救済措置

 ふわり、と桃の香りが鼻をくすぶった。ファミリーレストランの騒がしい空気間にあまり馴染めず、ゆらゆらゆれる水面を漂う茶葉をじっと見る。もうすぐすべて沈んでしまいそうだ。

「いや、ねえ。佐伯さえきさん」

 ボックス席は四人掛けのものである。しかし、座っているのは、二人だけだった。私と、見るからに学生の少年だけだ。 

「僕、この前いい話を聞いたんです。人間の脳を電子世界に連結させられているんだって」

 目の前でじゅわじゅわ、と音を立てるハンバーグプレートには、一面に肉汁が広がって踊っている。同時に香ばしく唾液が停まらないほどの焼いた匂いがあたりにふわりと漂った。

 やっぱり、ハンバーグにするべきであったろうか。

 また一口、紅茶を飲んだ。

「この世は、もう電子世界と言っても過言ではないでしょう。電子がなくては生きていけませんからね。でも、どうです。そんな電子世界はもうすべての電子を飲み込んで一つになっている」

 頼んでしまったのに食べないのは調理してくれた人間にも、申し訳ない。気は乗らなかったが、フォークを手に取って自分の目の前にあるナポリタンをからめとった。

「だから、僕は電子世界を支配して、この世界を壊そうと思うのです。どうです? 佐伯さん。……佐伯さん?」

「……ハンバーグ、おいしそうだな」

「え、まあ美味しくなかったら、頼みませんけど。話聞いてました?」

「ナポリタン食べないか?」

「いらないです。はあ、全く聞いてないですね。というか、そんなにハンバーグが食べたかったならどうしてパスタにしたんです」

「何を食べたらいいかわからなかったのだが、このナポリタンの画像が目に入ったから」

「はあ、そうですか。ていうか、そんなことはどうでもいいんですよ」

 少年は、頬を膨らませながらハンバーグをまた一口切って口の中に放り込んだ。肉汁も踊りつかれたのか、先ほどよりも元気がないようだ。ナポリタンでも良かったかもしれない。これも、なかなかに美味しい。

 まったく、水曜日の正午に何をしているんだ、と少年に言いたかったが、不毛なことなのはわかっているから、言わないことにした。

「あのな、勘違いしないでほしいのだが、私は聞かなかったことにしてやったんだ。今後世界を壊すと私の前では言わないでいただきたい」

「……思想犯は罰されるべきですか?」

「さあ、人を裁くのはわたしではない」

 少年は、何も言わなくなってしまった。

 学ランの至るところが擦れていて、顔には絆創膏やガーゼが張られている。首から見える湿布の周りは、青黒くなっていた。

「だがな、私にはわかる。君はやろうとしている。本気だ」

「……ならなんで! あなたなら、できるでしょう? 僕は知ってる。あなたが、天才科学者の血を引いていることを」

「半分正解、半分違うな。だが、本物の天才科学者に人を幸せにしろと頼まれた。それに反するわけにはいかない。よっぽど大半の人間が更生不可能であると判断した以外はな」

 少年は、目を見開いた。

 しかし、今度は私の方を鋭くにらむ。

「ならなんで僕を幸せにしてくれないんですか」

「……最大多数の最大幸福を目指しているからだ。君を助けて、果たして何人が不幸になるか。ならば、君を助けない方が幸せな人間は多い」

 目の先のプレートはもう、音一つもしなかった。疲れたように静まっている。その代わりに、とでも言うべきか少年は、大きな声をあげた。

「僕は、そのための犠牲だっていうんですか!?」

 昼時の騒がしいファミリーレストランに、静寂が訪れる。

「落ち着け。なにも君を不幸にしたいわけじゃない。それ以外の方法だってあるだろう」

「……僕、佐伯さんのことは信じていたのに。そんな人だなんて思わなかった!」

 急に取り戻した喧騒にまぎれるように少年は鞄を手に取って走り去って行く。その様をじっと見ていた。

「別に、君を助けたくないわけではなかったんだがな。助け方を選ばせてほしいというだけであって」

 残された半分のチーズインハンバーグからは、虚しくもチーズがどろりと溶け出でて静かなプレートに広がっていった。

 もう冷めてしまった紅茶を一口飲む。最近のドリンクバーも侮れないかもしれない。なかなかに良い香りで美味しかった。

「……やあ、そら兄さん。少し元気がなさそうだ」

 後ろから突如として聞こえてきた声に反応し振り返れば、そこには間宮八雲が立っていた。八雲と正式には血のつながりなどない。が、目的を共にする兄弟であることに間違いはなかった。

八雲やくも。見ていたのか?」

「たまたまだよ」

 先ほど少年が座っていた席に、八雲は座ったかと思うと、メニューも見ずに呼び出しボタンを押した。

「兄さんが間違っていたわけではないのだけれどね」

 ウェイトレスがやってくる。マルゲリータを一つ、と頼むと注文を確認してすぐにいなくなってしまった。

「あの子は、否定してほしくなかっただけだったんだよ。本気でやるとなったら味方になってくれる人が欲しかっただけ」

「……そう、だったのか?」

 八雲はそういうが、少年のあの目は本当の目だ。人を殺そうとするようなそんな目だったのだ。だから、冗談で返すことが出来なかった。無理だと言わざるを得なかった。

「兄さんだって、助けたいという気持ちはあるんでしょ? なら、兄さんがやるべきは否定ではなくて、新しい武器を渡してあげることだった。ちがう?」

 八雲はそういうと、テーブルの上に置いてあった、スマートフォンを指さした。

 本当は。

 少年がどうしてあのような思考に至ったのか知っている。なぜ平日のこの時間、普通ならば学校のある時間に外を出歩いているのか。私は知っていた。だからこそ、いつか少年の味方となってあげられるものは、たくさん用意してきた。

「だが、少年には真っ向から戦う意思なんぞなかったから、渡せなかった」

「その子一人に負わせるのは筋違いだよ。一緒に、立ち向かおうって言ってあげなきゃ。そうやって、正面から戦う方法を教えてあげなきゃ」

 ウェイトレスがまたやってきて、ピザ一枚を置いて去る。八雲はそれを一切れ取ったかと思うと、器用に先端から口に含んだ。

「ほら、早くいかないと。手遅れになっちゃうよ。たぶんいつものところなんでしょ?」

 そういって八雲が早々に二切れ目に手を付けたところで私は、立ち上がった。

「……行ってくる」

 武器も忘れずにもって。

「前よりずっと人間らしくなったね、兄さん」

 八雲はにこりと笑って、さっさと行けとでも言わんばかりに手を振った。

「言われなくとも」

 自動ドアは、私を見送った。

 行くべきは恐らく、河川敷だ。なぜなら、あの日もそこで私たちは出会ったからだ。レストランからそう時間のかからないその場所に向かうと、そこにはやはり少年がいた。

 先ほどまでつけていた一切の貼り物はなくなっていた。

「佐伯さん」

 鼻をすすり涙ぐんだ声がかすかに聞こえる。今にも風の音で消え去ってしまいそうなその声の元へ、ゆっくりと近づいて行った。

「……僕は、幸せになっちゃいけないんですか。だからこんな目に合うんですか」

 何も言えなかった。きっと言う権利もなかった。小さく、草地の上に座り顔をうずめる少年の隣に立つと、その背が非常に小さく感じた。

 少年の幸せについて語る権利は、私にはない。だが、その代わりに、私は少年に聞いた。

「少年。君の本当の望みを聞かせてくれ。君は本当に世界を壊したいのか?」

 君には、分かってほしい。

 私が本当に君から聞きたい言葉を。

「今のままでは、私は君に協力が出来ない。だから、聞かせてくれ」

 小さく傷だらけのその体に真正面から向き合って、それを覆った。とくり、とくりと静かな動きを感じて少し安心してしまう。まだ間に合う可能性があるんだと実感できた。

「君の、本当の望みは。いったい、なんなんだ?」

 少年はそういうと、しゃくりあげながら私の方に力なく頭を乗せて言った。目からこぼれ出る雫が、草露のように地へと落ちて行った。

 

 静かに風がそよぐ。

 川の流れは穏やかに真昼の太陽を映していた。


 ***


「結局、第三者委員会が動いてくれたそうだよ」

「そっか、それは良かったね」

「……これが正解だったか?」

「さあ、どうだろう。この問題に関してはどうすることが正解かとかわからないなあ。大人が入り込むことが正解とも限らないしね」

「そうか……」

 金曜日の夜、ファミリーレストランは、混雑を極めていた。明日から休日の人たちが家族と団らんする場として訪れているのかもしれない。先ほどから小さな子供や、中高生、夫婦の姿が多くみられていた。

 私たちのように座っている人は少ない。

 目の前に肉汁を躍らせながら天井の明かりを映し、きらきらと輝くハンバーグにナイフを入れた。瞬く間にチーズが周囲に広がっていき、大変おいしそうだ。

「今は、上手くいったんだって信じることにしようよ」

「そうだな」

 八雲は、またピザを頼んだらしく……今度は四種のチーズのピザらしい。好きなのだろうか。

「人間の心は、難しいな」

「そうだね。でもだからこそ楽しいんだって、母さん言ってでしょう?」

「ふ、そうだな」

 一口大にハンバーグを切ってチーズをのせて口に入れると、やはりとてもおいしい。この前は食べられなかったから満足だ。

「あ、兄さん今笑ったでしょ!」

「……何がだ」

「口角があがってたよ?」

「そうか? 念願のハンバーグが食べられて本当に良かったからだろうか」

「ほんとう?」

「さあな」

 口の中で咀嚼してただ栄養を補給するための行為であると考えていた食事がこんなにも楽しいものだと実感できたのは、ここに私を連れてきてくれた少年のおかげかもしれない。

 せめて、その恩返しができていれば、私はそれで満足だ。

「八雲、そのピザを一切れくれないか?」

「いいよ、いくらでも」

 相変わらずの自然な笑みで八雲は笑い、私にこういった。

「ピザってみんなでたべるものだからさ」


***

2021/11/25

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