青とメカニカル

 僕は、中学生になって初めてシャープペンシルというものを手にした。小学校のころから周りのみんなはカラーボールペンと共にもっていたシャープペンシルだったけれど、僕の親は非常に厳しくて、黒鉛筆と赤鉛筆とケシゴムの他、青い鉛筆すら許してくれないお堅い親だった。

 おばあちゃんとおじいちゃんが、シャープペンシル解禁に先立って入学祝として買ってくれたシャープペンシルは、メタリックブルーのかっこいいデザインのものだった。そこら辺の安っぽいシャープペンシルとは違うかっこいいものだ。値段も、お母さんによると、普通のよりはちょっと高かったらしい。


 中学校に入って仲良くなった僕の友人たちは、もれなく一言目にこのシャープペンシルをほめた。僕はケンソンなんかせず、そうだろう、そうだろう、と二回ほどうなずきながら返事をする。

「僕の祖父母がね、中学校入学のお祝いに買ってくれた自慢のシャーペンだよ」

「いいなあ!」

「俺のは、そこら辺に売ってた安いやつだぜ?」

「あたしのは、ママが可愛いからって買ってくれたやつなの」

「いいじゃん、値段の高い安いよりも、持ってて好きになれるかの方がずっと大切だと思うよ」

 みんなが口々にそれぞれのシャープペンシルの話をする。可愛い、かっこいい、機能がいい、友達からもらった、親がかった、美しい、高価だ、それぞれのシャープペンシルに対する感情や思い出が交差していた。

 その時に僕は、隣に座る眼鏡をかけていつも本ばかりを読んで、友達一人いない寂しいやつに話しかけてやった。

「なあ、森山くんのシャーペンってどんなやつ?」

 その時の僕は完全なる善意で話しかけたわけだし、彼と仲良くなれたらきっと頭もよくなるかなという子供心で話しかけただけだった。でも、そんな僕の気持ちを捻じ曲げるかのように、彼は本から目を離さずに行ったのだ。

「それ、君に関係ある? くだらない見せ合いをするくらいなら、英語の勉強でもしたら?」

 ひどく冷たく暗い声に僕はあっけに取られて何も言えなくなってしまった。その場の空気が、青い空を覆うような黒い雲のようにどんよりとするのを感じた。みんなが気まずくなって、次の準備をしなきゃと僕の周りを離れていく。

 残された僕の青色のシャープペンシルは、僕の心を映すみたいに暗く青く輝いていたのを鮮明に覚えている。


 あとから友達に、「森山ってそういうやつだから……」と言われて納得した。僕は森山を嫌いになり、軽蔑するようになった。友達一人もいない社会の弱者だ、と。じゃないと、彼がくだらないといった僕のシャープペンシルは、酷く惨めになる。僕の心を満たす、祖父母の愛情を馬鹿にされた気分を取り除くことが出来なかったからだ。


 僕にとってのお守りのような気分だったシャープペンシルは、いつも学ランのポケットに入れている。今日も帰り道はそれを眺めながら帰る。落としたらどうしようとか思うけど、それ以上にシャープペンシルを眺めているだけで僕は心の平穏を保っていたから、肌身離さず持っていたかったのだ。

 帰り道にいつも通る公園の前で、笑い声が聞こえてきた。僕らよりずっと大人な人の声だった。声変りをしている男の人たちの声だった。

「でさ、こいつ英語もわかんねーの!」

「あははっ! 中学生なんてそんなもんしょ!」

「いやいや、俺が中学生の時はもっとできたって。親父もおふくろもそう言ってるし」

「がんばれ、森山の弟くんっ!」

「で、そんなお前が? 何様のつもりで塾、サボってんの?」

 大人たちが囲むベンチの中心には、憂鬱そうに閉じた本を眺め、大人たちを一切見ようとしない森山がいた。森山にそういう悪態をつくメンバーの中心は紛れもなく彼とそっくりな顔立ちの森山の兄貴だったと思う。

 森山をからかう大人たちは、彼を馬鹿にして、塾へ行けと強制した。しかし、それに応じることはなく、手元の本を大事そうに撫でている。僕は、なぜかその光景から目を離せなかった。ベンチの上で揺らめいている葉桜すら、彼を煽る敵のようだった。

 大人たちはひとしきり彼を傷つけた後、去っていった。その中で一人残った森山の兄貴は、森山が持っていた本を取り上げて、地面にたたきつける。そうして足で数回ほど踏みつけた後に、大人たちの群れへと戻っていった。

 森山は何の感情も表さずにただ自分の兄貴に踏みつぶされた本を見ていた。

 そこで初めて僕は気が付いた。森山は、そうしないと生きていけない環境で育った人間だったんだということに僕は気が付いたのだ。そうしないと自分の大切なものを守れないような世界で育ってしまったのだ。しかも、森山は自分が特別だと気が付くこともなく育ってしまったから、それが常識の世界だと思っていたのだ。

 胸元のシャープペンシルを学ラン越しに一撫でして、深呼吸をする。

 ゆっくりと公園の中に入っていって、僕は森山の前に捨てられた本を拾いに行った。

「ひどいことするな」

 当然、返事は帰ってこなかった。何となく開いたり、はたいたりして、その本についてしまった砂や泥を落としてみる。

「ちょっと汚れは残ると思うけど、読めないことはないと思う」

 表紙だけが酷く汚れていて、本紙にはそれほど影響のなかった文庫本を、僕は森山に差し出した。だが、森山はそれを受け取らずに、リュックサックを手に取ったかと思えば、そのまま僕の横を過ぎ去っていこうとした。

「いらない」

 そう一言投げ捨てて。

 僕は、さすがに我慢ならなくて学ラン袖を引っ張って森山を止めた。

「ポイ捨てするの」

「君が拾ってくれたから、君が捨てれば?」

「お前の大切なものなんじゃないの」

「いい、また買うだけだし」

 一切目を合わせてくれない森山にさすがに嫌気が指して、俺はそいつを無理矢理引っ張ってベンチに座らせた。

「なに、するの」

「言い方くらい、考えろよな」

 不服そうにベンチの前に立つ俺を見上げる森山の目には、うっすらと水の膜が張っているような気がした。

「別に一日くらいサボったっていいじゃん。ちょっとまっててよ」

 僕も彼の隣に座り、リュックを地面におろして中からA4サイズの、今日のホームルームで配られた保健だよりを取り出した。文字の書いてある面を上にして僕はその上に本を置く。そうして僕は、折って、また折って、さらに折ってを繰り返す。

「なにしてるの?」

「んー、見てればわかるって」

 出来上がった紙の空洞に、本の表紙を入れて最後にもう一度、きれいに整えて彼に渡した。

「ほら、これなら汚れなんか目立たないよ。……ちょっと保健だより、透けてるけど」

「ほんとうだ。でもありがとう、君は器用なんだね」

 森山はその本を受け取てくれた。そしてそれを優しく撫で始めた。

「……見てたんでしょ、兄さんとのやつ」

「まあ」

 嘘をついてもしょうがないし、逆に森山を傷つけるんじゃないかと思った僕は、言葉を濁してそういった。その僕の返事を明らかな肯定と取った森山は、嘲笑していた。

「はは……。勉強するよりももっと優秀な知識を得る手段を否定するなんて、本当にどうかしてる」

 森山の弱々しいその言葉は、僕に「そうだね」といってほしいだけの様にも聞こえた。でも、僕はしなかった。そもそも僕は森山が嫌いだったからだ。

「……それは僕には何とも言えない。本は苦手だし」

 それは、ぼくなりの仕返しだったのかもしれない。僕よりもはるかに優秀で、僕の気持ちを傷つけた森山に対しての、だった。でも、さっきの姿を見ていて、僕は少しだけ森山のことを知ったし、同情が出来るようになったから、もう一つ付け加えるように森山に言った。

「でも僕、お前にもお前の兄貴にも言えるとこがあるよ」

「……なに」

「知識は人を傷つけるものじゃないってこと」

 都合よく辺り一帯に鳴り響く五時を告げる鐘のような音は、もしかしたら僕にそれ以上は言ってはいけないのだと伝えたかったのかもしれないと思えるほどには、僕はもっとひどいことを言おうとしてしまっていたのだと実感する。その鐘の音がやむのを待って俺は、ちゃんと冷静に、森山が傷つかない言葉を言った。

「言い方次第で、変わるもんだよ……」

「でも」

「少なくとも! 僕は傷ついたなー! ……なあ、森山も傷ついてきたんだろ?」

 顔を覗き込んでみればあからさまにそらされる。本当に不器用で、かわいそうで僕の嫌いなやつだなと僕は思った。だから、僕は胸のポケットからシャープペンシルを取り出して、そいつに見せびらかしてやる。

「な、これかっこいいだろ」

「……うん、かっこいいと思うよ」

「なんで、これ、シャープペンシルって言われるようになっちゃったのか知ってる?」

「……知らない」

「メカニカルペンシル第一号の商品名にエバーシャープっていう名前を付けて、日本でシャーペンを開発した人がエバー・レディ・シャープペンシルって名前をつけたからそう呼ばれるんだってさ」

「そうなんだ……」

「気になったから調べてみたんだ。僕の宝物のことだし、知っておきたいなって思って」

 僕はそういって森山に笑って見せた。

 その時の森山は、今までに見たことが無いほどに感情的で年相応に笑っていたと思う。


 僕だって正解はわからないけど、どうされたら嫌だとかってのはわかる。だから森山とは、兄貴と同じことを繰り返さないように、どうやって話したらいいかということを一緒に考えるようになった。そして、知らないふりをして馬鹿を演じる方がずっと楽しいんじゃないかってことも。

 そうした日々を繰り返すうちに、僕らは仲良くなったんだと思う。ずいぶんと森山にも友達が増えたんじゃないかと思う。いつしか、森山は塾をサボらなくなったし、僕は部活を始めるようになって公園で会うこともなくなった。

 そのころにはもうクラス替えがあったし、そうすると学校でもすれ違うくらいになってしまったと記憶している。


    ***


 先日届いた結婚式の招待状を見て、彼を懐かしく思った。勉強が出来ていたのに人付き合いはめっぽう下手だったあの時の彼は、大人になってしまって、とうとう結婚するのかと思うと、なぜか他人事とは思えないうれしさがこみあげてきた。女性は、彼の頭の良さと話し上手な面に惹かれたらしい。

 そんな自分勝手な僕の過去と友人の話を、僕に抱き着いたまま眠ってしまった子どもの背中を撫でてやりながら、妻に話していた。

 話を聞いてくれていた妻はくすりと笑って、青春していたのですね、と言った。

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