさのおかげか……三栗屋はほんのりと包まれるような温かさを感じ、静かに目を閉じた。愛情とは無縁に育ってきた三栗屋にとって、泡沫(うたかた)の解放であったのだ。

 雨のにおいが、いまだに鼻に残っている。


 ***


「荒波、火の海……」

 後ろの湖面は、海ほど波立ってはいない。しかし強い風の影響で岸に水が寄っているのはわかった。この状況は、自分がこの白髪の少年に流されてしまったせいだと、まさしく自業自得なのだと理解する。だが、それは同時に三栗屋に思考の整理をさせていた。冷静だった。そして三栗谷は、静かに伏せていた目を開く。

「……退いて。今すぐ、そこから」

「まだ勘違いしているのかい。お前はもう、袋の鼠だよ」

 少年は、そういうと満たされたかのような笑みを浮かべた。誰がどう見ても、たとえ白髪の少年でなくとも、三栗屋に逃げ場がないことは一目瞭然である。しかし、三栗屋は光一つないその黒々とした目を静かに細めて、火の海へ、少年の方へと歩よった。

「……カエして」

 静かに、そして冷淡に三栗屋はそう言い放った。

「なんだいっ……!?」

 少年があっけに取られている間に、三栗屋は火の中へと手を伸ばし、その先にある少年の胸ぐらを掴んだ。

「帰して!」

 そして、少年を燃え盛る火の中へ落とそうとする。すると、少年の周囲のみ火が消え、人一人が通れる空間ができる。三栗屋は、少年と立場を入れ替えるように少年を湖の方へと突き飛ばし、火の壁を超えて走り出した。

 ……身体にうまく力が入らない。四肢が空のようだ。しかし、それでも自分はここから逃れなければならない。まぎれもなく、自分の意志で走っていた。

「逃がさない、けして、お前は、もう、籠の、中だ!」

 少年は空に手をかざし、湖より醜女を引き摺り出した。湖より這い出る醜女は、あの者の美しさを求め、逃げる三栗屋を追い始めた。少年は、着けていた面を外し、その額に冷や汗を浮かべながらも、大丈夫だ、大丈夫だと念じるように口ずさみながら、三栗屋の通る木橋の縁に並ぶ朱色の灯籠に火を送った。

 そんなことを気にしている余裕などない三栗屋は、照らされた先にある真白く大きな鳥居だけを見ていた。靴で木材を蹴る音は爽快だ。トントントン、と跳ねるように踊るように音がなる。三栗屋はただただ走り続ける。

 醜女たちの荒い息の音が聞こえるようになったころ、三栗屋はぎゅっと強く目を瞑った。後戻りは、できない。しかし、これが“自分の選んだ道なのだ”と言い聞かせ続けた。

 鳥居はもう、目と鼻の先だ。

 三栗屋はただただその先にある暗闇へと手を伸ばした。一寸先にさえ、辿り着けば……。


 ……柔らかい布団の上で、三栗屋は目を覚ました。

 隣には、先日久方ぶりの遠出をしようと誘い、師匠から休暇をもらって共に遠方へ来ていた、三栗屋の父親が眠っている。額から頬をつたい、顎へと筋を作り落ちる汗は、さながら滝のようであった。息が激しく上がっており、体じゅうが、ひどい筋肉痛だった。掛け布団の白いカバーを強く握りしめる。

「あれは、夢……?」

 ひどく現実味のある夢だった。現にこんなにも身体に不調をきたしている。しかし、すでに三栗屋はどんな夢だったのか、思い出せないでいた。ぼんやりと白髪の少年の姿を思い出したが、顔がわからない。

 火に包まれていた。しかし、自分はあそこからどうやって抜け出したのだろうか。白い鳥居を、くぐれたのだろうか。どうして逃げたいと願ったのだろうか。もう、何一つとしてわからない。……わからない。

 旅館からチェックアウトした後に、父が土産を買っていくといって、三栗屋は父といったん離れることにした。その間の暇を潰すため、湖畔にひとり腰掛けて、静かに水面(みなも)を眺めてみる。すると、湖面(こめん)には自分の姿のほかにゆらりと人影が浮かび上がった。誰だろう、と隣を見れば、杖をついた白髪の老婆がやわらかい笑みをこぼしながら座っている。なぜわざわざ自分の隣に座ったのだろう。疑問には思ったが、口には出さなかった。しばらく無言の時間が出来上がってしまった。風が葉を揺らし、そよそよと鳴いている。

「良い夢は見られたかい、坊や」

「……はあ、昨夜は良い夢を見られたような気がしています」

 老婆は、耳元に下がる朱色の房飾りを揺らめかせて、まなじりに皺を寄せ、口角を上げた。


 ***


「それなら、よかった。……これからも、ずうっと、ずうっと、楽しんでいくんだよ」

 高座にいる噺家は、床に手をつき、静かに首を垂れる。

 一度拍手が巻き起これば、それはとどまることを知らず、会場いっぱいになるまで響き渡る。噺家は、顔を伏せたままで人には見えぬよう、一度唇を噛み締め、その後、何事もなかったようにゆっくりと顔を上げたかと思うと、柔らかく微笑んだ。扇子と手拭いを携えて、立ち上がり、座布団を返す。師の前にやる落語に比べれば、さほど緊張しないでできただろうと思いながら楽屋へと戻り、トリと入れ替わる。

「やあ、累維。相変わらずの出来だね。芸達者なことで」

「……何を言っているんだい。お前さんの噺の出来が良かったんだろう」

 やれやれとため息をつきながら、三栗屋は楽屋で待っていた友人の前へ静かに正座をした。

 普段ならば、自分を大層可愛がってくれている師匠の寄席を優先し、二ツ目の勉強会には基本的に一切参加しない三栗屋だが、学生時代の旧友がどうしても自分の作った新作落語をやってみせて欲しいと三日三晩にわたって頼み込んできたために仕方がなく引き受け、誘われるがままにこの場に来たのであった。

 三栗屋が永らく離れていた落語の世へ戻ってきたのは、わずかに四年前のこと。高校を卒業し、しばらくの自由と解放を得て、さてどこへ行こうかと悩んでいた折に兄弟弟子からこの界隈へ呼び戻されたのである。その後、前座として落語をし続けた結果が伴ってか、鰻登りの人気に準えてか二ツ目へと昇進した三栗屋は、少なからず不快感を抱いていた。ようやく師にも認められて自分は嬉しいのだろうか、それとも結局逃げられず仕舞いで悔しいのだろうか。ぐるぐると螺旋を描く脳内は、複雑怪奇だ。

「結局は、世の中見栄えの良さなんだ。でなければ、僕なんかがこの世界で生きていけるはずがないからねえ」

「謙遜はいいよ。お前に俺の新作をやってもらえただけで幸せだから」

 三栗屋は、そっと前髪を横に流しながら、目を伏せた。

「にしても、お前さんは、ほんとうに面白いサゲを考えるねえ。感心してしまったよ」

「あはは、ありきたりかもなあ、って思ってたんだけど、そう言われると嬉しいや」

 ……この者は、知らない。

 三栗屋が言った「面白い」の中に存在する本当の意味のことを。

 彼の新作落語を演じている時に思い浮かべていた過去のことを。

 そしてそれは、決して一夜の夢ではなかったのだということを。

 自分で泳ぎ始めて、その先にあったのが、束縛だということを。

 その結果、自分が何者かを見失ってしまったのだということを。

 逃げても逃げても、かさなりつながれつづけるこの運命に一生逆らうことのできない三栗屋は、その目に光を灯さぬまま、黒々とした目を窓の外へと向けて、雲一つ見えない青空を仰ぐ。

 ――あの時、あの人の背中で感じたあれは、きっと。

 心のうちに潜み、時折現れては、揺れる蝋燭ろうそくの炎のように風によっていともたやすくふっと消えるそれを、三栗屋は、優越感と呼ぶことにした。何かが自分の支配下となる感覚をいまだに忘れられないでいる。

「……この世の全てが思い通りになったのなら、どれほど良い世界だろうねえ」

 ぼそりと一言呟いて、眉目秀麗びもくしゅうれいな顔を柔らかく歪めて、三栗屋はたいそう妖しい笑みを浮かべた。脳裏では、思い出の少年が自分に白虎の面をつけてくる――そんな光景を映していた。

 三栗屋の耳元から下がっている朱色の房飾りは、ふわんりとやわらかく僅かに揺れている。

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