涙枕

 とくり、とくりと静かに自分の内側から鼓動が鳴る。重たい瞼を二、三度上げ下げして……。そして、下げる。ひんやりとした空気が頬をかすめて、舌に乗っかるのを感じた。

 おいしくないな、この空気。

 もっと、おいしいものが食べたい。たとえば、そう、グラタン。ほどよく弾力のあるマカロニがくつくつとホワイトソースで煮詰められて、エビなんかいれちゃったり。これでもかってくらいのパルメザンチーズを振りかけて、たぶん二十分くらいなのかな。じっと、オレンジ色の灯る電子レンジの中の回るグラタン皿を見つめ続ける。ふくりふくりと、ホワイトソースから膨らみができて、弾ける。早く出来上がらないかな、と音楽プレイヤーからオルゴール調の曲を聴いて静かに過ごすのだ。

 空気を噛んでみる。味は、ない。少しひんやりしてるくらい。

 昔は、その下に具材たっぷりの少し濃いめでしょっぱいケチャップご飯をつめたっけ。それがマカロニドリアというものだとは知らずに、ドリアと言われれば全てマカロニドリアだと思っていた。母親に「ドリア作って!」とよくねだっていた。マカロニドリアは、ごちそうだった。母は困り顔をしながらも、家族一人ひとりの分を作って焼いてくれていた。懐かしい。そして、レストランで頼んだドリアにマカロニが乗っていなかったことも。

 あたたかさが欲しくなった。ぎゅっと掛け布団を抱きしめてみる。少し涙が出てきたが、これはあくびのせいなのだ。

 少し前、何だかすごく苦しくなってたまらなくなったことがある。涙が止まらなくて、枕を濡らしながらふとんの上で丸まった。どうしようもならなくて「時間ある?」って送ってしまって、その後すぐに後悔をして「なんでもない」って伝えた。涙は止まってくれなかった。素直になれないわたしを、どうか、どうか、許してください、見捨てないでください、めいわく、なりたくないんです。届かない相手に伝えるように、自分に暗示をかけるように声に出さずに唱え続けた。

 頭が、ぼーっとしてくる。面倒臭くなった、どうでもよくなった。考えたくないのだ、何も。ねちゃえ、全部忘れて。ぜんぶ、わすれて。


   ***


 本を閉じた。

 なんか、気持ち悪くなった。何かが戻りそうになるような、ならないような、必死に抑え込んだ。辛くなって、隣人に寄りかかるととても不思議そうに首を傾げて、そしてわたしの頭を撫でる。

「なんか、このストーリーいやだった。なんで、なんで、全く関係ない人がストーリーを壊しにくるのって。それも含めてストーリーなんだってのに、わたしは、納得できなかったんだ」

 別に聴いてもらわなくてもよかったけど、言いたくて仕方なかったから言ってみた。

「いやだな、いやだな。ぽっと出の他人に、わたしの人生壊されちゃうの、いやだな。どうせ壊されるなら、親友とか、家族とか、…………あなたがいい」

 顔色をうかがう。

 隣人は、困り果てた顔をしていた。こんな顔、させたわけじゃなかったのにな。わたしは、後悔した。ごめんね、こんなこと言うつもりなかったんだけど。たったこれだけのことすら言えなかった。誰かが「卑怯者」と言ったような気がした。そんなの一番自分がわかってるわよ。

 ……言い返せなかった。

「わたし、眠たくなってきちゃった」

 そう言い放って、消して後ろを振り返って隣人を見ないように立ち上がる。口の中に広がるミント味が気にならなくなったのは一体いつからだっただろう。大人になりたくなんてなかった。ずっと、子どもでいたかった。

 寒いな、って思いながら布団にくるまってるとあたたかがやってくる。わたしはそれにしがみついた。忘れたくないと思ったからだった。頭がぼーっとする。

 ねちゃえ、ねちゃえ、ぜーんぶ忘れて!

 ぜんぶ、わすれて。

 いち、にの、さん、って数えたら、……。


 ──もう何も、覚えてなどいなかった。


   ***


 鉄の味がする水は、苦かった。煮沸してもやかんの味が残っている。

 せっかくあっためたのにな。

 そう思っていた時に、美味しそうなインスタントのココアの素を見つけた。切り口を見つけて、粉をカップに振り入れる。鉄の味がする温かい水を静かに注ぎ込めば、懐かしいような、チョコレートの匂いが立ち上る。何かが滴ったような気がした。

 服の裾を引っ張られる。小鳥は、目を擦りながら「ないてるの」の聞いた。泣いてないよ、とは言わずに「眠れないの?」と返すと小鳥は静かにしがみついてくる。小さな翼に温かいカップを持たせると、幸せそうに、頬を赤く染めて照れた。「あたたかいねぇ」と言われたから「温かいね」と返した。

 二人で身を寄せ合って、真っ暗な部屋の中でテレビだけをつける。明日の天気はどうかな、穏やかな季節の絵が流れているね、寒いね、寒いよ、そんなふうに話していると、小鳥はとく、とく、とく、と早い鼓動を聴かせてくれる。生きているんだね、と少しだけほっとした。うすくて心もとないブランケットを二人で半分こして、静かに小鳥の肩を抱き寄せる。まぶたは重たそうだった。

「眠いのね」

「ねむくないよ」

「眠いのよ」

「ねむくないよ」

 落としそうなカップを手に取って静かに小鳥の頭を引き寄せた。

 ねちゃえ、ねちゃえ。

 あなたは悪い夢を見てはだめよ。嫌なことは全部忘れるのよ。わたしのようにならないでね。辛いことがあったなら、いつでもあったかいココア、作ってあげる。鉄の味はわたしだけが飲めばいい。

「おやすみなさい……」

 小鳥は静かに寝息をたてていた。


   ***


 初めから向いてなかったのだと気づけたら、どれだけよかったのだろうか。

 母も、隣人も、小鳥も、もうわたしには居ない。何も覚えられない。初めからわたしの妄想? そうとしか思えない。

 思い出せない。どうしていつも素敵な夢は忘れてしまうのだろうって。でもただ一つだけ心に残るのは「取り返しのつかないことにならなくてよかった」ということ。わがままは、子どものすることだわよ。

 小鳥のあたたかさを思い出してわたしは枕を抱きしめた。冷たかった。鼓動は聞こえない。つらかった。でもこれでよかったんだなって安心していた。

 空気を噛んだ、虚しくなかった。


 それはきっと、寝る前に飲んだココアのせいなんだなって思い込むことにしてわたしはもういっかい、「ねちゃおうか」と呟く。返事はない。ただ、ただ、ぎゅっときつく枕を抱きしめ続けて、雨を待ち望んでいた。



***

2022/10/25

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