第2話 邂逅

 絵画から抜け出てきたかのような、塔の上の姫君。

 その声は高く澄んでいるが、確かに若い男のそれである。


 小鳥の体は鉄格子の隙間をすんなりと通った。イザークは信じられない気持ちで、窓辺から寝台の端、本棚の上、チェストのふちへと羽ばたいて、少しずつ姫君に近づき、その姿をまじまじと眺めた。

 ドレスは腰の高い位置で絞られており、その上からベルトを締めてくびれと胸の膨らみを作っているが、極めて控えめである。鐘のように長く広がった袖口からは指先が慎ましくのぞくだけだった。首元から肩までを覆うふんわりとした肩掛けティペットを巻いて、喉は見えない。

 体の男性的な部分を見事に隠しているのだ。


「いやぁ、凄い。全然わからなかった」


 小鳥のくちばしから聞こえたその声に、姫君は「え」と言って固まった。

 その目の前で、イザークはチェストから飛び降りながら一回転し、しばらくぶりに人の姿へ戻った。


「評判のお姫様がまさか男だったとはね」

「あ、ああ……」


 さあっと血の気の引いた顔で、姫君は床に座り込んでしまった。


「どうか、どうかこのことは黙っていてください。あと少しだけで良いのです」


 姫君は胸の前で手を組み、体を震わせながら懇願した。その肩を優しく叩きながら、「まぁまぁ、落ち着いて」とイザークは笑う。


「思ったより面白いことが起きているみたいだから、挨拶したくなっただけなんだ。僕は面白いことが好きでね。うん、そのはずだ」


 イザークの言葉の意味が掴めず、姫君はただ不安そうに彼の顔を見つめていた。それに構わず、イザークはにこにこと続ける。


「僕はイザーク。『悪い魔法使い』、なんだと思う。たぶん。君はクローデットだっけ? いや、女の名前だし偽名かな」


 そう言われた姫君は、赤い唇をきっと引き結んでから、しっかりとした声音で答えた。


「いいえ。私の名はクローデット。この国の第一王女、クローデットです」






「だから僕は別に、君のことを言いふらそうとは思っていないんだ。今のところはね。ただとても興味がわいたのと、君がとても綺麗なものだから、話を聞いてみたいだけさ」


 イザークは怯えるクローデットを寝椅子に座らせ、自分が目覚めたばかりで、ほとんど何も覚えていないこと、好奇心とぼんやりした衝動だけでこの城、この部屋まで来たことを素直に話した。


「不審者には違いないし全部信じてくれとは言わないけれど、君の秘密を暴露するのが目的ならこんなご対面はしていないだろうな、とは思うよ」


 クローデットは表情を幾分ゆるめて、ほうっと息を吐いた。


「信じます。あなたの不思議な言動にもこれで説明がつきますから」

「……僕が言うのも何だけど、良いのかい? 僕は『悪い魔法使い』だって言ったよ? 君にもっと酷いことをするかも」


 そう言うと、イザークはクローデットを寝椅子に押し倒した。小柄な体はイザークの長身で易々と覆い隠すことが出来てしまう。クローデットは硝子のような瞳をぱちくりとさせ、しかし真っ直ぐにイザークを見つめ返した。


「男の体がお好きですか?」

「正直、わからない。だから試してみようかと」

「あなたが本当に黙っていてくれるなら、構いません」


 イザークの黒髪がクローデットの頬にかかり、その白さを際立たせた。イザークの指がなぞる顎は小さく、まだ幼さが残る。けれどその目には固い決意を宿しているのが見て取れた。


「ふうん。まぁ、嘘なんだけれどね」


 イザークはひょいとクローデットの体を起こして寝椅子に座りなおさせ、その隣に自分も腰を下ろした。


「できれば全部話してくれないかな。気になることが多過ぎる」

「ええ、でも、そろそろ食事の時間なので侍女が来てしまうのです。この秘密を知っているのは本当にごく一部なので、他の者に怪しまれないよう、食事や城内での行事には最低限参加していて。その為にもこの格好を」

「へぇ、身内を騙すために。これはまた妙な話だ」

「それだけの大義があるのです」


 そんな話をしていると、コンコン、と扉を叩く音がした。


「ひめさまー。お食事の用意ができましたよー」


 扉越しに聞こえる声は王女に対するものにしてはやけに気安く、その上これもまた少年のものに聞こえた。


「……侍女?」


 怪訝そうな顔で扉を指さすイザークに、クローデットはふふ、と悪戯っぽく微笑んだ。初めて見せるその柔らかな表情は、春風のようにイザークの心をくすぐった。


「私の着替えを手伝ったりしてもらうものですから、あの子も男なのです。私よりもずっと可愛らしくて……」

「ひめさまー? 寝てるのかな、開けちゃいますよ?」

「いけない、早く行って!」


 最後通告のようにノックの音がする。クローデットは慌ててイザークの背を押して窓辺へ追いやった。


「婚礼までは必ずここにいますから。今は行ってください。侍女に見つかると大変です」

「やれやれ、わかったよ。明日にでもまた来る」


 イザークはまた小鳥の姿になって、あっという間に塔から羽ばたいていった。

 その後姿を、少し羨ましそうにクローデットが見つめていた。






 塔を出たイザークは、途中で夜目のきくフクロウに姿を変え、しかしそこから行く先を見失った。彼には帰る場所が無いのだ。

 宿を取ろうにも金は持っていない。帰るとするならば自分の目覚めた森だ、という感覚はあれど、そこに家があるわけでもない。悩みながらゆっくりと夜空を飛んでいるところへ、近づいてくる小さな光があった。彗星にしては弱い光。しかしそれがかなりの速さでやってきたかと思うと、断りもなくぴょいとイザークの背に飛び乗った。


「あんたがイザークね! まったく探したんだから。」

「え、何、妖精?」

「女王様に言われてきたの。黙ってあたしの言うとおりに飛んでちょうだい。早く、早く、すっごくお待たせしてるんだから」


 鈴の鳴るような声が耳元で喚き、ぐいぐいと大事な羽根を引っ張られ、「わかった、わかったから」と、イザークは小さき者の言いなりになるしかなかった。

 乱暴な案内に従いながら飛んで行くと、森の中の、奇妙に開けた野原に着いた。そこにだけ木が生えていない代わりに、茸が膨らみ、夜に咲く花々が白い花弁を月に向けている。この場所に満ちる不思議な魔力を、イザークは知っている気がした。

 イザークの背に乗っていた小さな妖精がふわふわと浮いて「連れてきました、女王様!」と叫ぶと、月光の中に女性の姿が現れた。


「おかえりなさい、イザーク。森のいとし子」


 その女性は春の新芽のような緑の髪を複雑に編み込み、不気味なほどつるりとした肌に虹色の瞳を持ち、薄く透けた大きな四枚のはねを生やしていた。


「あなたは、いったい……僕をご存じで?」

「嗚呼、やはり忘れてしまったのですね。お前は人間にしては随分と長く眠っていたもの」


 目の前の女性は、イザークを寂しげに見つめながら言った。


「わたくしは妖精の女王。お前はこの森で、わたくしたちの愛を受けて育ったのです」




「まずはわたくしたちのことを思い出してほしいわ」と、妖精の女王はイザークの頭や胸に触れながら、記憶を戻すすべを探した。しかし、やがて彼女の口から漏れたのは大きな溜息だった。


「やはり、この魔法はわたくしたちとは形が違っていて、わたくしの力では全てを戻すことはできません。けれどこの森での記憶だけならば、どうにか」

「お願いできるでしょうか」

「ええ、もちろん」


 妖精の女王は瞳を閉じ、人の耳には聞き取れない言葉で長い呪文を唱えたかと思うと、イザークの額へ優しく口付けした。

 途端に、忘れていたいくつもの情景が一度に思い出され、イザークの頭の中がはちきれそうになる。女王の大きな腕の中で痛みと吐き気、眩暈に襲われながらイザークはもがき、やがて気を失ってしまった。







 イザークは、森に捨てられた子供だった。

 貧しい両親が口減らしのため森に置き去りにしたのだ。イザークはそこで死ぬはずだった。しかし森をさまよっていたイザークを最初に見つけたのが当時の“ 森の王”だった為に、彼は生き永らえたのだ。

 この森には妖精の女王が住み着いたことで魔力が満ちるようになり、それが強く宿った獣が“ 森の王”となるのだった。“ 森の王”は他の獣はもとより、人間以上の知識や力を得て、この特別な森を守る存在になる。それは鹿であったり、鷲であったりしたが、イザークのときは大きな雄の熊だった。

 “ 森の王”はイザークを一目見て、生まれつき持つ高い魔力を感じ取った。そこで妖精の女王に引き合わせ、魔法の扱いを覚えさせてはどうかと話した。森が人間に荒らされることが増えていたので、「人間を追い払うための人間」がいれば便利だろうと考えたのだ。

 妖精の女王はイザークをことのほか気に入り、妖精たちと遊ばせ、丁寧に魔法を手ほどきした。彼らの魔法が性に合っていたのか、イザークはいつの間にか並の人間では敵わないほどの魔法使いに成長していた。

 “ 森の王”は、悪戯好きで浮世離れした妖精たちに全てを任せていたわけではなかった。賢明な“ 森の王”はイザークがいつか森を出ることもあるだろうと考え、守るべき森の倫理だけでなく、人と獣と妖精の在り方の違いや、知る限りの人の社会についても教えていた。イザークが父と呼ぶ存在があるならば、この“ 森の王”に違いなかった。

 しかし“ 森の王”は熊であったので、冬の間は岩窟で眠り、その間にイザークと妖精たちが羽目を外してしまうのは毎年のことだった。そのおかげで性質が妖精に近くなってしまったのかもしれなかった。

 そうしてイザークが十七になった春の終わり頃。“ 森の王”はイザークに「人の世も見てくると良い」と諭すように言い、静かに息を引き取ったのだった。




 そこまでをしっかりと思い出したところで、イザークは目を覚ました。

 その瞬間に、彼の顔を覗き込んでいた小さな妖精たちがわっと散っていく。

 イザークは妖精の女王の膝を枕に横たわっていて、彼の頭を女王の手が優しく撫でていた。そのひんやりとした感触が、イザークにはひどく懐かしい。


「ありがとう。僕の根っこのところを、思い出すことができました」

「良かった。わたくしも嬉しいわ」


 女王の整った顔を見上げながら、イザークは尋ねた。


「僕は、どれくらいあの岩窟に縛られていたのです?」

「人の時間で言うと、五百年ほどでしょうか」

「ごひゃく……」


 イザークはまた気が遠くなるところを耐え、力なく苦笑した。


「道理で、見知った顔がいないわけだ。その中で女王陛下、あなただけが変わらずお美しい」

「わたくしは、わたくしだもの」


 妖精の女王は五百年前と一つも変わらない顔で、にっこりと微笑んだ。

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